ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2009年01月

第5章 メルキゼデク

聖書中、祭司に関して最初に言及している箇所は、創世記の14章18節から24節までです。それはサレムの王であるメルキゼデクの話です。このアブラハムとメルキゼデクのストーリーの背後には、いろいろな意味が隠されています。それでは神が、そのストーリーの中にどのようなメッセージを隠しておられるのか、見てみることにしましょう。

メルキゼデク・・・新しい祭司のひな形

まず初めに、旧約聖書は、新約聖書における霊的真理を映し出す象徴やひな形で満ちていることを知らなければなりません。メルキゼデクとアブラハムの物語もその一つです。その物語は、大祭司であるイエス・キリストについて語っています。また万人祭司制を通しての教会の働きや、教会における人間関係について語っています。メルキゼデクは、キリストにある新約的祭司制のひな形です。重要な点は、メルキゼデクが、モーセの律法に基づいたアロン的レビ的祭司制よりも前に存在していた祭司であるということです。ヘブル7章は、メルキゼデクがレビの秩序に従った祭司ではないことをはっきりと述べています。なぜならレビは、メルキゼデクの時代にはまだ存在していなかったからです!メルキゼデクの祭司職は、律法の下にはありませんでした。なぜならそれは、聖霊によるよみがえりの力に基づいた、永遠の祭司職だからです。ですからメルキゼデクは、神の永遠の目的に関する御心の全般を代表しているのです。

メルキゼデクに関しては、理解しておくべき興味深い点が幾つかあります。

●メルキゼデクは王であり祭司

メルキゼデクは、旧約聖書中でただひとり、王であると同時に祭司である人物として知られています。もちろんこのことは、キリストが王の王であり、大祭司であることを表しています。それと共に、教会が王であり祭司であることも表しています。

「また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。」黙示録1:6

神は私たちを、王また祭司として召してくださっています。私たちに与えられている王としての立場とは何かといえば、私たちがキリストの権威によって統べ治めるようになるということです。また私たちの祭司の立場がどういうものかといえば、キリストにあって奉仕をするということです。私たちは、今のところ「見習い中の王」です。御言葉は、もし私たちが勝利するなら、キリストと共に治めるようになるとはっきり語っています。

「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」黙示録3:21

私たちの祭司としての働きと王としての立場は、永遠なるものです。神は私たちを、宇宙の共同統治者とされるのです。また私たちは、祭司として神と人とに仕えることにもなります。読者のみなさんはどうかわかりませんが、私はこのことを考えると実にわくわくするのです!神は永遠の奉仕に向けて、私たちを整えたいと願っているのですから。そのために私たちは今、オン・ザ・ジョブ・トレーニング(実地訓練)受けているのです!

●メルキゼデクはサレムの王

サレムとは、エルサレムのいにしえの呼び名です。エルサレムとは、ヘブル語で平和を意味します。ですからメルキゼデクは、平和の王でした。どこかで聞き覚えがありませんか。そうです。これは「平和の君」であるキリストのひな形なのです。このことは、私たちがキリストにあって安息することを表しています。主イエスは言われました。「わたしはあなたがたのたましいに安息を与えます」と。

エルサレムは聖なる街です。またダビデの町であり、聖書の多くの箇所で、神の都市として表現されています。黙示録では21章で、新しい都市、神ご自身によって建てられた新しいエルサレムとして描かれています(ヘブル11:10)。そしてもはや太陽も月も必要ありません。なぜなら主なる神と小羊がその光となるからです。黙示録21:10には、新しいエルサレムが、神のみもと、天から出て、くだってくると書かれています。この箇所は天についてではなく、天から「出て」、地上に下りてくる都市について語っています。そして9節では、この都市が何であるかが書かれています。それは花嫁です。小羊の妻です。小羊がキリストでなくて、いったい誰でしょう。キリストの花嫁そして妻とは、いったい誰でしょうか。教会ではありませんか!私たちは、これが真実であることを知っています。なぜならパウロが、キリストと教会は夫と妻であると、エペソ5章ではっきり述べているからです。

●メルキゼデクはアブラハムにパンとぶどう酒をもたらす

このパンとぶどう酒は、私たちが主の晩餐あるいは聖餐と呼んでいる、新しい契約の食事を指しています。メルキゼデクはキリストのひな形です。そして私たち(教会)はみな、信仰によってアブラハムの子孫です(ローマ4:16)。ですからこのことは、キリストが教会と共に契約の食事をすることを表しているのです。

メルキゼデクはアブラハムを祝福しました。創世記14:19~20にそのことが書かれています。そして新約聖書では、同じような祝福が、教会である私たちに注がれているのを見ることができます。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
エペソ1:3~6

神はキリストにあって、すでに私たちに「すべての」霊的祝福を与えてくださっているのです!神はキリストのいのちを私たちの霊の内に住わせることによって、天に至る道を与えてくださいました。万人祭司制を実践するとき、私たちはそれらの祝福が、自分や兄弟姉妹たちの内にあることに気付きます。神がそれらの祝福を決して隠すことなく、私たちにすでに与えてくださっていたことに気付くのです。というのは、それらの祝福は、キリストのからだの各器官の中に隠されているからです。神は私たちに、たくさんの祝福を与えてくださっています。そしてそれらの祝福は、ひとり一人の信者の中に宿っているのです。問題は何かといえば、諸教会における誤った風習と誤った霊的構造のゆえに、それらの祝福がおもてに出されていないということです。開かれた心で聖書を学ぶなら、私たちは、キリストが神の栄光を反射する、大きなプリズムのような役目をしていることに気付くでしょう。そのプリズムに神の光が反射すると、その光は様々な色に分かれて、美しい虹として映し出されるのです!しかし現時点においては、まだ1色か2色しか見えていません。しかし神は、その虹を完全なものに回復しつつあります。

●メルキゼデク的祭司制はレビ的祭司制と完全に異なる

ヘブル7:11~28を見ると、メルキゼデクの秩序はアロンの秩序とまったく異なっていることがわかります。アロンの祭司職を支えている力は律法です。しかしメルキゼデクの祭司制の力は朽ちることのない命です。メルキゼデクの秩序が、キリストと教会による新約的祭司制の、旧約におけるひな形であることは明らかです。この祭司制の土台は何かといえば、イエス・キリストの復活の力です!律法でもなければ伝統でもなく、規則でもなければ掟でもありません。ガラテヤ人への手紙でパウロが教えているところの、御霊のいのちに土台を置いているのです。肉の力では、この祭司の役割は果たせません。御霊の促しに従うことによって私たちが神に服従するとき、はじめてその役割を実現することができるのです。私たちが祭司としてどのように機能すべきかは、聖霊の力によって奉仕をすることでしか学ぶことができません。私たちは、神のいのちを内に宿しています。ですから、そのいのちによって生きるということを学ぶ必要があるのです。こんにち未成熟なクリスチャンがあふれているのは、それができていないからです。アメリカでは、教会の99%が何かのショーを行なっていると言っても過言ではありません。聴衆がいて、役者がいるのです。会衆は聴衆であって、神と兄弟姉妹とに仕える万人祭司とは言えません。ほとんどの奉仕を牧師がやってしまっているために、聖徒たちは御霊の声に聞き従うことをいつまでたっても学ぶことができないのです。なぜなら、牧師が彼らの代わりに奉仕をしてくれるので、彼らにはその必要性が感じられないのです!

●メルキゼデクの祭司制は永遠

「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの秩序による祭司である。」ヘブル7:17(英訳)

この箇所でヘブル書の執筆者は、詩篇110:4を引用しています。それは、キリストと教会の祭司制がメルキゼデクによって予表されたものであり、永遠なる祭司職であることを示すためです。ヘブル7章3節は、メルキゼデクには、父親の記録も母親の記録もないことを述べています。またメルキゼデクが、いつまでも祭司としてとどまると述べています。レビ系の祭司職は一時的だったのです。しかしメルキゼデクによる祭司制は永遠であり、神の御心をまっとうするのです。神の目的を果たすことができるのは、永遠なる祭司制だけです。御父の目的は万物をキリストで満たすことなので、父なる神は愛する御子のいのちに基づく祭司制を必要としておられるのです。メルキゼデクが実際の人間であったのか、それとも受肉以前のイエス・キリストであったのかはわかりません。しかしそれは、重要ではありません。重要なのは、キリストと教会とによる新約的祭司制が、アロン的レビ的祭司職の型にならったものではないということです。レビ的祭司職に関する学びから多くの洞察を得ることができるのは確かであり、それもまた、キリストにある新しい祭司職のひな形と予表です。しかしヘブル7章に書かれているように、祭司職が大きな変化を遂げたことを私たちは悟らなければなりません。神がもともと意図していた祭司制を完全に理解するためには、イスラエルの祭司制と国家としてのイスラエルとがどのような関係にあったかを振り返る必要があります。


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第2章 駐車場の中で自由を見出す

公共の駐車場をイメージしてみてください。駐車場には境界線がありますね。その境界線によって、私たちは駐車場の敷地がどこからどこまでか知ることができます。また駐車場の内側と外側に何があるかもわかります。

駐車場の素晴らしい点は、自由であることです。駐車場の中であれば、車をどの駐車スペースに停めてもよいのです。駐車スペースがある限り、そして、誰かの専用の駐車スペースでない限り、ドライバーたちは自由に駐車スペースを選ぶことができます。

確かに、ある人は他の誰かよりも賢い選択をするかもしれません。もし雨天であれば、建物に近い駐車スペースに停めたほうが、遠く離れたところに停めるよりも賢いし、利点があります。しかしその一方で、多くの場合、駐車スペースの利便性はどのスペースも同じようなもので、大差はありません。

神の御心というテーマを、もう少し深く探ってみたいと思います。そのために、神が人間に対して一番最初に与えた命令について考えることにします。神が人に対して御心を示されたのは、その時が初めてでした。これから話すことは、洞察に満ちていると思っています。



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●必要なのは悟り

詩篇32:8~9は、私が語ろうとしているポイントを的確に示しています。詩篇の著者を通して主はこう語っています。

わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。
わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
あなたがたは悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。
それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない。(新改訳)

馬や騾馬には悟りがありません。彼らには分別がありません。判断ができないのです。悟りがないので、馬や騾馬はくつわや手綱で右や左に引かなければなりません。また、どこへ向かうかもそのつど指示しなければならないのです。主は言われました。「わたしはあなたがたに行くべき道を教えよう。あなたがたは悟りのない馬や騾馬のようであってはならない」と。

こんにちほど、主の民に悟りが必要な時代はありません。多くのクリスチャンが吸収してきた教えは、実質的に悟りを捨てさせる教えです。そしてその教えのゆえに、悟りに関して、馬や騾馬と同等のレベルに引き下げられています。主の民は、「こちらに行きなさい。あちらに行きなさい。こういう時にはこうするのです。こういう時にはそうしていはいけません。」と神が言ってくださり、あなたを右左に御してくださることを期待しています。

しかし主は民に言われます。「そのようになってはいけません」と。

この詩篇の箇所が意味しているところはこうです。神は私たちに悟りを与えることによって、教えてくださり、指示ししてくださり、導いてくださいます。それゆえ、悟りを求めなさい。そうすれば、悟りがあなたがたを行くべき道に案内します。

兄弟たち。物の考え方(悟り)においては子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方(悟り)においてはおとなになりなさい。(汽灰螢鵐硲隠粥В横亜

次の言葉をもって、この章を閉じたいと思います。
「神の御心は、列車の線路のようなものではありません。むしろ駐車場に似ているのです。」



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数日前に届いた本(下記)にとても感銘を受けることが書かれていたので、翻訳・抜粋して掲載したいと思います。


「万人祭司」-The Priesthood of All Believers- by Milt Rodriguez P19~P23

第6章 聖職者の勃興

クリスチャンに対してもっとも破壊的である概念および制度は、一部の信者を「聖職者」、他の信者を「平信徒」として区別していることです。

この「聖職者と平信徒」の区別制度は、いくら考えても納得のいかないことです。そもそも有給の聖職者という概念は、聖書の中に見出すことができるでしょうか。この体制は、いったいどこから由来したのでしょう。教会の中に、「階級制度」なるものが存在するのだろうか。ある人を4年間神学校へ送り出し、資格と任命を授け、自分たちの教会用の「聖職者」として給料を支払うというのは、神の計画なのだろうか。もしプロのクリスチャンなるものが存在するのであれば、アマチュアのクリスチャンもあるのでしょうか。読者の方々も、この疑問に対する答えを知りたいはずです。


●聖職者制度の起源

まず初めに問うべきことは、聖職者制度の発祥です。新約聖書の中に、有給の聖職者制度について書かれているでしょうか。説教や教え、洗礼式、任命式、主の晩餐、結婚式、葬儀、カウンセリングなどの奉仕をするために聖職者を分別するという制度を、聖書は定めているでしょうか。1世紀の教会の中に、そのような人物を雇い、自分たちの教会の「聖職者」にするために給料を支払った教会があったでしょうか。答えは、断じて「ノー」です。こんにちの聖職者制度のようなものは、新約聖書の中に見出すことはできません。そのようなものは存在しないからです。新約聖書の中に見られるのは、互いに仕え合う信者の集合体のみです。そこに書かれているのは「万人祭司」であす。分別された一部の者たちではなく、信者の集まり全体が役割を果たしている姿です。神はそのような姿を御心としておられるのではないでしょうか。神の願いは、キリストがすべてのすべてになることです。もちろんそれは、すべての信者がキリストに仕えるときはじめて成り立つもの。神が求めているのは、キリストの満ち満ちた姿の実現です。その満ち満ちた姿は「みからだ」の中にあるのであって、選別された一部のエリート階級の中にあるのではありません。信者全員がキリストを宿しているのですから、信者全員がキリストを表現する必要があるのです。

残念ながら、「聖職者・平信徒」区別制度は、教会の中で総員が役割を果たすことの妨げとなってきました。総員奉仕は、今や「牧師」や賛美リーダーに取って代わられてしまっています。それ以外のいわゆる「平信徒」は、歌うことは別として、単なる聴衆に成り下がってしまっています。いくつかの「進歩的な」教会の礼拝では、会衆に(個人的に教えられたことや体験したことなどを)分かち合う時間を持つことが許可されています。何ということでしょう。キリストの教会が、分かち合うことに「許可」を必要としているとは。御霊によって生れた信者はだれでも、教会の集会において何らかの役割を果たす霊的権利があるはずなのに!

私は教会の中に、信者が奉仕したり、リーダーシップを発揮できる合法的な場がないと言っているのではありません。けれどもそのリーダーシップは、諸教会に広く普及していはいません。パウロは汽灰螢鵐硲隠仮呂如△澆らだのすべての器官には、働きと機能があるとい述べています。それらの働きや機能は、召しに応じてひとり一人異なっているのです。クリスチャンは全員が同じ働きに召されているわけではありません。私たちは傍観者に召されてはいないのです!

1世紀の終わりまでは、諸教会はイエス・キリストを(実際的に)教会のかしらとしつつ、(一部の指導者ではなく)兄弟姉妹たちによって運営されていました。長老たちがいる教会もありましたが、長老とは「羊飼い」であって、兄弟姉妹たちの間で模範を示すことによって群れを導いていました。こんにちのような聖職者や牧師は存在しなかったのです。それでは聖職者制度はどこから来たのでしょうか。


●単一奉仕者の起源

2世紀の初頭に、各地域教会に単一の統治者を置くべきだと主張する人物が現れました。彼の名はアンテオケのイグナチウスと言います。彼は、監督の「職」は長老の職とは異なっており、各教会は長老たちの「上」に一人の監督を置くべきだと主張したのです。また、監督は会衆と長老たちに対し、絶対的な権威を持っていると教えました。監督が聖餐式や洗礼式、結婚式、説教など、キリスト教の「典礼」を執り行うべきだとしました。2世紀中頃までには、この制度がほとんどの教会に取り入れられました。

3世紀にはカルタゴのシプリアンが登場し、万人祭司にさらなるダメージを与えました。シプリアンは回心する以前は、異教の演説家でした。ですから彼は、教会の中に多くの異教的な考えを持ち込んだのです。祭司、寺院、祭壇、捧げ物など、旧約の秩序をよみがえらせた責任は彼にあります。監督はそれ以降「祭司」と呼ばれるようになり、神の代理人として受け入れられるようになりました。そして祭司に言い逆らう者は、神ご自身に敵対する者と見なされたのです!もちろんこれによって、万人祭司制は一層深刻な打撃を受けることになりました。

けれども問題は、なぜ諸教会がこのようなことを許容したかということです。私の考えでは、こんにちのように聖職者と平信徒の区別が広がったのは、教会内部の、一つの根源的な問題によります。確かに聖職者制度の勃興には表面化した様々な理由があります。人々が権力と卓越のとりこになったこと、世俗的システムを導入したこと、旧約の祭司制度に関して誤った解釈をしたこと、新約の中にアロン的祭司制度を導入したことなどです。しかし、このあと検証していきますが、それらの内のいずれも、聖職者勃興の根源的な理由ではないのです。

教会の中に、間違った風習や教義が持ち込まれた理由はただ一つです。それは教会がキリストを中心に据えることを怠り、キリストを最高位から引き摺り下ろしたからに他なりません!それによって教会は弱まりました。キリストのいのちの光が消し去られてしまったからです。御霊は虐げられ、教会はこの世と肉と悪しき者の影響を受けました。その時点で神の目的は行き詰りました。なぜなら、もはや教会がキリストを自由に表現できなくなってしまったからです。


●新しい秩序における祭司

本書が執筆された目的は、読者の方々が万人祭司の回復の必要性を理解する手助けをすることです。こんにちの教会がキリストの満ち満ちた姿を現していない理由は多々ありますが、このあとその中心的な理由を見ていきます。次章では、聖書における祭司観の概略を捉えたいと思います。私たちは、旧約の祭司と新約の祭司の違いを理解する必要があるのです。

●Yさん
先週会えなかったYさんが再び集会に来てくれた。まだどんな兄弟なのか詳しくはわからないが、物静かではあっても積極的に発言してくれるし、祈りにも熱心に参加してくれる良い兄弟だ。同じ県の隣りの市に住んでいることがわかった。

それにしても、次から次へと、主はよくもこれだけの兄弟姉妹たちを連れてくるものだ。驚いてしまう。別に宣伝しているわけでもないのに。人間関係を通しての広がりは力強いし、定着度もとても高い。別に本人の口から聞いたわけではないが、Yさんは今後も来てくれると思う。


●集会
今回は、P兄の都合で時間的に短めの集会となったが、中身はとても濃かったと思う。

今集まっているメンバーには、精神的な病や心の傷を深くおった人が多い。だから話題もそういう話になることが多いが、今回もそうだった。普通の教会では、なかなか言い出せそうもない内面的な問題を、心を開いて語り合えるのは素晴らしい環境だと思う。(実際、自宅の近所の教会に通っていたときは、礼拝後の交わりの時間に、誰も自分の心の傷とか精神的な病について話す人はいなかった。1年余りいたが一人もいなかった。)

当然祈りも、内なるいやしの祈りとなった。

特にT・H姉妹には聖霊が強く働いたらしく、みんなで祈ったときに、心の痛みに触れられて号泣していた。体感的にも、聖霊あるいは神の力が胸の辺りを上から下に流れるのを感じたと言っていた。

前にも書いたが、定期の集会でこういう働きが起こるのはとても素晴らしいと思う。少人数で、しかも信者の家というくつろげる場所でやっているので、小回りが利いて何でもありである。

今聖霊は、ひとり一人の内側をいやしておられる。ますますそのように働いていただきたい。いやされた人たちは、のちに大きく用いられてゆくと思う。今の時代、同じような問題を抱えた人は数多くいる。主によっていやされ、解放された証は、多くの人をキリストに導くに違いない。


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