それでは、どのようにして思いを一新すればよいのでしょうか。一つは、主の臨在の中で主と交わることです。また主から語られたことに従うことです。そして御言葉を学び、神の考え方を受け入れることです。これら3つの要素によって、私たちの思いは、主の御心に調和するようになります。
さて、もう一つの箇所は、ヘブル5:14です。
「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」
この箇所は、霊的成熟に関するポイントを示しています。つまり、主に服従することによって、私たちの霊的感覚は正確になるということです。上記の御言葉は、成熟した信者は「経験によって」訓練された「感覚」を持っており、それによって良い物と悪い物を「見分ける」と教えています。つまり成熟した信者は、あらゆる状況で神の倫理的御心を見分けることができるということです。
最後に使徒の働きの中から、もう一つの観点へと導いてくれる御言葉を見ておきましょう。使徒24:16はこう言っています。
「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」
私たちはみな、良心を持っています。みなさんの良心は、みなさんが神の倫理的御心から逸れてしまった場合に、それを指し示すモニター、あるいはアラームのようなものです。倫理的御心を損なうと、みなさんは良心の呵責を感じます。それは、神の敵から来る罪責感とは違います。あるいは説教者から、あなたはひどいクリスチャンだと叱責されたときに感じる罪責感とも違います。良心の呵責は、神の住まいである、あなたの霊から来るのです。
真理を証しするものが二つあります。聖霊とあなたの良心です(ローマ9:1)。ですから、あなたの良心は、神の倫理的御心を見分けることができるのです。あなたの良心をつまずかせるものには、触れるべきでありません。あなたの良心が許容するものは、触れても大丈夫なものです。最終章では、良心のもう一つの側面を学びます。良心が形成される行程との関連についてです。(聖書は「無感覚になった」良心についても教えているからです。)ただその問題は、良心が麻痺してしまうまで良心の呵責を拒絶し続けた人に関するものです。汽謄皀藤粥В押
●まとめ
ここまでをまとめると、私たちは5つの燈台を持っています。それらは私たちを、神の倫理的御心に導きます。
1.聖霊による促しと直感:これらは思いと心に書き込まれています(ヘブル8章、ローマ8章、ガラテヤ5章)。
2.御言葉の証し(競謄皀藤馨蓮
3.思いの一新(ローマ12章)
4.霊的感覚の継続的な訓練(ヘブル5章)
5.良心による指針(使徒24章)
これら5つの燈台は、エペソ5:17にあるパウロの言葉をまっとうします。
「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」
この御言葉が書かれている文脈は、倫理的御心に関するものです。キリストの義の道について書かれています。
ある程度の信仰歴のある方なら、倫理的御心を見分けるのは、さほど難しくないはずです。繰り返しますが、倫理的御心とは駐車場のようなものだと思ってください。愛の外側に歩み出てしまうことは、この駐車場の外に出てしまうということです。愛のうちを歩むことは、駐車場の中を歩くことです。
念のために付け加えます。倫理の問題に関して内なる促しを信頼できるのは、促しが聖書に書かれている倫理的御心と一致している場合のみです。御言葉の学びが欠かせないのは、このためです。御言葉はキリストを表すだけでなく、私たちの霊に糧を与えます。また、主の指示の仕方を教えてくれます。聖書に書かれているキリストと、私たちの内側におられるキリストは同じ方だからです。そしてキリストは、きのうも、今日も、いつまでも同じなのです(ヘブル13:8)。ハレルヤ!
次章では、非倫理的判断について取り扱います。つまり、駐車スペースをどうやって選ぶかについてです。
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さて、もう一つの箇所は、ヘブル5:14です。
「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」
この箇所は、霊的成熟に関するポイントを示しています。つまり、主に服従することによって、私たちの霊的感覚は正確になるということです。上記の御言葉は、成熟した信者は「経験によって」訓練された「感覚」を持っており、それによって良い物と悪い物を「見分ける」と教えています。つまり成熟した信者は、あらゆる状況で神の倫理的御心を見分けることができるということです。
最後に使徒の働きの中から、もう一つの観点へと導いてくれる御言葉を見ておきましょう。使徒24:16はこう言っています。
「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」
私たちはみな、良心を持っています。みなさんの良心は、みなさんが神の倫理的御心から逸れてしまった場合に、それを指し示すモニター、あるいはアラームのようなものです。倫理的御心を損なうと、みなさんは良心の呵責を感じます。それは、神の敵から来る罪責感とは違います。あるいは説教者から、あなたはひどいクリスチャンだと叱責されたときに感じる罪責感とも違います。良心の呵責は、神の住まいである、あなたの霊から来るのです。
真理を証しするものが二つあります。聖霊とあなたの良心です(ローマ9:1)。ですから、あなたの良心は、神の倫理的御心を見分けることができるのです。あなたの良心をつまずかせるものには、触れるべきでありません。あなたの良心が許容するものは、触れても大丈夫なものです。最終章では、良心のもう一つの側面を学びます。良心が形成される行程との関連についてです。(聖書は「無感覚になった」良心についても教えているからです。)ただその問題は、良心が麻痺してしまうまで良心の呵責を拒絶し続けた人に関するものです。汽謄皀藤粥В押
●まとめ
ここまでをまとめると、私たちは5つの燈台を持っています。それらは私たちを、神の倫理的御心に導きます。
1.聖霊による促しと直感:これらは思いと心に書き込まれています(ヘブル8章、ローマ8章、ガラテヤ5章)。
2.御言葉の証し(競謄皀藤馨蓮
3.思いの一新(ローマ12章)
4.霊的感覚の継続的な訓練(ヘブル5章)
5.良心による指針(使徒24章)
これら5つの燈台は、エペソ5:17にあるパウロの言葉をまっとうします。
「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」
この御言葉が書かれている文脈は、倫理的御心に関するものです。キリストの義の道について書かれています。
ある程度の信仰歴のある方なら、倫理的御心を見分けるのは、さほど難しくないはずです。繰り返しますが、倫理的御心とは駐車場のようなものだと思ってください。愛の外側に歩み出てしまうことは、この駐車場の外に出てしまうということです。愛のうちを歩むことは、駐車場の中を歩くことです。
念のために付け加えます。倫理の問題に関して内なる促しを信頼できるのは、促しが聖書に書かれている倫理的御心と一致している場合のみです。御言葉の学びが欠かせないのは、このためです。御言葉はキリストを表すだけでなく、私たちの霊に糧を与えます。また、主の指示の仕方を教えてくれます。聖書に書かれているキリストと、私たちの内側におられるキリストは同じ方だからです。そしてキリストは、きのうも、今日も、いつまでも同じなのです(ヘブル13:8)。ハレルヤ!
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