ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2009年02月

それでは、どのようにして思いを一新すればよいのでしょうか。一つは、主の臨在の中で主と交わることです。また主から語られたことに従うことです。そして御言葉を学び、神の考え方を受け入れることです。これら3つの要素によって、私たちの思いは、主の御心に調和するようになります。

さて、もう一つの箇所は、ヘブル5:14です。

「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」

この箇所は、霊的成熟に関するポイントを示しています。つまり、主に服従することによって、私たちの霊的感覚は正確になるということです。上記の御言葉は、成熟した信者は「経験によって」訓練された「感覚」を持っており、それによって良い物と悪い物を「見分ける」と教えています。つまり成熟した信者は、あらゆる状況で神の倫理的御心を見分けることができるということです。

最後に使徒の働きの中から、もう一つの観点へと導いてくれる御言葉を見ておきましょう。使徒24:16はこう言っています。

「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」

私たちはみな、良心を持っています。みなさんの良心は、みなさんが神の倫理的御心から逸れてしまった場合に、それを指し示すモニター、あるいはアラームのようなものです。倫理的御心を損なうと、みなさんは良心の呵責を感じます。それは、神の敵から来る罪責感とは違います。あるいは説教者から、あなたはひどいクリスチャンだと叱責されたときに感じる罪責感とも違います。良心の呵責は、神の住まいである、あなたの霊から来るのです。

真理を証しするものが二つあります。聖霊とあなたの良心です(ローマ9:1)。ですから、あなたの良心は、神の倫理的御心を見分けることができるのです。あなたの良心をつまずかせるものには、触れるべきでありません。あなたの良心が許容するものは、触れても大丈夫なものです。最終章では、良心のもう一つの側面を学びます。良心が形成される行程との関連についてです。(聖書は「無感覚になった」良心についても教えているからです。)ただその問題は、良心が麻痺してしまうまで良心の呵責を拒絶し続けた人に関するものです。汽謄皀藤粥В押


●まとめ
ここまでをまとめると、私たちは5つの燈台を持っています。それらは私たちを、神の倫理的御心に導きます。

1.聖霊による促しと直感:これらは思いと心に書き込まれています(ヘブル8章、ローマ8章、ガラテヤ5章)。

2.御言葉の証し(競謄皀藤馨蓮

3.思いの一新(ローマ12章)

4.霊的感覚の継続的な訓練(ヘブル5章)

5.良心による指針(使徒24章)


これら5つの燈台は、エペソ5:17にあるパウロの言葉をまっとうします。

「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」

この御言葉が書かれている文脈は、倫理的御心に関するものです。キリストの義の道について書かれています。

ある程度の信仰歴のある方なら、倫理的御心を見分けるのは、さほど難しくないはずです。繰り返しますが、倫理的御心とは駐車場のようなものだと思ってください。愛の外側に歩み出てしまうことは、この駐車場の外に出てしまうということです。愛のうちを歩むことは、駐車場の中を歩くことです。

念のために付け加えます。倫理の問題に関して内なる促しを信頼できるのは、促しが聖書に書かれている倫理的御心と一致している場合のみです。御言葉の学びが欠かせないのは、このためです。御言葉はキリストを表すだけでなく、私たちの霊に糧を与えます。また、主の指示の仕方を教えてくれます。聖書に書かれているキリストと、私たちの内側におられるキリストは同じ方だからです。そしてキリストは、きのうも、今日も、いつまでも同じなのです(ヘブル13:8)。ハレルヤ!

次章では、非倫理的判断について取り扱います。つまり、駐車スペースをどうやって選ぶかについてです。


ご面倒でなければ、ここをクリック。
    ↓↓↓↓↓
https://philosophy.blogmura.com/christian/ にほんブログ村 キリスト教

●服従と従順

服従(subjection)と従順(obedience)の違いは何でしょうか。服従は心の姿勢です。そして従順は行いです。服従は絶対的ですが、従順は相対的です。服従は無条件ですが、従順は条件付です。服従は内側の問題ですが、従順は外側のことです。

神は、この世に立てた権威者に対して、へりくだって服従するようクリスチャンに勧めています。しかしもしこの世の権威者が神の御心を侵害する行為を行うよう私たちに命じるなら、私たちは彼らに従順してはならないのです。なぜなら神の権威のほうが、この世の権威よりも上だからです。

言い換えると、(心の中で)服従しながらも、(行いにおいては)不従順するということがあり得るということです。地上の権威者に対してへりくだった服従の精神を持ちながらも、その権威に対して逆らう(不従順する)ことがあり得るのです。反駁、中傷、(体制の)転覆の精神を嫌い、尊敬の念を持ちながらも、不従順するということはあり得ます(汽謄癸押В院腺押↓競撻藤押В隠亜▲罐寸検法

ヘブル人の助産婦たちの不従順(出エジプト1:17)、ラハブ(ヨシュア2:1)、シャデラク、メシャク、アベデネゴ(ダニエル3:17~18)、ダニエル(同6:8~10)、使徒たち(使徒4:18~20、5:27~29)。これの人たちはみな、公務上の権威に服従する原則を保ちながらも、それが神の御心に反する場合には不従順しているわけです。また権威者に服従する姿勢を持ちながらも、その人を戒めるというケースもあり得ます(マタイ14:3~5、使徒16:35~39)。

神はこの世には公務上の権威を置きましたが、教会の中にはこの種の権威は導入しませんでした。もちろん、信者には一定の権限を行使する権威(エクソウシア)を与えています。それらの権威には、神の子どもとなる特権(エクソウシア、ヨハネ1:12)や、財産を所有する権利(エクソウシア、使徒5:4)、結婚するか独身を通すかを決める権利(エクソウシア、汽灰蝪掘В械掘法何を食べ、何を飲むかを決める権利(エクソウシア、汽灰蝪検В后法病をいやし悪霊を追い出す権威(マタ10:1、マルコ3:15、6:7、ルカ9:1、10:19)、教会を啓発する権威(競灰蝪后В粥腺隠検↓競謄汽蹈縫隠魁В検腺后法⇒茲襪戮御国で諸国民を治め、いのちの木の実を食べる特権(黙2:26、22:14)などがあります。


つづく


ご面倒でなければ、ここをクリック。
    ↓↓↓↓↓
https://philosophy.blogmura.com/christian/ にほんブログ村 キリスト教

創造物である私たちは、一定の思考形態を持っています。世の中で形成された論理を持っています。しかし主の思いは、人の思いと異なります。事実、主の思いはこの世の考えと相対しています。

それでも私たちが思いを一新するなら、主が考えるように考えはじめ、直感は研ぎ澄まされます。理解の仕方や判断も主の思いに近づけられます。その結果、主の御心がはっきりわかるようになるのです。どういう行動が主に喜ばれ、どういう行動が喜ばれないか、直観的にわかるようになります。これが成熟です。もう一度言いますが、これは倫理的な御心に関してのことです。

パウロはこの行程について、コリント人への手紙の中で述べています。コリントのクリスチャンたちは生まれながらの人(未信者)のように生きているので、彼らは霊的には赤ん坊のようであり、御霊の事柄が理解できないと言っています。けれども霊的に成熟しているクリスチャンは、霊の見分けと判断をすることができるのです(汽灰螢鵐硲押В供腺魁В魁法

別の角度から言うと、主は自ら私たちに命令を出すよりも、私たちに思いを持たせたいのです。「私たちには、キリストの心(英:キリストの思い)があるのです」(汽灰螢鵐硲押В隠供法子どもは、若い時には親から命令を受けなければなりません。けれども年月が経過して成熟し、親を理解するようになると、特定の状況の中で親がどう考えているかわかるようになります。子どもの思いは、あたかも一新されたかのように両親の思いを反映するようになるのです。霊的な面でも同じことです。私たちは、ただ命令を受けるばかりの奴隷ではなく、「思い」を持っている子どもたちなのです(ヨハネ15:15、ガラテヤ4:1)。


つづく


ご面倒でなければ、ここをクリック。
    ↓↓↓↓↓
https://philosophy.blogmura.com/christian/ にほんブログ村 キリスト教

こんにちのキリスト教界において、権威の誤用・乱用が多くの問題を引き起こしています。これは、権威に関する私たちの聖書理解が間違っているからだと思います。

ある本を読んでいて、権威に関してとても良い洞察が書かれていたので、ご紹介したいと思います。


(「Reimagining Church」~「教会に関する再考」~、フランク・ヴァイオラ著、デイヴィッド・クック出版、P212~P213より抜粋)



●権威に関する神の思い

権威とは、主にある特定の働きを遂行するために、神が与えてくださる特権です。新約聖書の原典において、この権威に当たる言葉は「エクソウシア」といいます。エクソウシアはエクセスティンという言葉から派生しています。そのエクセスティンは、妨げられることなしに遂行されるべき正当な行為を意味します。

権威(エクソウシア)は権力の伝達と関連しています。聖書は、神こそ、権威の唯一の根源であると教えています(ローマ13:1)。そしてこの権威は、神の御子に委ねられました(マタイ28:18、ヨハネ3:30~36、17:2)。

言い換えると、イエス・キリストだけが権威を所有しているのです。主イエスははっきりと言われました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と(マタイ28:18)。同時にキリストは、特定の目的のために、この世の人々にご自分の権威を委譲しています。

例えば、世の中の秩序に基づいて、様々な組織の中でご自身の権威を行使させています。主は「公務上の権威」を設置し、この世の中の秩序を維持させています。主の権威が委ねられている例としては、王、行政官、裁判官などの政府機関があります(ヨハネ19:10~11、ローマ13:1、汽謄皀藤押В押↓汽撻謄蹌押В隠魁腺隠粥法

公務上の権威は、固定された職務に授けられています。この権威は、その職務に就いている人の行為とは無関係に働きます。公務上の権威は、固定的で職務上のものだからです。その人物が職務に就いている限り、その人に権威があるのです。

誰かに職務上の権威が与えられると、その人は「権威者」となり、権威を保有することになります。クリスチャンが政府機関の指導者に服従するよう義務付けられているのはこのためです(ローマ13:1、汽撻謄蹌押В隠魁腺隠后法

主イエスもパウロも公務上の権威者の前に立たされたとき、服従の精神を表明しました(マタイ26:63~64、使徒23:2~5)。同様の理由で、この種の権威に対して、クリスチャンも常に服従すべきです。無秩序や権威に対する侮蔑は、罪の特徴だからです(競撻謄蹌押В隠亜▲罐寸検法けれども服従(subjection)と従順(obedience)の間には、とても大きな相違があります。この二つを混同することは、非常に大きな過ちです。


(つづく)


ご面倒でなければ、ここをクリック。
    ↓↓↓↓↓
https://philosophy.blogmura.com/christian/ にほんブログ村 キリスト教

●霊的直感を研ぎ澄ます

神の倫理的御心を知るために役立つ箇所が、新約聖書の中に3箇所あります。それらの箇所を調べると、とても役に立つ教えを見つけることができます。最初の箇所はローマ12:1~2です。


「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」


パウロはローマの教会に手紙を書き、信者たちに、自分たちの体を生きた供え物として神に捧げるよう励ましています。この中に、重要な霊的原則を見ることができます。その原則とは、主は、従いたいと思わない者たちには御心を表さないということです。イエスはこう言いました。「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には・・・わかります」(ヨハネ7:17)。「もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい」(マタイ6:22)。

パウロは思いの一新が必要だと述べています。生きた供え物として自分を捧げ、思いを一新することによる効果は、神の完全な御心を行いで表せるようになることです。 文脈からわかるように、そうすることは、倫理的御心を知るための助けになるのです。

「思い」は、神の倫理的御心を発見することに関与しているということを忘れないでください。新しい契約の下では、神の律法は私たちの「思い」の中に入れられています(ヘブル8:10)。ところが私たちの思いは、一新される必要があるというのです。もし生きた供え物として自分を主に捧げ、思いを一新するなら、神の完全な御心を知ることができる、とパウロは言っています。


(つづく)


ご面倒でなければ、ここをクリック。
    ↓↓↓↓↓
https://philosophy.blogmura.com/christian/ にほんブログ村 キリスト教

↑このページのトップヘ