ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2009年03月

ハレルヤ


私たちのハウスチャーチがにわかに熱くなってきました。

なにやら、ひとり一人の気持ちが外向きになっているようです。



神を愛するがゆえに、失われた者に伝道したい。

主に命じられるから伝道するんじゃなく、

主を愛するから、失われた魂に対する主の情熱によって伝道しよう。



そのような告白が聞こえてきています。

ん~~~。いい感じだ。



おっし。

わしも教会の開拓に、ますます心を注ごう!




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●新約聖書に見る「知恵」の実例

エルサレムの教会がはじめて危機に直面したとき、使徒たちは「兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と【知恵】とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい」と言いました。なぜでしょうか。彼らが外的なしるしと神からの内なる示しを解読できるからでしょうか。違います。彼らの賢明な判断によって、危機を乗り越えるためです。

コリントの教会では、ある兄弟たちが個人的な争いを解決するために、他の兄弟たちをこの世の裁判で訴えていました。パウロはどのように解決しましたか。「内なる示しと外的なしるしを解読できる信者をあなたがたの中から選びなさい」と言ったでしょうか。いいえ、パウロはそのようには言いませんでした。こう言ったのです。「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような【賢い者】が、ひとりもいないのですか。」

テモテやテトスに、手紙によって長老に関する指導を与えたときにも、長老とは「自分を制し、慎み深く」振舞える人であるべきだと、パウロは言っています。言い換えると、長老とは、知恵と健全な判断力を持っている人だということです(汽謄皀藤魁В押▲謄肇坑院В検■押В押法

使徒の働き15章では、エルサレム教会が重大な判断を下す場合の、見事なお手本を示しています。激しい論争のあとで、使徒たちと全教会は言いました。「そうすることは、聖霊と私たちにとって良いことだと思われたので」(使徒15:28、英訳)と述べています。この「思えたので」というのは知恵を表しています。

驚いたことに、ルカは福音書の書き出しの部分でも、まったく同じ表現を使っています。「私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います」(1:3)。「私も、・・・と思います」とルカは書いていますが、これは聖霊によって霊感を受けて書かれた表現です。

知恵とは、神から掛け離れた、人間的な思いではありません。主にあって与えられたものなのです。単に神から来ているというだけでなく、イエス・キリストが知恵という姿をとってご自分を具現化しているとすら言えるのです。

ですから本当の知恵というのは、主から来るものです。なぜなら、主は知恵の神だからです。次の聖句に注目してください。判断をする上での勧めが書かれています。



「うわべによって人をさばかないで、正しい【さばき】(=判断)をしなさい。」ヨハネ7:24


「すべてのことを【見分け】て、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」汽謄汽蹈縫隠機В横


「私が言っていることを【よく考えなさい】。主はすべてのことについて、【理解する力】をあなたに必ず与えてくださいます。」競謄皀藤押В


「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、【賢い】人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、【よく悟りなさい】。」エペソ5:15~17


「私は【賢い】人たちに話すように話します。ですから私の言うことを【判断してください】。」汽灰螢鵐硲隠亜В隠


「あなたがたは自分自身で【判断しなさい】」。汽灰螢鵐硲隠院В隠


「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを【吟味しなさい】。」汽灰螢鵐硲隠粥В横


つづく


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主の御名を賛美します。

今日、ある兄弟と、懇談と祈りの時を持ちました。



この兄弟は、金曜日のハウスチャーチに来ている兄弟の一人ですが、

以前からこの兄弟に関して感じていることがありました。



それは、この兄弟を中心にしてもう一つ教会が始まるのではないかという思いです。

(ハウスチャーチの世界では、こういう人のことをルカ10章に基づいて「平安の子」と呼んでいます。)



この兄弟に連絡をとり、一緒に集会をやりませんかという旨を、数週間前に打診してみました。

すると、まず私と個人的に懇談したいという申し出がありました。

私の体調が悪かったので2週間くらい遅れましたが、今日、ファミレスで話すことができました。



結論として、

私が住んでいるG市か、その兄弟が住んでいる隣町のK市で、

新たにハウスチャーチを始めようということになりました。

あとは祈って、具体的な場所と時間を詰めていく運びです。



1ヶ月くらい前から、

ハウスチャーチがもっと増えるようにと夫婦間で祈ってきたので、

それが実現しそうな動きが出てきたことは大きな喜びです。



天にまします我らの父よ

願わくは・・・

御国を来たらせたまえ

御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ

アーメン




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●知恵の重要性


知恵が重要であることについては、語り過ぎることはないと思います。主は、私たちが非倫理的な決断をするための基準を与えてくださいました。それが「知恵」です。伴侶の選択に当たっては、知恵を尽くして悔いのない選択をする必要があります。聖書の約束を見てみましょう。


「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」ヤコブ1:5~8


知恵を別の言葉で言うなら、「見分け」あるいは「健全な判断」です。繰り返しますが、あなたが倫理的御心の範囲内にいるからといって、愚かな選択(決断)をしないとは限りません。神の御心という駐車場の中ではあっても、おろかな駐車スペースに車を停めてしまうことはあり得ます。それは罪ではありません。御心を損ねたわけでもありません。ただ賢くなかったということです。

もしあなたが線路的な御心観に捕らわれているとしたら、知恵に関する学びはあなたをそこから解放するでしょう。私は皆さんに失望や混乱、罪責感を味わってほしくないのです。ヤコブ書は、神が私たちに「知恵」を与えてくださると教えています。ですから私たちに必要なのは、信仰によって知恵を求めることなのです。

知恵とは、自分が置かれている状況において、何が自分に益をもたらすかを見分ける能力です。仮に私が若干二十歳の、無思慮で独身のクリスチャンだったとしましょう。肉体には精力が満ちており、いろいろな誘惑に晒されています。思いは乱れて、手に余るものがあります。にもかかわらず、全生涯を独身で過ごすという誓いを主の前に立てたとしたら、それはこの上ない愚かな決断と言えるでしょう。おわかりだと思いますが、そのようなことは実に馬鹿げたことです。

私は、自分が結婚すべきであることを悟るために、わざわざ神に願って、夢で示していただいたり、天使を遣わしていただいたり、内なる語り掛けを与えていただく必要はありません。目に見えるしるしを表していただく必要もありません。ただ知恵さえあれば、わかることです。

さて、クリスチャンがクリスチャンの異性と結婚することは、御心であり、駐車場の範囲内です。パウロは、ペテロや他の使徒たちのように、自分もクリスチャンの妻をめとって巡回奉仕に連れて行く権利があると述べています(汽灰螢鵐硲后В機法ですからパウロには、信者の女性と結婚する自由がありました。でも、ここで注意していただきたいのは、だからと言って、信者なら誰でもよいというわけではないということです。長期間にわたって馬が合わない相手と過ごす悲劇を回避するには、知恵を求める必要があります。

ですから、あなたがクリスチャンと結婚するならそれは御心の範囲内ですが、馬が合う相手と結婚するためには、十分に知恵を使わなければなりません。大きな決断をする際には、知恵を求めることが不可欠なのです。

知恵は、次のようにあなたに問いかけるでしょう。「自分にとっても、他の人にとっても、霊的に益になることは何か。」「神の国を推し進めるには、何が最善か。」「自分を含めて、関係者たちに最善なのはどういう決断か。」

霊的に同等な益をもたらす決断が、いくつもあるかもしれません。その場合、どれを選択するかは重要ではありません。どれをとっても賢いからです。他方、あなたの決断次第では、長期にわたり多大な利益をもたらす決断もあれば、多大な損失をもたらす決断もあります。婚期にある独身の男女にとっては、どういう決断をしてもよいというわけにはいきません。結婚する時期について賢明な判断をするために、知恵が必要です。

端的に言って、非倫理的決断に関しては、神が超自然的な啓示を与えてくださるという約束はないということです。神は、啓示の代わりに知恵を与えてくださると約束しておられるのです。

それでは、非倫理的決断をするに当たって、どのように知恵を求めたらよいのでしょうか。一つは、単純に主に求めることです。ただ、求めたからといって、神が超自然的な啓示やしるし、内なる示しなどを与えてくださるわけではありません。しかしながら、「見分け」も一種の知恵ですし、「健全な判断」も一種の知恵なのです。

神が知恵を与える常套手段は、経験です(しかも、しばしば自分や他者の失敗という経験を通してお与えになります)。ですから若い人たちは、年上の人から知恵を得ることが賢明です(箴言13:20)。自分よりも経験豊富な人から知恵を得ることは、賢いことなのです。たとえば箴言には、ソロモン王の知恵が満ちています。彼は、キリストが人類史に介入する以前に生きた人の中で、もっとも賢かった人物です。彼の知恵は、私たちの教訓のために記録されているのです。

キリストのからだにも、知恵があります。信仰の先人たちがいます。(ですから私たちは、彼らの著書や証しを通して学ぶことができます。)また、存命のクリスチャンたちの中にも、重要な相談事で頼りになる人たちはいます。

例えばの話をしてみましょう。私が車を買うことにしているとします。賢い買い物をするために、私は車に詳しい人に相談をします。また、車の買い方に関して研究した人の文章を読んで勉強もすることでしょう。また、主が超自然的な啓示によって、これこれの車を買いなさいとおしえてくださるかもしれませんが、そのような約束があるわけではありません。ですから、そのような啓示が来ることを当てにすることはできません。

ただ、私が求めるなら、神が知恵を与えてくださることは期待できます。加えて、箴言が勧めているように、知恵を探し求めることもできます(箴言4:5、8:1)。知恵のある人は、自分よりも知恵のある人から教えを受けるとあります(箴言9:9)。

箴言には、「多くの助言者によって救いを得る」とも書かれています(箴言11:14、24:6)。まるで、拾った金貨が自分のものになるようなことではありませんか。


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それではこれから、駐車場の境界線について話を進めたいと思います。つまり、誰と結婚するかについてです。

「妻は夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、もし夫が死んだなら、自分の願う人と結婚する自由があります。ただ主にあってのみ、そうなのです。」汽灰螢鵐硲掘В械

主が結婚に関して私たちに示している唯一の境界線は、結婚相手の霊的状態だけです。パウロは、教会内の未亡人は、「自分の願う人と結婚する自由があります。ただ主にあってのみ、そうなのです」と述べています。前半の部分に注目してください。「自分の願う人と結婚する自由があります。」これが駐車スペースです。そして「主にあってのみ、そうなのです。」これが駐車場の境界線です。

クリスチャンは、相手がクリスチャンでありさえすれば、誰と結婚してもよいのです。(ただし同性愛については、聖書はそれを禁じています-汽灰蝪供В后)パウロは競灰螢鵐硲供В隠瓦如同じ内容を言い換えています。コリントのクリスチャンに「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません」と勧めています。すべてのくびきの中で、結婚ほど重いくびきはありません。

結論を言うと、結婚に関しては、結婚するかしないか、いつ結婚するか、誰と結婚するか、これらはすべて、神の倫理的御心の範囲内にある駐車スペースだということです。そして駐車場の境界線は、クリスチャン同士で結婚することが御心であるということです。

それでは、最善の駐車スペースを選ぶための基準は何でしょうか。

つづく

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