ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2009年05月

ディボーション日記




Gal 2:18

けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、

私は自分自身を違反者にしてしまうのです。





パウロは初志貫徹しているなぁと思わされました。



彼には二心がありません。






2Co 11:3

万一にもあなたがたの思いが汚されて、

キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。






「真実と貞潔」と、二つの言葉で訳されている部分は、原語では一語の単語で表現されています。



そのハプロテスという言葉は、「真意を隠すことがない誠実さ」を表します。



偽善や見せ掛けのない正直さです。








私は以前、牧師をしていました。



聖霊の働きを重視し、徹底して聖霊の導きに従うことを願いとし、



そうできるよう祈っていました。






日曜日は当然、私が主日礼拝を導きます。




牧師は、まじめであれば、あるほど、礼拝におけるプログラムを忠実にこなそうと努めます。




会衆賛美、聖餐式、献金、説教、祝祷。




一通りの内容をこなすことが秩序のある礼拝式であり、そうすることが務めだと思っていました。








しかし時として、



聖霊が別のことをするように願っているのでは、と感じることが何度もありました。






今日は、兄弟姉妹たちに証をしてもらったほうがいいんじゃないだろうか。



(礼拝が始まる前、兄弟姉妹たちと何気ない交わりをしていて、



礼拝を始める時間が来たけれど)、この交わりをこのまま続けたいなぁ。



毎回毎回、この式文を繰り返す必要があるのだろうか・・・。






それらの自由な思いの中には、本当に聖霊からの促しがあったと思います。



何回も。






今、組織的、制度的な教会を離れ、



ハウスチャーチに参加するようになってみて、それがはっきりわかります。







聖書の中の教会は、そうでした。



儀式の繰り返しなど聖書には書かれていません。



集会のプログラムやその順番も、どこにも書いてないではありませんか。



ある時は、彼らは祈るだけでした。



しかし集まっていた建物が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、



御言葉が力強く語られ、



しるしと不思議が神によって行なわれました。








私は聖霊ではなく、人が考案したプログラムに従っていたのです。



生ける神ではなく、自分が集会の「主」になっていました。



教団の方針に従うことと、生ける神に従うことのどちらが神に喜ばれるのでしょうか。



ある意味、組織が神にとって代わっていませんか。



教会のかしらは、人ではありません。



団体でもありません。



神学でもないのです。






私たちにとって、「キリストに対する真実」とは何でしょうか。

携挙と救いの関係


自分で書くよりも、この方の論文を訳したほうがまとまりがあって良いと思い、そうすることにしました。

一辺に訳すことは無理なので、何回かに分けて掲載します。文章全体を訳し終わった後に、改めて通しで読むことができるように、「肉体のあがない」という書庫を作り、そこに掲載していきたいと思います。


論文名:「Will all The Saints Be Caught Up When The Lord Comes?」/「聖徒はみな携挙に預かるのか?」
著者名:F.B.Hole/F.B.ホール
サイト:http://www.biblecentre.org/topics/fbh_will_all_the_saints_be_caught_up.htm


以下の文章は、上記の論文の後半「The Redemption of our body」/「肉体のあがない」を訳したものです。上記に挙げた「バイブルセンター」という英国のサイトに掲載されている論文です。



「肉体のあがない」

後半では、携挙という表現は直接使いませんが、主の来臨に関わるいくつかの聖句を論じてゆきたいと思います。それらの聖句が携挙という大いなる出来事に関して語る内容は、その出来事の性質を決定するもので、重大な意味を持っています。聖句は以下の通りです。ローマ8:23、ローマ13:11、エペソ1:13~14、エペソ4:30、汽謄汽蹈縫隠機В検腺隠亜↓競謄汽蹈縫隠押В隠魁↓汽撻謄蹌院В機■院В隠魁


これらの箇所を注意深く読み、内容を吟味していきましょう。


1.これらの聖句には、主の来臨を連想させる意味合いが含まれています。またその来臨が聖徒の希望であり、主が最終的に目指している事柄であると述べています。

2.主の来臨の特徴として言えることは、信者に対する裁き、律法、信者の功績とは無関係であり、むしろ「あがない」「救い」「恵み」などの言葉によって表現されているということです。


この点は極めて重要ですので、注意深く検証すべきです。まず、上記の中に挙げた聖句の中で、他の聖句の代表とも言える、一番最初の聖句を見ていきましょう。


ローマ8:23

「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」


この箇所における主の来臨に関する言及は、とてもはっきりしています。そのことは、ローマ人への手紙のはじめのほうに述べられています。クリスチャンとは、罪責感から解き放たれ、キリストの十字架によって罪の支配と責めから解放された存在です。キリストの十字架によって、信者はアダムとの関係が断ち切られ、キリストにある者とされました。そして、キリストの御霊が内住する者となりました。


信者の霊とたましいに関しては、すでにあがないが完了しており、主の来臨時に、肉体があがなわれるのを待つばかりです。それによって、霊、たましい、肉体とも自由にされ、信者は「神の子どもたちの栄光の自由」の中に踏み入ることになるのです(ローマ8:21)。このあがないは、私たちのいやしい体が変えられて、キリストの栄光の体と同じようにされることによってもたらされるものです(ピリピ3:20~21)。


さて、ここで、「あがない」という言葉に注目してください。この言葉の特徴を一言で言うなら、聖書の至る所で主の来臨とペアで語られている、ということです。その来臨に続いて、キリストの裁きの座と主の栄光の現れが起こります。これらには、責任、報い、あるいは喪失、そして裁きなどが伴っています。これが思いつく限りの特徴です。


それではここで、反論を恐れもせず断言します。あがないは、聖書の至る所で憐れみと関連付けて語られています。逆に、人の功績とは関連付けられていません。あがないは神の恵みと関連していますが、人の忠実さとは無関係です。決定的に重要な事実は何かといえば、汽謄汽蹈縫隠粥В隠供腺隠靴砲△襪箸り、主の来臨のときに聖徒たちに起こることは、肉体のあがないだということです。死んでいた聖徒のよみがえりと、生きている聖徒の変貌と、その両者がいつまでも主と共にいるようになることは、恵みの行為であって、裁きの行為ではないということは疑う余地がありません。終わりの時代に背教が起こるとユダが予想したとき、主の来臨に関して、聖徒たちにとっては憐れみによる避難の手段として、述べていることが納得できます。「永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい」(21節)。


それでは前述の事実を、私たちが直面している問題に当てはめて見ましょう。主イエスが、聖徒たちの肉体をあがなうために救い主として来られるとき、この「憐れみ」は信者全員に注がれるのでしょうか。それとも、一部の目を覚ましていたクリスチャンだけ、あるいは他に秀でて多く偉業を成し遂げたクリスチャンだけに注がれるのでしょうか。もし読者が、あがないと憐れみは聖書の中で関連付けられているという真理に同意なさるのであれば、神の啓示である「携挙」については、どう考えますか。たましいに関しては恵みによってあがないがなされるが、肉体に関しては私たちの落ち度に応じてあがないがなされる、ということがあり得るでしょうか。十分目を覚ましていられなかったからという理由で、肉体に関してはあがないの条件が永遠に変更されてしまうのでしょうか。


私たちは迷うことなく答えます。それはあり得ません。≪部分的、あるいは選抜的携挙説は、人間側の忠実さに根ざした考えであって、神が「恵み」によって始められたあがないの業を、「行い」によって完成させると教えているのと同じことです。そのような教えは、ガラテヤ人たちが犯した過ちと実質的に同じです。≫そのようなことを教える方々には、パウロと同じ質問をお尋ねします。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」(ガラ3:3)。

ディボーション日記




2Co 13:3

こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。




2Co 13:5

あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。

それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。




これらの箇所から思わされたことは、


キリストは、教会の指導者のうちにもおられ、信徒のうちにもおられるということです。




その内住のキリストは、


指導者を通して語ることもあれば、


信徒を通して語ることもあるということです。




キリストが内住しておられる以上、


霊的権威も、


指導者を通して働くこともあれば、信徒を通して働くこともあるということです。




どちらか一方だけに働くのではなく、


どちらを通しても働く、


クリスチャンなら誰を通してもキリストは語るし、働くということです。




だからこそ、次のような言葉が聖書の中にはたくさんあるのではないでしょうか。




Eph 5:21

≪互いに従いなさい≫。




Rom 15:7

あなたがたも≪互いに受け入れなさい≫。




Rom 15:14

あなたがた自身が・・・≪互いに訓戒し合うことができる≫ことを、この私は確信しています。




1Th 5:11

あなたがたは、≪互いに徳を高め合いなさい≫。

注:「徳を高める」=「建て上げる」「啓発する」という意味。





Mat 23:8

あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。

あなたがたの教師はただひとりしかなく、≪あなたがたはみな兄弟≫だからです。






教師はただひとりしかなく、


その教師(キリスト)が、ひとり一人のクリスチャンのうちにおられるのです。





もしどこかの教会で、一方通行の権威の流れしかないとしたら、



もし建て上げが一方方向からしか行われていないとしたら、



その教会は聖書通りとは言えないのではないでしょうか。






牧師は説教し、信徒は献金をして牧師を支えるだけ。



それが教会というもの。



もしそんな概念が実行されているとしたら、



それは聖書的な教会と言えるでしょうか。

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2Co 10:4

私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、

神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。




この箇所が気になり、少し調べてみたくなりました。


すると、「破る」という言葉は、8節の「倒す」と同じ単語であることがわかりました。


「破壊する」という意味です。


ですから、パウロの言う「戦いの武器」とは、


8節の「権威」を指していると考えてよさそうです。




2Co 10:8

あなたがたを倒すためにではなく、

立てるために主が私たちに授けられた権威については、

たとい私が多少誇りすぎることがあっても、恥とはならないでしょう。




この箇所の日本語訳の「立てるために」ですが、


原典では「建て上げ」という意味の言葉が使われています。




また、注解書や新聖書辞典を調べてみると、


権威を用いての破壊の実例が書かれていました。





●ヒメナオ

1Ti 1:20

その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。

私は、彼らをサタンに引き渡しました。

それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。




2Ti 2:17~18

彼らの話は癌のように広がるのです。ヒメナオとピレトはその仲間です。

彼らは真理からはずれてしまい、

復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。




この2カ所からわかるように、


ヒメナオたちは、パウロの権威によってサタンに引き渡されました。




「サタンに引き渡す」という処罰は、以下の箇所にも書かれています。



1Co 5:4~5

あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、

私たちの主イエスの権能をもって、 このような者をサタンに引き渡したのです。

それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。




汽灰蠅里曚Δ蓮∪的不道徳の処罰で、


汽謄皀討里曚Δ牢岼磴辰振気┐紡个垢觸菷海任后




パウロが、罪や間違った教えから教会を守るため、


また、罪を犯した人の益のために、霊的権威を行使したことがわかります。

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何日も日がたってしまいましたが、


競灰螢鵐硲検腺江呂鯑匹鵑如


新約時代の献金について思わされたことを書こうと思います。





2Co 9:7

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、

心で決めたとおりにしなさい。

神は喜んで与える人を愛してくださいます。




●背景


パウロがコリントの教会に手紙を書いていた頃、


世界にはひどい飢饉が起こっていました。


それによりエルサレムでは、主にある兄弟姉妹たちが食べ物に不足し困っていました。


競灰螢鵐硲検腺江呂蓮▲泪吋疋縫笋筌▲ヤの教会がそのことを知り、


エルサレムの教会のために献金をしたことが背景になっています。


この背景については、以下の箇所が参考になります。




Act 11:28~30

その中のひとりでアガボという人が立って、

世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、

はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。

そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、

ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。

彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。




Rom 15:26~27

それは、マケドニヤとアカヤでは、

喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。

彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、

同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。

異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、

物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。




●私の感想


自発的で、喜んで捧げることが新約時代の献金の精神であることが、


コリント書からわかります。


しかしローマ15章では、


自発性だけではなく、同時に義務であったとも書かれていて、


奥が深いなと思いました。




義務であった理由は、


異邦人はユダヤ人から霊的もらい物をしたから、ということです。


日本の教会は、欧米の宣教師から霊的もらいものをしているわけなので、


欧米の教会に何かしたほうがいいのかな、と考えさせられました。


(おりしも今年は、プロテスタント宣教150周年だとか。)




私などは、まさに宣教師を通して救われているので、


何かの形で彼らの助けになることをすべきなのかなと・・・。

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