ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2009年06月

新約聖書中の女性

これは、前ページの緑茶さんのコメントへの応答です。




●女性も預言する

使徒2:17~18

「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」


この預言の中には、「娘」「はしため」など、神が女性にも聖霊を注ぐとおっしゃっています。そして聖霊が注がれると、彼女たちは「預言する」のです!





●ピリポの娘

使徒21:8~9

翌日そこを立って、カイザリヤに着き、あの七人のひとりである伝道者ピリポの家にはいって、そこに滞在した。この人には、預言する四人の未婚の娘がいた。


四人の娘たちは、初代教会の人々の間で、「預言する」娘として知られていました。彼女たちは、上記の預言の具体例とも言えそうです。




●プリスカ

使徒 18:26

彼(アポロ)は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。


ローマ 16:3

キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。


プリスカとアクラ夫婦は、アポロがエペソに来たとき、彼に神の道をもっと正確に教えました。このユダヤ人夫婦は、教師的な働き人だったと思われます。しかもアクラだけが教えたのではなさそうです。


「プリスカの名前がアクラよりも先に書かれているが、それは、彼女の方が教会において影響力を持っていたためと考えられる。」(「新聖書辞典」P1087より)


パウロはこの夫婦を「同労者」と呼んでおり、16:4では、この夫婦に対して、「異邦人のすべての教会も感謝しています」とあるので、この二人がパウロと一緒に奉仕をした機会はかなり多かったようです。二人はコリントだけでなく、パウロがエペソに移ったときにも同行しました。そして16:5では「その家の教会によろしく」とあることから、最終的にはプリスカとアクラはローマに戻り、夫婦の家がローマの教会の定期集会所でとなっていたことがわかります。


プリスカは、緑茶さんが言うように、今日的に言えば「女性の教役者」と言えると思います。



●ユニヤ

ローマ16:7

私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。


この「ユニアス」は、女性である可能性があります。女性である場合は、「ユニア」という名前になります。セイヤーのギリシャ語辞典は、女性の名前としています(下記参照)。ユニアが「使徒たちの間でよく知られている」ことから、女性の使徒だったと解釈する人たちすらいます。


Thayer Definition:
Junia = “youthful”
1)a Christian woman at Rome, mentioned by Paul as one of his kinsfolk and fellow prisoners

ディボーション日記






1Ti 1:5

「この命令は・・・愛を目標としています。」






最近、以下の箇所の解釈や適用をどうしたらよいのかで悩み、祈っていました。





1Co 11:5

女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。



1Co 14:34

教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。



1Ti 2:12

私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。








私たちの教会の集会で、女性たちはかぶり物を付けるべきなのか、



女性たちは集会中、黙っていなければならないのかどうかを、



主に尋ねてきました。







きのう、汽謄皀藤云呂ディボーションの箇所でした。



5節を読んだとき、神様から祈りの答えを語られたような気がしたのです。









私がディボーション用に使っているバージョンでは、5節の最初の部分は、



「私たちの指導の目的は愛です」となっています(新米標準訳)。



このフレーズが思いに入ったとき、強いインパクトを覚えました。







パウロがあのように書いた目的は、



女性たち、そして教会全体への「愛」のゆえだった



と神は語ってくださっているように思えました。








創造の秩序は信じていますし、今日でもその秩序が変わらないことも承知しています。



また、上に挙げた箇所は普遍的解釈をすべきであって、



あの時代のコリントやエペソの文化的、社会的背景として限定すべきではないと思っています。








だからと言って、私たちの集会において、



姉妹たちの発言、姉妹たちの祈り、姉妹たちの預言は決して害になっておらず、



むしろ神は、彼女たちを通して語っておられるのに、



なぜ黙らせなければならないのだろうかと・・・。









姉妹たち自身も、自由に語れることを喜びとしているのに、



それを取り上げなければならないのだろうかと・・・。








神は、愛が適用のポイントであると教えてくださったように思いました。



上記の御言葉を字義通りに適用するかどうかは、



愛がその判断基準になると。









みなさんのご意見もおしえてください。



みなさんは、あるいは、みなさんの教会では、



どう考えておられますか?

ディボーション日記



1Th 5:8
私たちは昼の者なので・・・

1Th 5:10
主が私たちのために死んでくださったのは、

私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。






汽謄汽蹈縫韻鯑匹鵑任い泙后


5:8の「昼の者」というフレーズがインパクトをもって心に飛び込んできました。


未信者とは「大きな違いがある」ということが、霊的に伝わってきた感じでした。






クリスチャンは「昼の子ども」であり「昼の者」です(5節、8節)。


一方、主イエスを信じていない人々には、「夜や暗やみの者」という表現が使われています(5節)。






同じように地上で暮らしているのですが、


クリスチャンとノンクリスチャンの間には大きな隔たり、


決定的な違い、相容れない性質があるということです。






文脈上、この違いは、


「主の日」つまり「携挙」に関する扱われ方の違いであることは間違いありません。


出エジプトの際の、イスラエル人とエジプト人の違いと同じようなものだと思います。






この違いは、「その日」が盗人のようにして来るか、そうでないかにも現れます。


クリスチャンにとっては、「その日」は恐ろしい日ではありません。


何かを失う日ではないのです(4節)。






「眠っていても、主とともに生きる」ことができる、というところが恵みですね。


目を覚まして待ち望むことに失敗しても大丈夫なのです(10節)!






これは、十字架で「主が私たちのために死んでくださった」ことによります。


十字架を信じていれば、盗人に襲われるようなことにはならないのです。





1Th 5:9

神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、

主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。




アーメン

ディボーション日記




1Th 3:12~13

また、私たちがあなたがたを愛しているように、

あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、

満ちあふれさせてくださいますように。

また、あなたがたの心を強め、

私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、

私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。






「主イエスがすべての聖徒とともに再び来られる」


1世紀のクリスチャンたちは、こういう意識を持っていたんだなぁと思わされました。


私たちは再臨のとき、


主イエスと共に地上に戻ってくるのです!


こういう意識をもっと持つべきですね。





あと、ばらばらなワードスタディーをいくつか書き加えると、


この聖句の「愛」という言葉は、フィレオではなくアガペーです。


「神の愛」で、兄弟姉妹がますます互いに愛し合うようになりますように、


「神の愛」で、クリスチャンたちがすべての人をますます愛するようになりますように、


とパウロは祈っています。


私は程遠いです。





また「聖徒たち」ですが、「聖なる者たち」というのが原典の直訳です。


聖書は私たちを「聖なる者たち」と呼んでいるのです。


神は私たちの「父」であり、


私たちは神の子どもで「聖なる者」。


すごいこと(恵み)です。

久しぶりにHCレポートです。



19日の集会に、日本人の未信者の男性(30代)が来られました。

彼はP兄の知り合いで、なぜかキリスト教に興味を持っており、

最近、本を買って読むほど知りたいと思っておられます。




こういう方をP兄のそばに置いていること自体が、主の働きだと思います。

彼は集会後の感想で、

「もっと勉強会のようなものかと思っていたけれど、

みんなが体験したことをいろいろ話していたので楽しめた」

というようなことをおしゃっていました。

「こういう場は、なかなかない」と。



彼がまた来るかどうかはわかりませんが、

聖霊が彼に語ってくださったことは間違いないと思いました。

また、人間関係を通しての自然なつながりで伝道が実現したことは、

伝道や救いのために祈ってきた私たちにとって嬉しいことです。



それと、

その未信者の方のためだけに主が働かれたのかというと、そうではありませんでした。

分かち合いは、後半で聖霊の働きに焦点がおかれました。



私たちは、聖霊の働きがなければ、神に関して頭でしか理解できないけれども、

聖霊が働いてくださるので、

「聖書に書かれていることと自分との関係」

(例えば、自分のために主が十字架にかかってくださったこと)

が「わかる」、という話になりました。



ひとり一人がいろいろな体験談を語り、

私たちが意識している以上に、聖霊は私たちの内側で働いてくださっている

ということが浮き彫りになりました。



主は、未信者の方にも語り、クリスチャンのみんなにも語ってくださいました。

ハレルヤ

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