ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2010年09月

以下は「ヨハネ3:16は福音か?」という本の部分訳です。シリーズで少しずつ掲載しています。今回で4回目です。
 
誠に申し訳ありませんが、コメントには応答できません。ご了承ください。
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文法
ヨハネ3:16に使われている言葉の意味をこれまで見てきましたが、今から、文法のほうに移りたいと思います。この節の文法を詳しく見ることによって、驚愕の事実が判明するからです。
 
ヨハネ3:16の理解ためになくてはならない文法の知識は、動詞の「時制」です。一般によく取り扱う「時制」として、過去、現在、未来があります。ギリシャ語にも当然「時制」があります。しかしギリシャ語の時制は、さらに詳細に分別されています。私がみなさんに紹介したい時制はaorist/エアリストといい、不定過去という時制です。ギリシャ語の不定過去の特徴は、過去に一度だけ起こったことに関して述べる際に使われるということです。通常の過去形は、一度だけとは限らず、何度起こっていても同じ過去形です。しかしエアリストは、その動作が過去にたった一度だけ起きた場合に使います。
 
例えば「十字架に付けられた」というとき、どの時制が使われているともいますか。キリストが十字架にかかったのは一度だけなので、エアリストが使われているのです。ですから、聖書の原典を読んでいてエアリストが使われていたら、その動作は過去に一度だけ行われたということなのです。
 
もう一つのご紹介したい時制は、現在形です。ただしギリシャ語の現在形は、いわゆる現在進行形です。これは、今現在、その動作が継続しており、未来にも継続することを意味します。この現在進行形を知ることで、聖句に新たな光が照らされます。例えばイエスは、次のようには言いませんでした。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)。この箇所の動詞はすべて現在進行形ですから、「続ける」という言葉を付け加える必要があります。つまりイエスは「求め続けなさい。・・・捜し続けなさい。・・・たたき続けなさい。・・・」と言ったのです。
 
それではヨハネ3:16に使われている動詞を見ていきましょう。まず初めに「お与えになった」にはどの時制が使われているでしょうか。答えはエアリストです。神はひとり子を一度だけ「お与えになった」のです。神は、特定の機会に一度だけひとり子を与えました。
 
次に2つの現在進行形の動詞を見ましょう。最初は「信じる」です。ヨハネ3:16の原文には、「それは御子を信じ続ける者が」と書かれています。これはヨハネの福音書の特徴です。ヨハネは「信じる」という動詞を用いる場合、現在進行形にしていているのです。言い換えると、信じる決心を一度だけすれば救われるというものではないということです。信じ続けることによって救われるのです。信仰は継続的な動作だということです。ですからあなたは次のように言うことはできません。「私は過去に一度信じたから、救われているのだ」と。これは間違いです。信じ続けなければなりません。「御子を信じ続ける者が・・・永遠のいのちを持つ」のです。信仰とは、信頼と従順の継続なのです。
 
次の動詞「持つ」に行きましょう。「それは御子を信じ続ける者が・・・永遠のいのちを持ち続けるのです。」こう書くことで、この聖句の意味が多少変わるのではないでしょうか。いのちを持ち続ける者とは、信じ続ける者だということです。
 
それでは最も驚かされる動詞に行きましょう。「愛された」です。この「愛された」は一度限りの行為でしょうか、それとも継続的に愛が続いているのでしょうか。答えは、エアリスト形です。神は、たった一度の機会に、一度だけ世を愛したのです。多くの人は、ヨハネ3:16を読むとき、今も神が世を愛していると捉えています。しかしそうではありません。この聖句は、歴史上に一度だけ神が世をアガペしたと述べているのです。アガペは、必要を満たす行為を示すことも念頭に置いてください。こう考えれば、神が一度だけアガペしたことに納得がいくはずです。問題はほとんどの人が、ヨハネ3:16は「神はすべての人をいつも愛している」という意味だと思ってしまっていることです。しかしそうではないのです。この聖句の意味は、神が、ある機会に一度だけ、私たち罪深い人類のために一つの行為をしてくださった、という意味なのです。ですから私たちは、この聖句を基にして、神はすべての人を愛しているとか、神はいつでも人を愛しているという概念を構築することはできないのです。この聖句には、そのようなことは書いてありません。
 
神の愛は、博愛ではありません。焦点の定まらないあいまいな愛ではなし、いつでもどこにでもあるというわけではないのです。神の愛は常にイエスの十字架に集約されています。そして私たちの必要に目を向け、それに対して根本的な対応をすることに集約されているのです。
 
 
 

以下は「ヨハネ3:16は福音か?」という本の部分訳です。シリーズで少しずつ掲載しています。今回で3回目です。
 
誠に申し訳ありませんが、コメントには応答できません。ご了承ください。
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「世」
 
神は世を愛しました。父なる神が世をアガペしたのです。神は私たちの必要に対して、思い遣りを示しました。「世」のためにそうしたのです。では聖書において、「世」という言葉はどういう意味なのでしょうか。「世」は、地理的な意味で使われているのではありません。地球という惑星を指しているわけではないのです。聖書の中でこの言葉は、いつも人間に関して述べています。人類とか人間社会を示しています。神が人間社会をアガペしたのです。「世」という言葉は、全人類を含む広い意味で使われていると同時に、罪深い世界という悪い意味でも使われています。世は、罪のゆえに堕落しており、反抗的なのです。
 
ヨハネの第一の手紙に「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」(2:15)とあります。この内容をヨハネ3:16に適用する必要があります。それは一見、まったくの矛盾に見えます。神は世を愛したにもかかわらず、私たちは愛すべきではないと言われているからです。この聖句の「愛」も同じアガペです。神が世を愛するのはよいけれども、私たちには駄目だと言っているように思えます。私たちは神のしたことをコピーしてはいけないのです。これについては、のちほど解説します。ここでは、神を愛さない反抗的で罪深い堕落した社会を、神がアガペしたということを覚えておいてください。
 
さて、神は大きな問題を抱えています。その問題とは、反抗的な子どもたちです。そして聖書とは、神が神の問題をいかにして解決したかを物語っているのです。「世」とは、反抗的な子どもたちからなる家族全体を意味しています。ですから、神が世を愛すると言うとき、それはこの美しい世界を神が愛しているとか、人間社会を神が愛しているという単純なことではありません。反抗的で神を憎んでいる世を神が愛し、その世に対して何かをしたということなのです。
 
Whosoever/誰でも」
 
この言葉が「誰でも」と訳されているのは残念です。ギリシャ語では「すべて」という意味の言葉だからです。これは「anyone/誰でも」という意味ではありません。信じる者全員(everyone who believes)という意味です。これは広い範囲にわたる招きです。「キリストを信じる者は全員」だからです。「キリストを信じる者は誰でも」ではなく、「キリストを信じる者は全員もれなく」ということです。「whoever」という言葉は、個人を意味する傾向がありますが、「信じる者全員」という表現には、英語では表現されない重厚間(breadth)があります。
 
「信じる」
 
それでは次に、「信じる」を見てみましょう。この「信じる」という言葉の後ろについている「in」という前置詞の役割が非常に大切です。Believing thatbelieving inの違いは大きなものです。まったく違います。例えばbelieving in meは、私という人格を信頼するという意味ですが、believing thatはその内容を信じるという意味だからです。
 
ヨハネ3:16は、「誰でも、イエスが彼らの罪のために死んだことを信じるなら」とは言っていません。それはbelieving inとは違うのです。「イエスが私たちの罪のために死んだことを信じる」ことは、救いにつながる信仰ではありません。あなたの罪のために死んだキリスト(の人格)に信頼することが救いにつながる信仰なのです。この違いがわかりますか。神がひとり子を与えたほど、世を愛したことを信じるだけでは十分ではありません。あなたがキリスト自身を信じない限り、十分ではないのです。ここにポイントがあります。キリストが自分の罪のために死んだという事実を受け入れるだけでは、あなたは救われないのです。けれどもあなたの罪のために死んだキリストを信頼するなら、あなたは救われるのです。
 
「滅びる」
 
この「滅びる」という言葉は、十分に原語の意味の強さを表していません。私の印象では、「滅びる」というと、ゆっくりと崩壊してゆく感じです。しかし実際は、とても強い意味の言葉です。聖書の他の箇所では、通常「破壊される」と訳されています。そしてこの言葉には、造られた目的のために、もはや役に立たない状態にされるという意味があります。ある日、女がイエスのもとに高価な香油を持ってきました。彼女はつぼを割って香油を注ぎますが、そのときイスカリオテ・ユダがこの言葉を使って言いました。つぼは破壊されてしまった。二度と使うことはできない。それは無駄になってしまったと。
 
「滅びる」という言葉は、誰かによって破壊されるという意味です。実際この言葉は、ヨハネ3:16の原文では、受身形で「破壊される」と書かれています。「破壊する」は、マタイ10:28の「そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とのイエスの言葉にあるのと同じ言葉です。これは、神が誰かを破壊し役立たずにしてしまうことを意味する、とても強い言葉なのです。このように「滅びる」は、破壊され、完全に役立たずにされ、本来の目的を果たせなくされるという意味です。存在しなくなるという意味ではありません。そうではなく、まったく役に立たない状態で存在することになるという意味なのです。ですから地獄とは、神によって破壊され役に立たなくなった人間たちが満ちている場所なのです!

以下の翻訳は、上記の本からの抜粋です。1章の終わりから始まり、2章に入っていきます。2章では、ヨハネ3:16の解釈が始まります。完全訳ではなく部分訳です。
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あるテレビ番組で、私は偶然、次のようなことを言いました。「私は、神がすべての人を愛していると述べている節は聖書の中には一節もないと思います」と。その晩から延々と視聴者からの応答が寄せられ続けました。それらは決まって、「ヨハネ3:16はどうですか」というものでした。この本において、ヨハネ3:16に焦点を合わせて学ぶ理由はそこにあります。このたった一つの節が、「神の愛の福音」を正当化しているからです。
 
 
2章       言葉の意味
 
このようなわけで、神の愛は無条件ではないことを説明するに当たり、私たちはヨハネ3:16に焦点を合わせていきたいと思います。
 
「愛した」
この「愛した」という言葉については、長々とした説明が必要です。ギリシャ語には、英語の「愛」に相当する言葉がいくつもあるからです。そのため、聖書を読んでいて「愛」という言葉に遭遇したなら、私たちは立ち止まりその「愛」がどの意味の愛なのかを考えなければなりません。そこで少しだけギリシャ語のレッスンをさせてください。
 
「愛」と訳される最初のギリシャ語は、エピスミア/epithumiaです。これは「情欲」に相当する言葉です。もちろんエピスミアは私たちにとって、何としててでも避けるべき愛です。
 
この他にあと3種類の愛が、ギリシャ語にはあります。第一番目はエロス/erosです。・・・エロスは実質的には「魅力」を意味し、性的な愛を述べています。これまでに作曲された歌の75%以上がこのエロス、つまり男女間の引き付け合う力について歌っています。エロスは感情に由来する愛で、あなた自身には制御することができません。エロスのスイッチを点けたり消したりすることはできないのです。それは燃えるか冷めるかのどちらかであり、あなたの思い通りになりません。というのは、エロスは化学反応によって生じるものだからです
 
神は「世」をエロスで愛することはありません。神は人間に対して、エロスによる魅力を感じているわけではないのです。つまり、神は人間との恋に落ちたわけではないということです。この世の中では、「愛」といえばもっぱらエロスを指しますが、ヨハネ3:16を読むに当たって、エロスの愛を念頭に置くのは不適切です。というのは、エロスは利己的な愛でもあるからです。エロスは相手から何らかの見返りを求める愛で、相互に与え合うことを望むのです。
 
第二の愛はフィレオ/phileoです。これは兄弟愛を意味していて、「好意」という愛です。フィレオは感情というよりは精神的な愛で、両者間に共通の関心事を見出します。英語のlike/好きという言葉に相当します。
 
最後はアガペです。この愛は行動の愛です。言い換えると、エロスは感情が中心の愛、フィレオは精神、しかしアガペは意志を中心にした愛です。アガペに一番近い英語はcare/思い遣りです。誰かを思い遣るということは、2つのものを与えることを意味します。あなたの注意を相手に向けることと、相手のために何かをすることです。アガペは、相手のために行動する愛なのです。実質的には、相手の必要に応答する愛です。アガペは相手の魅力に応答するのではなく、相手の関心事に応答するのでもありません。アガペの愛で行動するということは、相手の必要に応答することです。その必要を思い遣り、それに関して何かをするのです。
 
良きサマリア人が示したのが、このアガペの愛です。サマリア人は、半殺しにされた人に恋をしたわけではありません。好意を持ったのでもありません。思い遣りを示し、相手の必要に応じて行動したのです。このようにアガペは、意志に基づいているという性質上、アガペせよ、と命じることが可能なのです。だからこそイエスは、私たちにも「同じようにしなさい」と命じました。
 
若い男女を一つの部屋に連れて来て、「あなたがたは愛し合いなさい」と命令することは不可能です。なぜなら、彼らは恋に落ちるか落ちないかのどちらかだからです。また彼らに向かって、互いにフィレオの愛で愛し合いなさいと命じることもできません。というのは、彼らは共通点を持っているかもしれませんが、持っていないかもしれないからです。しかし彼らに対して、アガペで愛し合いなさいと命じることはできます。
 
これを結婚式に置き換えてみましょう。キリスト教式の結婚式に参列すると、牧師がⅠコリント13章を引用します。「愛は親切です。愛は寛容で・・・」この箇所の愛はアガペです。クリスチャンの結婚は、アガペが中心なのです。
 
牧師は誓いの言葉を述べる際、「汝は彼女に好意を持ちますか」とは尋ねません。あるいは「汝は彼女に恋をしますか」とも言いません。「汝は彼女を愛しますか」と尋ねるのです。そしてそれに対する応答は、「はい、そうします」(I will)です。「気が向いたらそうします」ではありません。どのような状況においても、私は彼女をアガペで愛しますという意味です。
 
はっきり述べますが、良き結婚にはアガペだけでなく、エロスが必要です。エロスによってお互いが惹かれ合うべきです。しかしエロスだけの結婚は長続きしません。二人が恋に落ちたのと同じようにして、その恋ははかなく終わるからです。フィレオに基づいた結婚は、もう少し長持ちするでしょう。しかし遅かれ早かれ、アガペを必要とするようになります。なぜならアガペは生涯を通して継続する愛だからです。つまりその愛は、意志によって互いを思い遣り、行動する愛だからです。
 
愛に関しては、十分述べたのではないかと思います。「神は世をアガペしました。」このフレーズは、神が世に好意を持ったという意味ではありません。また世に魅力を感じたのでもありません。人間が神の気を惹いたわけではないのです。それは、神が思い遣りを示し、必要を理解して行動したという意味です。
 
しかし未信者が「神はあなたを愛しています」と言われたとき、その人はどう思うでしょうか。「私には何か愛される理由があるに違いない。神は私に、好意を持ってくれているに違いない。私には、神を惹きつける魅力があるに違いない。私は神にとって、特別な存在なのだ。神は私に恋をしたに違いない。」
 
ヨハネ3:16には、そのような意味はまったく含まれていません。この世界は、アガペの愛をほとんど知りません。フィレオについては少しだけ知っています。そしてエロスについては、実に良く知っています。ですから「神はあなたを愛しています」と言った場合、誤解されてしまうのです。神による罪の赦しを体験して初めて、人はアガペの意味を理解し始めるのです。
 
そういうわけで、ヨハネ3:16の愛は、神が人間に魅了されたという意味でありませんし、神の兄弟愛を意味しているのでもありません。それは私たちの必要に対する神の思い遣りであり、行動なのです。「神は、そのひとり子を与えたほどに、世をアガペした。」つまり、このフレーズには神の行動が述べられているのです。神が私たちの必要をご覧になり、それに対してとった行動が描写されているのです。
 
 

●ヒゼキヤの祈りと奇跡
Ⅱ列王記20章やイザヤ38章に、ユダの王ヒゼキヤが不治の病にかかり主に祈ると、その祈りが聞かれ、アハズの日時計の影が10度後戻りしたことが記されています。
 
歴史的な文献によると、ヒゼキヤの父であるアハズ王が作ったこの日時計は、地上から家の屋上に向けて設けられた外階段のようなものであったとされています。私たちがこんにちイメージする日時計はこの時代にはまだなく、約200年後にならないと発明されませんでした。ですから日時計の影が10度後戻りしたという表現は、太陽の光が階段を10段後戻りしたという意味なのです。
 
ある人々は、太陽の位置が移動したのではなく影だけが動いたと解釈しますが、ヘブル語の原文では「太陽が10段後戻りした」と書かれています(イザヤ38:8b)。この箇所の特別な解釈の仕方があるとしても、「影」を意味する単語ではなく、「太陽」を意味する単語がそこに使われていることは確かです。
 
ともかくヒゼキヤの祈りの結果、すさまじい奇跡が起きたことに間違いはありません。それだけではなく、イザヤの指示に従ってヒゼキヤがイチジクのシップを腫瘍の上に塗ると、治らないはずの病気が治り、ヒゼキヤは元気になりました。このような奇跡が起きた背景には、一体何があったのでしょうか。
 
●あなたの家を整理せよ
Ⅱ列王記20:1で、主はヒゼキヤに「あなたの家を整理せよ」と命じました。この言葉の内容は何でしょうか。これは彼の死後における王家の運営に備えて、政務の引継ぎをせよという意味です。その引継ぎには、後継者の任命が含まれていました。
 
ところがヒゼキヤにはこの点で、大きな問題がありました。彼には世継ぎがいなかったからです。Ⅱ列王記20章の最後と21章1節を見ると、ヒゼキヤが死んだとき息子のマナセはまだ12歳でした。ヒゼキヤがいやされてから死ぬまで15年生きたわけですから、この命令が語られたときには、ヒゼキヤには子どもがいなかったのです。
 
ですからヒゼキヤにとってこの問題は深刻です。後継者の任命ができないまま、死を迎えなければなりません。誰が後を継ぐのでしょうか。いえ、ヒゼキヤよりも神ご自身にとってはなおさら深刻です。なぜならこの事態は、ご自分が誓った契約が破られることを意味するからです。その深刻さを理解するために、ダビデ契約を少しだけ見てみましょう。
 
●ダビデ契約
「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(Ⅱサムエル記7:16)
 
上記の言葉は、ダビデへの契約の最後の部分です。これはダビデの血筋を引く王が、ユダ王国を永遠に治めるという約束です。ということはヒゼキヤの跡継ぎは、彼の息子のはずです。しかしヒゼキヤは、子がないまま死ぬと言われたのです。だから「あなたの家を整理せよ」と。この命令に、彼はどれほど困惑したことでしょう。神は契約を破るのでしょうか。いいえ、それはありえません。となると、次に考えられることは、ヒゼキヤが神に裁かれたという疑いです。
 
●神の裁きか?
ヒゼキヤはもともと正しく忠実な王でした。Ⅱ列王記18章を見ると、ユダ王国の王に任命されたヒゼキヤは、宗教改革を断行しています。「高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し・・・。」(4節)その後も彼は主に忠実に仕えました。Ⅱ歴代誌29章~32章に書かれている彼の功績を考慮するなら、イスラエル全体の王の中でも賞賛に値する王のはずです。彼が死んだとき、民は「彼に栄光を与えた」と書いてあるとおりです(Ⅱ歴代誌32:33)。
 
正しく神に忠実な王が生涯の半ばで不治の病に冒され、跡継ぎもないまま死んでゆく。それによって、ダビデの家系が断たれてしまう。これはどこかおかしいのではないでしょうか。ヒゼキヤが置かれた窮地は、彼の罪が余りにもひどいがゆえの神の裁きとは考えられません。残された可能性は、神が意図的に用意した試練です。アブラハムが、約束の子イサクを殺せと命じられた試練を彷彿とさせられます。
 
●試練/神ご自身のため
神が人に試練を与えるとき、普通私たちは、その目的は私たちの訓練のためだと考えます。しかし以下の箇所では、試練は神ご自身のために行うものだと述べられています。
 
「見よ。わたしはあなたを練ったが、
 銀の場合とは違う。
 わたしは悩みの炉であなたを試みた。
わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。
どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。
わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。」(イザヤ48:10~11)
 
また私たちは、神が窮地の中から私たちを助け出してくださるとき、それは私たちのためだと思います。私たちを愛しておられるから助けてくださったと。しかし聖書を見ると、必ずしもそうとは限らないことがわかります。
 
「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。」
(Ⅰサムエル12:22)
 
「しかし主は、御名のために彼らを救われた。それは、ご自分の力を知らせるためだった。」(詩篇106:8)
 
これらの御言葉は、民が大切だったから神は彼らを救ったとは言っていません。民よりももっと大切なもの、つまりご自分の名のために彼らを救ったと述べているのです。神の名が異邦人からそしられないために、神の栄誉が汚されないために、主はイスラエルの民を救いました。
 
ヨシュアは神がご自分の御名を一番大切にしていることを知っていたので、次のように言いました。
 
「ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。」(ヨシュア記7:8~9)
 
このように、神が人を救ったり人のために何らかの行動をとるとき、必ずしも人が大切だからそうするわけではりません。ご自分の(栄誉や義の)ためにそうするのです。ヒゼキヤの場合もそうでした。それは次の箇所からわかります。
 
「わたしはアッシリヤの王の手から、あなた(ヒゼキヤ)とこの町を救い出し、わたしのため、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。」(Ⅱ列王記20:6)
 
この節の後半に「ダビデのために」とありますが、ダビデはこのときすでに死んでいてエルサレムに住んでいるわけではありません。ですからこれは、ダビデ自身のために町を守るという意味ではありません。ダビデと結んだ契約のために、という意味です。契約を破ると神の栄誉が汚れてしまうので、ご自分の栄誉を保つために町を守るのです。
 
ヒゼキヤの話に戻りますが、Ⅱ列王記20章5節を見ると「あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられる」というフレーズがあります。ここで主はご自分を「ダビデの神」と呼び、ご自身が契約を忠実に守る神であることをアピールしています。
 
ヒゼキヤ自身も、主が契約を守る神であることよく知っていました。Ⅱ列王記20章2節と3節に、「ヒゼキヤは・・・に祈って、言った。『ああ、主よ。どうか思い出してください。』」とあります。
 
この「主」という表現はヘブル語エホヴァの訳語です。エホヴァとは「存在する者」という意味です。そしてこの呼び名は、主なる神が契約の神であることを示す呼び名なのです。
 
●結論
このように、私たちの神は契約の神です。神は何よりも契約を守ること、つまりご自分の義を貫くことを重視します。契約を破れば神の名が廃れます。ですから神は契約に忠実なのです。ヒゼキヤに与えられた試練の中心的な目的は、神がご自分を顕示することにありました。契約を忠実に守る神、誓ったことを決して曲げない義なる神であることを示すことが目的だったのです。
 
ヒゼキヤも、神が約束を守る神であることをよく知っていたので、「主」(エホヴァ)という呼び名で神に訴え、ダビデ契約を自分の人生に果たしてくださるよう懇願したのでした。そしてその訴えは神の意図に叶っていたので、神はヒゼキヤの祈りに答え、日時計の奇跡を行って彼をいやし、またエルサレムを窮地から救いました。結局、すべては神ご自身のためだったのです。
 
●適用
このような教えは、人間中心主義にひたってきた私たちには面白くないかもしれません。もし面白くないと感じるなら、それは私たちの自我が、神よりも自分を愛していることの現れです。神にとって人間(私たち)よりも大切なものがあるという現実が、私たちには気に入らないのです。
 
しかし神を愛しているなら、私たちは神の義と名声を何よりも大切にすべきです。なぜなら、神ご自身がご自分の義や名声を何よりも大切にしているからです。私たちは、パウロにならいましょう。
 
「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」 ローマ11:36

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