ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2010年10月

それでは3:16の文脈を見ていきましょう。「これと同じ方法で」という表現によって、神が以前にも同じようなことをした場面があったことがわかります。私たちはその内容を調べなければなりません。なぜなら16節は「実にそれと同じ方法で、神は愛の行いをした」という意味だからです。そして14節と15節に、神が前回行った類似行為について述べられているからです。すでに述べたように、14節と15節は、原典では一つの文です。その2つの節は、本来は分割されるべきではありません。なお、この箇所の全体像は、民数記21章で見ることができます。
 
民数記21章の背景を説明します。男たちだけで60万人います。女子どもを合わせると、推定200万人余りです。彼らは荒野で、食べ物も水もない状態で行き詰っていました。イスラエルの民はシナイ半島を移動中です。これまでの経緯はというと、彼らはシナイ山で神と会いました。神は彼らと結婚式を行いました(契約を結びました)。彼らは「I will/はい、そうします」と言って誓いました。こうして、神とイスラエルは結婚したのです。
 
神は彼らに戒めを与えました。それからのち神は言いました。「あなたがたに約束の地を渡しているので、それを占領しに行きなさい」と。シナイ山からカナンの地までは、10日もかからないと言われています。40夜もかけずに行けたはずですが、ケデシュ・バルネアに到着したときには、彼らは怖気づいていました。
 
「約束の地に入る前に、スパイを送ったほうがいい」と彼らは言いました。各部族から一人ずつ、合計12人の男たちを選びました。12人はカナンの地に入り、一番熟したぶどうを持ち帰り言いました。「その地は乳と蜜が流れる豊かな土地だが、城壁が高くそびえ立ち、人々は巨人のように背が高い。だからあの地を占領するのは絶対に無理だ」と。12人のスパイのうち10人がそう言い、2人だけが「さあ、占領しに行こう」と言いました。
 
この不信仰の結果、その2人を除くその世代の人々はみな、荒野をさまよって40年間を過ごしたあげく、死に絶えました。「私たちには占領できる」と言った2人のスパイだけが約束の地に入ることができました。
 
荒野の40年の間、神はイスラエルの民をマナで養いました。神が占領せよと言ったときに、彼らは約束の地に入ってゆくべきでした。すべては彼ら自身の失敗でしたが、神は憐れみによって民を養いました。それでも彼らは不平を言いました。
 
神は食べ物と水を与えました。民は自らの不信仰のゆえに荒野にいなければならなかったのですが、それにもかかわらず、彼らはつぶやいたのです。神はイスラエルの民の不遜の罪に怒り、民の間に多くの毒蛇を送り込みました。彼らはモーセに言いました。「これは自然災害ではありません。神が行っているのです。私たちの不遜の罪のゆえに、神は私たちを殺して、滅ぼそうとしているのです。」「モーセよ。私たちはあなたに罪を犯し、神に罪を犯しました。蛇を取り去ってくださるように、神にお祈ってください。」
 
ここで重要なポイントは、神が蛇を取り去らなかったことです。蛇は民をかみ続け、人々は死に続けました。しかし神は、死から逃れる道を用意してくださったのです。「モーセよ。青銅の蛇を作り、それを長い棒の先端に付けなさい。すべてのかまれた者は、それを仰ぎ見るなら生きる。」
 
神は蛇を取り去りませんでした。民は、死の危険の中に置かれたままでした。しかし神は、逃れるすべを与えてくださいました。聖書によると、誰かがかまれても、青銅の蛇を見れば毒の殺傷力がなくなり、人々はいやされたのです。これが初めに神が愛を示した場面です。そしてこれと同じようにして、神は反抗的な世を愛し、ひとり子を与えたのです。イエスご自身による平行描写はこうです。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」
 
それではヨハネ3:16と、イスラエルの悪しき歴史的事実との関連から、一体どのような結論が導き出せるのでしょうか。私がまず初めに導き出す答えはこれです。イスラエルの神はイエスの父であり、そのお方が旧約の神であり、その同じお方が新約の神であるということです。逆もまた真なりです。なぜ私はこのことを強調するのでしょうか。それは21世紀の福音主義の中に、千数百年前に存在したMarcionism/マルキオン主義と呼ばれる、間違った教えが再興しているからです。
 
この教えの主張は、旧約の神と新約の神は同じ神ではないというものです。マルキオンの考えはこうです。「私は旧約の神は嫌いです。厳しい神だからです。旧約の神は人々を殺して滅ぼすからです。私は新約の神、イエスの父である愛なる神は信じます。」こんにちも人々は、旧約の神のイメージと新約の神のイメージを対立させています。あなたも今までに同じことをしたことがありませんか。あるはずです。昨今、旧約の神を、厳しく破壊的な神、あなたの嫌いな神として語り、対照的に新約の神を、親切で忍耐強く、愛のある素敵な神とする風潮が横行しています。あたかも異なる2種類の神であるかのようにです。
 
こんにちこの現象は、すさまじい勢いで再来しています。それは愛なる神の福音という姿をとって、多大な影響を及ぼしているのです。人々は、旧約における神の啓示をもてあそんでいます。今から私は、こんにち多くの人々に読まれている二人の著作者の名前を申し上げます。現代のキリスト教界で最も人気を集め、広く読まれている著作者は、フィリップ・ヤンセイです。私は最近、彼の最新作の推薦文を書いてほしいと依頼されましたが、原稿を読んでみてお断りしました。というのは、彼が肯定的に引用した文献の中に、イエスは旧約の神の「父性愛」とは対照的に、神の「母性愛」を表すためにこの世にやって来たという内容があったからです。この表現は当たり障りのない表現ではありますが、言わんとしているところは同じことです。「旧約の神は、どうも厳しくて訓練至上主義者ですが、新約の神はあなたのお母さんのような存在です。」これは誤った教えです。この教えは、ヨハネ3:16に対抗するものです。なぜならこの教えは、ヨハネ3:14~15に対抗しているからです。
 
スティーヴ・チョークの著作も、大きな物議をかもし出しています。スティーヴ・チョークといえば、こんにちの福音派において最も傑出した論客です。物議の中心は、十字架に関する彼の主張が、人々に不快感を与えているというものです。彼は、もしイエスが自分の犯していない罪のために罰せられたのであるなら、十字架は宇宙規模の児童虐待だというのです。私がその本に対して問題を感じるのは、十字架に関する意見だけではありません。神の愛を強調する余り、旧約の神はカナン人の聖絶を命じたことによって「民族浄化の罪を犯した」と述べていることです。あたかもその命令を出した神は、イエスの姿に見られる新約の神とは別の神であるかのように主張しているのです。
 
しかしヨハネ3章においては、食べ物のことで不平不満を口にしたイスラエル人を殺した神は、世を愛した神です。ひとり子を与えた神です。どちらも同じ神ではありませんか!そして神の愛の行為は、イスラエル人の間から蛇を取り去るのではなく、脱出の方法を提示するものでした。それと同じようにして、神は私たちのためにご自分の息子を差し出したのです。そしてその息子は、今や私たちのために「旗ざおの蛇」となったのです。
 
みなさん、おわかりですか。ヨハネの福音書は、不遜の罪でイスラエル人を殺したのと同じ神が、私たちにひとり子を差し出した神だと述べているのです。この箇所では、旧約の神と新約の神の間に食い違いなどまったくないではありませんか。このように、文脈で解釈することが重要なのです。16節だけを抜き出し、14節や15節を無視するとき、あたかも新約と旧約の神は別々の神であるかのように誤解されるのです。新約の神は旧約の神よりもずっと親切で、ずっと愛があるかのように思われてしまうのです。しかし実のところ、ヨハネは「それと同じように」と言っているのです。
 
この世界は死の宣告を受けています。そして神がしていることは死の宣告を取り下げることではなく、そこからの逃げ道を与えることです。ヨハネ3:16の神は、ヨハネ3:14~15の神です。そして民数記21章の神です。かつて主の民をあのような方法で取り扱った同じ主が、こんにちも主の民をそのような方法で取り扱ったのです。旧約の神と新約の神が別の神であってはならないのです。
 
ヨハネ3:16を読むときに忘れてはならないことは、前回はどのような出来事が起こったかです。つまり神が、多くの主の民を不遜の罪のゆえに滅ぼしたということです。そしてただ愛のゆえに、死を回避する道を与えてくださった、ということです。その愛こそが、ヨハネ3:16の愛なのです。
 
繰り返しますが16節を、神はすべての人を愛しているとする解釈は間違いです。今このときも、神は全世界に死の宣告を下しているからです。ローマ1章を見るなら、最悪の罪というのは、神を神としてあがめないことです。この罪一つをとっても、この世界は死に値するのです。たとえ神が私たちの間に毒蛇を送り込んだとしても、神は正しいとされるでしょう。
 
ヨハネ3:16の本来の感覚をつかんでいただけましたか。イスラエル人を殺していた神が、愛の行いとして、逃げ道を与えてくださったのです。ヨハネ3:16は、すべての人を愛している神に関する聖句ではありません。逃げ道を備えた神に関する聖句です。このことのゆえに、主を賛美します!
 

これだけヨハネ3:16を詳しく見たら、もう十分だと思うかもしれませんが、実はそうではありません。私たちが通り過ぎた2つの言葉があるのです。その2つの言葉は、最も重要なことを証明する言葉です。一つ目は、「For God so loved the world…」の「For/というのは」という言葉です。(訳注:新改訳聖書では、この言葉は「実に」と訳されています。)この言葉はなぜこの位置にあるのでしょうか。何か理由があるはずです。
 
また私たちが通り過ぎたもう一つの言葉は、「so/ほどに」という言葉です。
 
 
For/というのは(実に)
 
まず初めに、「というのは(実に)」について考えてみたいと思います。この言葉はなぜこの位置にあるのでしょうか。この言葉を使って文章を書き始めるということは、どういうことを意味するのでしょうか。たいていの人は、そのようなことは気に留めません。「というのは」は通常、前の文との連結の役割を果たす言葉です。「というのは」を使うことによって、前文の内容を拡大したり、説明したり、深めたりします。ということは、3:16は、3:15や14抜きには意味をなさないということです。(14節と15節は、ギリシャ語原文では一つの文です。)16節は、「というのは」を文頭に付けずに「神はそのひとり子をお与えになった・・・」と書き出すべきではありません。原文では「というのは、神はそのひとり子をお与えになった・・・」と書かれているからです。そういうわけで、16節で何が説明されているのかを調べる必要があります。
 
訳注:英語聖書の「For」と日本語聖書の「実に」に当たるギリシャ語は、「gar/ガル」という接続詞です。この本の著者が述べていることは、このガルを訳文の文頭に置くべきだということ、省略すべきでないということです。新改訳聖書の「実に」という訳そのものは間違いではありません。
 
 
So/ほどに
 
ヨハネ3:16で最も誤解されている言葉が、この「ほどに」です。ギリシャ語原文では、この言葉は16節の一番初めに書かれています。ギリシャ語の場合、文の一番初めに書かれているということは、その言葉が強調されていることを意味しています。原文では次のような順番で単語が並んでいます。「ほどに、というのは(実に)、愛した、神は。」これは何を意味しているのでしょうか。
 
残念なことに私たちは、「ほどに」という言葉を「ひとり子をお与えになったほどたくさん愛した」とか「深く」愛したとか「それほど大きな愛で愛した」というふうに愛のサイズという観点で解釈しています。しかし実はこの単語はそのような意味ではなく、「thus/このようにして」とか「in this way/このような方法で」あるいは「in the same way/これと同じ方法で」という意味なのです。つまり「神はそのような方法でそうした」「神がそうしたのは、このようなやり方でです」という意味です。前述の「というのは」と組み合わせると「というのは、神はそのようにして世を愛した」「というのは、神はそのような方法で世を愛した」となります。「それほどたくさん」とか「それほど深く」とか「それほど大きな愛で」という意味ではありません。
 
14節に「モーセが荒野で蛇を上げたように」とありますが、「ように」に当たるギリシャ語と、前述の「ほどに」(このようにして)は同じ単語です。それを参考にして3:16を訳すなら「というのは、このようにして神は世を愛しました」となります。このように、「ほどに」という言葉は、神の愛のサイズについて述べているのではなく、方法について述べているのです。
 
ここまででわかったことは、「というのは」(実に)も「このようにして」(ほどに)も前文と16節とを結び付けている言葉だということです。それゆえに私たちは、16節だけを独立させて解釈することはできないのです。「というのは、このようにして」「というのは、これと同じ方法で」と書かれているからです。また「For」に当たるギリシャ語は、「実に」と訳すことも可能です。そう訳すなら「実にこれと同じ方法で、神は世を愛しました」となります。それでは、「これと同じ方法で」とは、具体的にはどのような方法でしょうか。
 
その方法を調べる前に、これまでに私たちが発見したことを基にして、ヨハネ3:16を訳してみましょう。
 
実にそれと同じ方法で、父なる神はこの罪深い人類のために愛の行いをしました。その行いとは、神のひとり子を犠牲にしたということです。その目的は、ひとり子を信頼し続け、彼に従い続けるすべての人が、破壊されてしまうことなく、永遠のいのちを持ち続けるためです。
 
これは直訳というよりは意訳です。しかしこの訳には、これまで学んできたことが反映されていると思います。

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