ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2010年11月

●万物の保持

「御子は・・・その力あるみことばによって万物を保っておられます。」ヘブル1:3

上記の聖句は、キリストが御言葉の力によって、宇宙のすべての物を保っている事実を教えています。ここで「保っておられます」と訳されているギリシャ語フェローには、運ぶ、抱える、動かすなどの意味もあります。

このフェローは、新約聖書の中では、普通、ある物を別の場所に運ぶ場合に使われています。例えば、ルカ5:18でイエスのもとに中風の人をベッドごと運んだとか、ヨハネ2:8で、祭りの際にぶどう酒に変えられた水を「宴会の世話役のところに持って行った」とか、パウロのもとに上着を運ぶ(Ⅱテモテ4:13)などです。

ですからヘブル1:3は、単に「保っている」というよりも、目的をもって万物を一つの場所から別の場所へと運んでいるという活動的な意味合いを持っています。

またフェローは、ヘブル1:3において現在分詞の形で使われており、英語でいうところの現在進行形の意味を表しています。つまりキリストはその御言葉の力によって、今この瞬間も万物を運び続けているということです。

「なぜなら、万物は御子によって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」コロサイ1:16~17

コロサイ1:17でパウロは、「万物は御子にあって成り立っています」と述べています。「成り立っています」と訳されているギリシャ語スニスタオーは、同じ場所に設置する、一緒に置く、ひとまとめにするなどの意味の言葉です。

ですからコロサイ1:16~17が意味しているのは、キリストが万物を形造り、それらが崩壊しないように維持しているということです。

ということは、もしキリストが万物を保持することを止めたなら、神以外のすべての物は消滅するということです。この事実は、ネヘミヤ9:6からもわかります。

「あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。」

ペテロも同調してⅡペテロ3:7で次のように述べています。

「今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どもさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」

※以上の参考文献:"SYSTEMATIC THEOLOGY" by Wayne Grudem

●霊的戦いへの適用
私たちは、神が絶対的かつ唯一の主権者(実力者)でることを、日常の生活の中で覚える必要があります(Ⅰテモテ6:15)。「万物」の中にはサタンや悪霊も含まれるのですから、神がサタンを生かすのを止めれば、一瞬にして彼らは消滅するのです。彼らを生かすも殺すも神のみこころ次第です。

こんにちの福音派では、サタンの力が非聖書的なレベルにまで誇張され、時にはあたかも神と同等かのようにさえ考えられていますが、そのような考えは大きな間違いです。神とそれ以外の被造物との間には、圧倒的な差異があり比較になりません。

どれくらいの差異かといえば、無限大です。なぜなら神は無限の存在ですが、サタン・悪霊は有限だからです。一億は大きな数ですが、無限大と比較したなら無限の差があるのと同じように、サタンは人間と比べるなら力強く悪賢い存在ですが、神と比べるならすべての点において無限に劣るのです。

20世紀にピーター・ワグナーなどアメリカの教役者を中心とした霊の戦いの神学が流行しましたが、その弊害としてサタンと悪霊がクリスチャンたちの思考の中で、必要以上に主権と力を増し加えた側面があります。

私ダビデは、当時彼らの著書の大半を日本で翻訳出版していたキリスト教出版社の翻訳チームの一員でしたが、ピーター・ワグナーの著書は、文化人類学的な調査を基に論じられている部分が少なくありませんでした。

聖書が明確には述べていないことについて、現象面のデータを基にして考察し、結論に反映さる傾向が否めません。聖書の主張を超えて、サタン・悪霊の力や働きが強調されたといっても過言ではありません。サタン・悪霊が、教役者らの主張を利用して、読者の思考の中で力を得たのです。

神はこの宇宙の造り主であり、保持者であり、王です。神はサタン・悪霊によって計画を妨害されたり、霊的戦いに敗れたりするお方ではありません。そのような記事は、聖書にはまったく存在しません。聖書は、いかなる存在も神の意のままであり、神のすべての計画は神の意図したままに成し遂げられると教えていることを覚えましょう。

  私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。

  その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。

  地に住むものはみな、無きものとみなされる。

  彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。

  御手を差し押さえて、「あなたは何をされるのか」と言う者もいない。

  ダニエル4:34~35

●神の言葉→信仰→成就
クリスチャンの間では、「信仰によって」という言葉が独り歩きしているように思います。しかし信仰とは、神の言葉が語られているからこそ運用できるもので、人間主体ではなく神主体の行為です。教会の集会で短くティーチングした際のノートなので、理解しにくいかもしれませんが掲載します。

●ノアの場合
「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告(ギ:通知)を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」(ヘブル11:7)
 
◆神の言葉
「あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。・・・わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。」
(創世記6:13~21)
 
◆信仰
「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」(同6:22)
 
◆成就
創世記7~8章
 
◆解説
洪水は人類には未経験のことでした(雨自体がおそらく初めての現象だったはず)。しかしノアは神への「恐れ」(ヘブ11:7)のゆえに、「信仰による行いを」もって従いました。箱舟の建造には、約100年かかりました(創世記5:32と6:10と7:6から計算)。
 
●アブラハムの場合
「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受けるべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」(ヘブル11:8)
 
◆神の言葉
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。・・・地上のすべての民族はあなたによって祝福される。」(創世記12:1~3)
 
◆信仰
「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。」(同12:4)

◆成就
「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(ガラテヤ3:14)
 
◆解説
アブラハムへ契約の実質的な内容は、異邦人の救いでした(ガラテヤ3:8)。そのため成就は現在も進行中です。
 
●ペテロの場合
水上歩行(マタイ14章)
 
◆神の言葉
「来なさい」(マタイ14:29)
 
◆信仰
「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」(同14:28)
 
◆信仰+成就
「そこで、ペテロは舟から出て(ここまでは信仰)、水の上を歩いてイエスのほうに行った。」(同14:29)
 
◆解説
信仰とは、常に神の言葉(約束あるいは命令)とワンセットで働くものです。人間の勝手な思い込みは、信仰ではありません。信仰は、救いの場合は別として、通常、行いが求められます。
 
「このように信仰も、もし行いを伴わないなら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)

 

「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」使徒17:30

この聖句は、人類(アダムとその子孫)に対する神の契約と関係があります。ホセア6:7に次のように書かれています。

「彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。」

ポイントは、創世記2:16~17の言葉は、神の契約だったということです。その箇所を振り返りましょう。

「神である主は人に命じておおせられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」

これは条件付の契約です。「もしあなたが、善悪の知識の木の実さえ食べなければ、永遠に死ぬことはない(=永遠に生きることができる)。」つまり、一つの禁止令さえ守れば、永遠のいのちに至ることができるという契約です。

このように人間は、神に創造された時から、神の命令を守るように定められていました。それはローマ9:20からもわかります。被造物は、単に被造物であるという理由だけで、創造者に従わなければならない定めの下に置かれているのです。

アダムも上記のような条件の命令の下に置かれました。そのような条件付の定めの下で、神は永遠のいのちをアダムとその子孫に提示したのです。しかし知ってのとおりアダムとその子孫はこの神のテストに落第し、契約を破りました。このようにしてアダムと私たち人類は、神に対して罪を犯したのです。

契約を破るなら(罪を犯すなら)、罰が伴います。それはこんにちのこの世の契約と同様です。たとえば、私がどうしても買いたい物があって、銀行から借金をしたとします。しかしお金をたくさん借りすぎて、私の返済能力を超えていてしまいました。よって、私は返済ができません。

では銀行あるいは裁判所は、「はい、わかりました。返さなくていいですよ」と言うでしょうか。とんでもありません。銀行と私の間には契約があり、契約を破れば法にのっとって私は罰を受けなければなりません。返済する能力がたとえなくても、罰は受けなければならないのです。

これと同じことが、神と人間の間にもあります。人間は神の命令に従う能力がありません。アダムが罪を犯したためです。しかし能力がないからといって、神の契約を破ってしまった責任がなくなったわけではないのです。たとえ神の命令に従う能力がなくても(悔い改める能力も含む)、依然として人類には神の命令に従う義務があり、契約を破った罰を受けれなければなりません。

すべての人間は神に罪を犯したのですから、すべての人間が神に悔い改めなければならないのです。この責任は、選ばれている人々かどうかとは関係ありません。ただ一点、アダムの子孫かどうか、すなわち神の被造物かどうかということと関係しているのです。

ですから冒頭の御言葉は、あらゆる人間に対して、例外なく当てはまるものです。イエス・キリスト以外のすべての人間は、神に対して悔い改めなければなりません。もちろん恵みによって救われるから悔い改めもできるのるのですが、たとえ救いに定めれていない人、つまり悔い改めることなどできない人であっても、アダムの子孫であるなら、また神の被造物であるなら、ただそれだけの理由で悔い改めの義務があるのです。

●無知な時代との違い
しかし、疑問が一つ残ります。無知の時代と今の時代は違うとパウロは言っています。この時代の違いとは、どういうことなのでしょうか。その答えは、ローマ3:25にあると思います。

「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。」

またヨハネ14:6にこうあります。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

イエス・キリストが神を知る唯一の方法です。キリスト以外に、神を知る方法は人類に与えられていません。福音を聞く機会があるなしにかかわらず、神がキリスト・イエスを神への唯一の道として公にお示しになったことに変わりはありません。

イエスの十字架を境に、神の悔い改に対する秩序が変わったと考えられます。イエスの公生涯の最初の一言は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」でした(マルコ1:15)。この言葉は、この秩序の更新と深く関連していると思います。

以上の理由から、冒頭の御言葉は、文字通りにすべての人が悔い改めを命じられていると解釈すべできです。ただし命じれてはいても、そうする能力は、恵みによって救いに定めれている人しか与えられません。そこが神の主権の厳しいところですが、ここでもまた、選ばれた私たちクリスチャンは、価しない恵みのゆえに神をほめたたえるわけで、その神への賞賛こそが、全人類の中から一部の人々を選んだ神の理由なのですから(エペソ1:6)、私たちはそれを受け入れなければなりません。

「神は、すべての人々が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」Ⅰテモテ2:4

過去の記事でも述べましたが、21世紀を生きる私たちは、聖句の字面だけを見て表面的な解釈をしないように肝に銘じなければなりません。聖書を解釈するときは、聖書全体を含めた文脈の中で解釈しなければなりません。冒頭に上げたⅠテモテ2章4節も、しばしば解釈において間違えられている箇所です。この聖句を正しく理解するには、2章のはじめから続いている文脈を見なければなりません。

2章1節
「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」

新改訳聖書では、「すべての人のために」と「王」の間に「また」という言葉を入れていますが、この「また」という言葉は、原典には存在しません。そのため口語訳では、このような言葉は訳されていません(注)。しかしこの「また」という言葉が災いして、あたかも「すべての人」とそのうしろの「王とすべての高い地位にある人たち」が別の人々を指しているかのように読めてしまいます。

注:口語訳「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。 」

しかしここでパウロは、「すべての人」の言い換えとして「王とすべての高い地位にある人たち」と続けているのです。つまり、「すべての社会的階層の人」という意味です。「この世には社会的に色々な種類(階層)の人々がいる。王もいれば、その他の高い地位に就いている人々もいる。そのすべての社会的種類(階層)の人々のために祈りなさい」と教えているのです。

4節の「すべての人」も同じことです。「神は、すべての社会的階層の人々が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる」というのがこの聖句の意味です。

もしこの「すべての人」という言葉を表面的に解釈して、世界に生きているすべての人間と解釈するなら、3節の意味はこうなります。「この地球に存在している70億人全員のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。そうすることは、神に喜ばれることなのです。」

しかしヨハネ17章を見るなら、イエス・キリストですらこの世の一部の人々のためにしか祈っていません。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです」(9節)。「わたしは、ただこの人々のためにではなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」(20節)。つまり弟子たちと、彼らの伝道を通して救われた人々です。言い換えれば、イエスは「選ばれた人々」のためにしか祈らなかったのです。

もし神が文字通り「すべての人々が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる」としたら、イエスが9節のような言葉を発することはありえません。また、もし地上に生きるすべての人間のために祈ることが神に喜ばれることであるなら、イエスは必ずそのように祈ったはずです。イエスほど神に忠実なお方はいないからです。

●新約聖書中の「すべての人」
新約聖書中には、上記以外の箇所でも「すべての人」あるいは「すべての人々」と書かれている箇所がいくつもありますが、ほとんどの場合、文字通りの「すべての人」という意味ではありません。

例1)
ローマ5:18に「ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです」とあります。もしこの箇所の「すべての人」を表面的に解釈すると、「ひとり(イエス・キリスト)の義の行為によって、人類が創生されてからこんにちにまでに生まれてきたすべての人間および終末に至るまでに生まれてくるすべての人間が救われる」ことになってしまいます。この考えは「万人救済主義」と呼ばれ、イエスを信じても信じなくても、神は究極的にすべての人を救うのだという危険な教えにつながります。実際、過去においてこのような教えが広まった時代があり、教会は闘わなければなりませんでした。

例2)
Ⅰコリント15:22に「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」とあります。この2番目の「すべての人」を表面的に解釈するなら、「キリストを信じても信じなくても、地球上に生まれるすべての人間が救われる」という意味なってしまい、例1と同じことになります。ですからこの聖句の2番目の「すべての人」は、「キリストにあるすべての人」と解釈しなければなりません。

実際、原典では「キリストによって」の「よって」という部分は、英語のinにあたるエンというギリシャ語が使われています。ですから、この箇所をギリシャ語に忠実に訳すなら「油注がれた者にあって、すべての人が生かされるからです」となります。事実、新共同訳は「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」と訳しています。つまり、新改訳聖書は、この箇所を誤訳しているということです。

例3)
使徒2:17に「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」とあります。表面的に解釈する人たちは、これを根拠にして終末のリバイバルにおいては、地球上に存在するすべての人間の上に聖霊が注がれると解釈します。しかしこのあとを見ると、「息子」「娘」「青年」「老人」「しもべ」(奴隷)「はしため」(女奴隷)が預言を語ると書かれており、社会的な階層が表現されています。

救われていない人は神にそむき、悪霊に従って生きています(エペ2:2)。また救われていない人は神の怒りを受けており(エペ2:3、ロマ1:18)、神に裁かれています(ヨハ3:18)。そのような霊的状態にある人たち全員に神の聖なる霊が注がれると解釈するのには無理があるばかりか非聖書的でもあります。ですからこの箇所の「すべての人」も「すべての種類の人」「すべての階層の人」と解釈すべきです。

このようにすべての聖句は文脈の中で解釈しなければなりませんし、聖書全体に流れている教理との関連を考慮して解釈しなければなりません。特に「すべて人」という表現には注意が必要なのです。

●テトス2:11
この節の「すべての人を救う神の恵みが現れ」というフレーズも、当然上記の原則にのっとって解釈する必要があります。もしこの箇所が「地球上に生まれてきたすべての人間を救う神の恵みが現れた」と解釈するなら、今までにキリストを拒んで死んでいった人々まで救われなければなりません。しかしそのような解釈は馬鹿げています。ですから、ローマ10:12の「すべての人」と同じように、ユダヤ人と異邦人、つまり「すべての人種」と解釈すべきでしょう。

●ヨハネ12:32
「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のとろに引き寄せます」とイエスが述べています。この節だけを見ると、イエスの十字架によってすべての人間が救われると言っているかのようです。しかし度々説明しているように、「すべての人」を今までにこの地球に生まれてきたすべての人、またこれから生まれてくるすべての人と解釈するなら、地獄に行く人はゼロになってしまいます。ですからこの箇所の「すべての人」も、別の解釈をしなければなりません。

ヒントは12:20にあります。はじめは、イエスと弟子たちの周囲にいたのはユダヤ人だけでした(9節)。しかし20節で、祭りに参加するためにベタニヤに何人かの「ギリシャ人」がやって来ました。イエスは23節で、このギリシャ人たちに向かって話し始めます。その話が32節まで続いているのです。

では、イエスはどのような意味で「すべての人を自分のところに引き寄せます」と言ったのでしょうか。それは、ユダヤ人だけでなく異邦人も救いに導くという意味です。新約聖書では、「ギリシャ人」ということによって異邦人という意味を表しています。ですから32節の「すべての人」とは、ユダヤ人+異邦人で「すべての種類の人」「すべての民族」という意味です。ちなみに、このギリシャ人=異邦人という表現方法は、パウロも何度も使っています(ロマ1:14、同2:9、同10:12、Ⅰコリ1:22~23、ガラ3:28)。。

「すべての民族」と言う解釈は、ガラテヤ3章によっても支持されます。ガラテヤ3章によれば、創世記12:3のアブラハム契約=福音であり(3:8)、ゆえにアブラハムに語られた祝福がイエスの十字架を通して異邦人に及んでいることがわかります(3:14)。創世記12:3で「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と神が言っていますが、この「すべての民族」がヨハネ12:32のイエスの言葉では、「すべての人」と言い換えられているのです。

●2種類の人間
聖書は、霊的な意味で2種類の人間がいることを教えています。創世記3:15に「おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く」とありますが、「おまえの子孫」とはサタンに属しキリストを信じることのない人々のことであり、「女の子孫」とはキリストおよびキリストに属する人々(選ばれた人々)を指しています。前者については、ヨハネ8:44でイエスがこう述べています。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。」

この他にも2種類の人間を描写している箇所はいくつもあります。マタイ25:32~34「羊と山羊」、ヨハネ10:26~27「わたしの羊」と「わたしの羊に属していない」人、Ⅰコリント1:18「滅びに至る人々」と「救いを受ける私たち」(参照:Ⅱテサ2:10の「滅びる人たち」)、マタイ25章の「愚かな娘と賢い娘」、「小羊のいのちの書に名が書いてある者」(黙示録21:27)と「小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書き記されていない者」(黙示録13:8、同17:8)などです。

●神の恵み
このように聖書は、はっきりと「神によって選ばれた人々」とそうでない人々がいることを教えています。すべての人に救われる可能性があるとは、まったく述べていません。

パウロはエペソ1:6において、一部の人々だけが神から選ばれ救いに定められている理由は、「恵み
の栄光が、ほめたたえられるため」だと教えています。

またローマ9:11~13では、神が「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」のは、その二人が「まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの確かさが、行いにはよらず、召してくださる方による」ためであるとパウロが説明しています。

私たちは、このような方法で恵みを表すと定めている神をありのままで受け入れ、信じ、愛する必要があります。神を人間中心主義の枠にはめ込むべきではありません。神の恵みをぼやかしてはならないのです。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。(ローマ10:13)

聖書は、旧約でも新約でもそうですが、書かれたときには章も節もありませんでした。一枚の手紙、一本の巻物であり、文章は区切りのない一続きだったのです。それを近代の人々が章に区切り、しばらくのちに節に区切りました。
 
読みやすくなった利点はありますが、特定の聖句を文脈から抜き出して解釈するという弊害も生み出されました。ですから私たちは、特定の聖句を解釈するときは必ず、もう一度文脈の中に戻し、文脈の中で解釈しなければなりません。それを怠るときに、間違った解釈が生じます。
 
上記の聖句も、現代人のクリスチャンによって、しばしばその弊害の犠牲になっている聖句の一つと言えます。この聖句を正しく理解するためには、もう一度ローマ10章の文脈に戻して解釈しなければなりません。
この聖句の意味は、道を歩いている誰かを無作為に連れてきて、「あなたは死後に天国に行きたいですか。もし行きたいなら、『主よ』と叫んでください。聖書に『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』とありますから、あなたも主の名を呼ぶなら、救われて天国に行けます」と説得し、その人がそのとおりにしたならその人は救われたのですというような、あさはかなものではありません。
 
まず「主の御名」とは、イエス・キリストの人格を指しています。ですから道端を歩いている人が救われるためには、キリストの人格を知る必要があります。イエス・キリストとはどういうお方なのかを知る必要があるのです。単にイエス・キリストという名前を口で発するのとは、まったく意味が違います。
 
次に13節の「呼び求める」は、前後の文脈を見るなら、パウロが11節の「信頼する」や14節の「信じる」と同じ意味で理解していることがわかります。この「信頼する」「信じる」という意味のギリシャ語ピスチューオーは9節や10節でも使われており、14節までの文脈におけるキーワードとなっています。ですから少なくとも9節、10節からの文脈の中でこの13節を解釈する必要があります。そのためには、まず9節、10節を正しく解釈しなければなりません。
 
パウロの文章は緻密であるため、正しく理解するためにはどうしても原語のニュアンスを把握しなければなりません。また、新約聖書は約2000年前に他国の人々によって他国の人々宛てに書かれた書物ですから、正しく理解するには当時の歴史的文化的背景を知る必要もあります。
 
●告白
9節、10節で「告白」と訳されている言葉があります。これはホモロゲオーというギリシャ語で、「同じ」という意味のホモスと、語る、話す、言うという意味のロゴーからできています。ですからホモロゲオーは「同じことを言う」というのが原義で、これが「同意する」「賛成する」という意味で使われていました。
ですから9節、10節の「イエスを主と告白する」というフレーズの意味は、イエスを主として認め、そう告白するということです。
 
●背景
ここで当時のギリシャ・ローマ社会に生きていた人々には、大きな問題が生じます。当時のギリシャ・ローマ社会では、キュリオス(ギリシャ語で「主」という意味)といえばローマ皇帝を指していました。そして人々はローマ皇帝をキュリオスとして崇拝させられていました。もし誰かが、皇帝以外の人物を指してキュリオスと呼ぶならそれは大問題です。別の皇帝が存在し、別の皇帝を崇拝しているとみなされるからです。
そのような人はローマ皇帝を否定する者、皇帝に反逆する者とみなされて殺されなければなりませんでした。ですからクリスチャンがギリシャ・ローマ社会でイエスを主と告白することは、まさに命がけのことだったのです。「ローマ人への手紙」はこのような社会的背景の中にいるローマのクリスチャンたちに書かれているのです。
 
●9,10節の解釈
新改訳聖書の本文では、9節の冒頭に使われているホティーというギリシャ語の接続詞が、「なぜなら~だからです」という意味に訳されていますが、注釈にあるとおり、ホティーには「すなわち」という意味があり、この意味で使われている箇所のほうがずっと多いのです。
また10節の「義と認められる」とは、神から罪なしと宣言されて罪の赦しを受けていること、すなわち救いを受けていることです。ですから新改訳聖書で「救われるのです」(10節)と未来形のようなニュアンスで訳されている部分は、原典では現在形です。
 
これらを念頭において9節、10節を解釈するなら、パウロが言っていることはこうなります。「すなわち、あなたが、イエスこそキュリオス(主)であると同意して告白しており、こころからイエスの死と復活を信じているなら、(あなたは真のクリスチャンであり)救いをまっとうすることができます。人は心から信じることで義と認められており、口で告白しているなら、その人は救われているのです。」
 
●重要な点
ですから集会で伝道者が9節、10節を引用し、ノンクリスチャンに向かって「もしあなたがイエスを主と告白するなら、あなたは救われるのです」と教えることは、まったくの誤用です。パウロは、すでに救われているローマのクリスチャンたちに真に救われている人の信仰がいかなるものかを解説しているのであって、未信者に対して救われるための方法を述べているのではありません。ノンクリスチャンは、命がけでイエスをキュリオスとして告白などできません。先に述べたとおり、もともと「ローマ人への手紙」は未信者ではなく信者に宛てた書物なのです。
 
●11、12、13節の解釈
以上のことを踏まえつつ解釈すると、これ以降の各節の意味は次のようになります。
12節「ユダヤ人とギリシャ人(=異邦人)の区別はありません。同じ主が、すべての人(=すべての人種)の主であり、主を呼び求める(=信頼する、11節参照)すべての人(すべての人種)に対して恵み深くあられるのです。」
 
12節でパウロは、この世界のすべての人が救われうると言っているのではありません。神は救いにおいて、人種の区別をしないことを強調しているのです(ガラテヤ3:28参照)。
13節はヨエル2:32の引用です。この箇所は、主がレムナントを残しており、そのレムナントの中に主が呼んでおられる者たちがいることを教えています。つまり、世界のすべての人種の中に神が救おうとしている者たちがいることをパウロは強調しているのです。
 
言い換えると、ローマ10章においてパウロは、ユダヤ人のように行いで救いを得ようとするのは間違いで、信じること(ピスチューオーすること)によって、人種とは無関係に異邦人であっても救いを得られるのだということを説いているのです。
 
そこで13節は次のような解釈になります。
「主の御名を呼び求める者(=イエスの人格に信頼する者)は、だれでも(ユダヤ人でなくても)救われる」のです。
 
11節について、あえてこの順番で説明します。「彼に信頼する者は、失望させられることがことがない」の「失望させられる」はカタイシフーノーというギリシャ語が使われており、「恥をかかされる」という意味です。パウロはこの箇所において、たとえ異邦人であっても、イエスに信頼する者は恥をかかされることはない、つまり信じることによってユダヤ人でなくてもちゃんと救いを得ることができると言っているのです。
 
これらの解釈が妥当であることは、11章の冒頭を見れば明らかです。11章は1節の「すると、神はご自分の民(ユダヤ人)を退けてしまわれたのですか」という問い掛けで始まっています。

●結論
ですからローマ10章13節は、この世に存在するすべての人が、御名を呼ぶという条件さえ果たせば救われることが可能だということを意味しているのではありません。神は人種の区別をせず、たとえ異邦人であっても、イエスの人格に信頼する者はだれでも救われるという意味なのです。

●信頼する者とは
問題は、イエスの人格に信頼できる者とは誰であるかです。「だれでも」と言われてはいるものの、すべての人は罪のゆえに、神を求めることすらできません(ローマ3:11)。ましてやイエスに信頼することなど不可能です(ローマ3:12)。
 
そのような悲惨な状態にある人間ですが、神に選ばれているなら恵みによって信じることができるのです。以下の箇所は、ピシデヤのアンテオケでの伝道の場面です。ルカが、選ばれた人々の救いについてこのように描写しています。
「永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。」(使徒13:48)
パウロとバルナバの聴衆の中に「永遠のいのちに定められていた人たち」がおり、その人たちだけがイエスを信じたのです。定めれていなかった人たちは信じませんでした。このように神は、一方的な恵みによって全人類の中の一部の人たちを救いに選んでおり、その人たちは福音のメッセージを通して救いに入れられるのです。
 
●羊=選ばれた人々
選ばれている人々について、ヨハネ10章25~26節からも見てみましょう。
 
イエスが宮に集まっているユダヤ人たちと話し、彼らがイエスを信じられない理由を説明しています。一風変わった論理展開をしているので、注意深く読んでください。
 
「あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。」(26節)
 
普通とは違う論理ですね。普通は次のように言うはずです。
「あなたがたは信じません。だからあなたがたはわたしの羊ではありません。」
 
ところがイエスの理由付けはその逆で、羊ではないから信じないと言っているのです。イエスは彼らが自分の羊ではないと断定しており、彼らが羊でないがゆえにイエスを信じないと述べています。彼らが信じない根拠は彼ら自身にあるというよりも、彼らが生まれながらに置かれている霊的なカテゴリーにあるというのです。
 
言い換えると、イエスを信じるための条件があり、それはイエスの羊であることなのです。イエスの羊であるなら、イエスの声を聞いて信じることができるし、そうでなければ信じることができません。イエスと話していたユダヤ人たちはもともとイエスの羊ではないので、彼らはイエスを信じることができないとイエスは言っているのです。この違いは小さくありません。
 
人間には「羊」と呼ばれている人(=救いに選ばれている人)と、そうでない人がいることがわかります。イエスを信じるように定められている人といない人です。そしてこの条件は、福音の聞き手には変えることができません。聞く前から決まっているからです。イエスご自身が伝道したにもかかわらず、ユダヤ人たちは信じることができませんでした!
 
マタイもこの羊ついて次のように記しています。マタイ25章33~34節から見てみましょう。
「(栄光の御座についた人の子は)羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』」
 
この「世の初めから」御国を受け継ぐように備えられた人たちとは、エペソ1:4では「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び」と書かれている人々、つまり私たちクリスチャンです。Ⅱテサロニケ2:13では「神は・・・あなたがたを初めから救いにお選びになったからです」とあります。私たちクリスチャンは、神の恵みによって羊として永遠の昔に神によって選ばれました。何とありがたいことでしょうか。これを恵みと言わずして、何と言うのでしょうか。この神の恵みに感謝しましょう!

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