ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2011年03月

「その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。・・・わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4:10、14

当時のギリシャ語では、「生ける水」という表現は、「流水」を意味していました。それゆえ新改訳聖書では、欄外で「湧き出る水」という別訳を掲載しています。
 
サマリヤの女はイエスが流水の話をしたので、どこか流水が汲み取れる場所をイエスが知っているのだろうと考えたのです。

「先生。あなたは汲む物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。」4:10

井戸は深いことから、イエスが話している流水は、その井戸からは手に入らないことを女はわかっていました。しかもイエスは水を汲む道具を持っていないのですから、特別な道具なしでも手に汲める流水があるのだろうと女は考えました。
 
ですからサマリヤの女の誤解は、極めて当然の誤解だったのです。ギリシャ語がわからない私たちが考えているような、霊的な水と実際の水という単純な誤解ではありません。

●旧約的な意味
同時に、「湧き出る水」という表現は旧約聖書でも使われています。以下のような聖句を見れば、イエスがそれを意識していたことは明らかです。

「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」エレミヤ2:13

「わたしがから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」エレミヤ17:13

このように「いのちの水」「湧き水」という表現は、いのちの根源である「主」を意味してるのです。旧約時代、ユダヤ人は主を捨てました。そして同じ主であるイエスがやって地上に来たときにもユダヤ人は主を拒みました(ヨハネ1:11「ご自分の民」)。
 
しかし異邦人であるサマリヤ人は、イエスを「世の救い主」(注)と呼び、信じました(ヨハネ4:42)。ヨハネはある意味、イエスを捨てたユダヤ人と、恵みを受けた異邦人を対比させているのです。

注:「世の救い主」=ユダヤ民族+異邦人=諸民族の救い主という意味。全人類やすべての人間の、という意味ではありません。

●永遠のいのちに入る
イエスは「永遠のいのちの水」ではなく「永遠のいのちへの水」と述べています。この訳語は、ギリシャ語を直訳的に訳した表現です。この部分を解説すると以下のようになります。

原文: エイス  ゾーエン  アイオニオン
意味:~の中へ /いのち /永遠の

このフレーズで使われているエイスは「~の中へ」という意味の前置詞で、内側に移動する動作を表わす言葉です。「永遠のいのちの中へ」という表現をすることでヨハネは、信者が永遠のいのちの中へ入ることを明確に表現しています。

またイエスは4:14で、永遠のいのちを得る者は「決して渇くことがありません」と言っています。これは、一度救われたら、その救いを失うことはないということです。永遠のいのちの中へ入る泉が信じる人のうちに湧き上がるので、永遠のいのちが尽きることがないのです。その泉とはイエス自身であり、無限の神だからです。

●なぜ疑うのか
ではなぜ多くの信者は、救いを失うと疑うのでしょうか。理由は単一ではないでしょうが、過去の自分の考え方を思い出すと、その理由の一つは、救いには「信じる」という条件が伴うからではないでしょうか。
 
そしてこの条件は、「死ぬまで信じ続ける」「信仰を最後までまっとうしなければならない」という考えにつながります。そして多くの信者は、自分の意志の力で最後まで信じ続けなければならないと考えるので、「救いをまっとうすることは難しい」「途中で救いを失ってしまうかもしれない」ということになるのだと思います。

これの考えは、2つの点で間違っています。

信じることが救いの条件でることは正しいのです。しかし最初の問題として、多くの人は信仰は自分の意志によると思っているので、それを維持することも自分の意志の力によるという論理になってしまいます。
 
①入信は神による
しかしマタイ16:15~17を見てください。ペテロがイエスを信じることができたのは、ペテロによるのではなく父なる神によるものだとイエスは言っています。十二使徒のリーダーであるペテロでさえも、自分の力ではイエスを信じることはできませんでした。云わんや私たちをやではありませんか!
 
②信仰の維持も
またペテロはイエスを否み、途中で信仰を失いかけました(ルカ22:54~61)。しかし信仰がなくならなかったのは、イエスがとりなしたからです(ルカ22:31~32)。私たちも人生の途中で、信仰を失いかけるかもしれません。
 
いえ、ルカ22:31には「サタンが、あなたがたを・・・ふるいにかける」と書かれており、すべての弟子がサタンによって振るわれるのです。では私やあなたのために、イエスはとりなしているでしょうか。

ご自分によって神に近づく人々を完全に(永遠に)救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」ヘブル7:25

上記の聖句に、信者が永遠に救われ得る根拠が書かれています。それは大祭司として天でいつもとりなしてくださっているイエスの祈りによるということです。このイエスのとりなしのゆえに、私たちの信仰は保たれるのです。
 
もしこれでも自分の信仰が維持されるか心配だという人は、神の言葉に対する不信仰、あるいは神の力に対する不信仰が問題なのであって、教理的な誤解の範疇を超えています。自分の意志力にしか信頼していないので、信仰の保持が心配なのです。

というわけで、大祭司イエスのとりなしがあるのですから、本当にボーンアゲンした信者は全員、永遠に安泰なのです!

「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスあるいのちの木の実を食べさせよう。」黙示録2:7

「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。」黙示録3:5

上記の御言葉のように、黙示録2~3章に「勝利を得る者」というフレーズが出てくるところが数箇所あります。救いに関して律法的な信仰を持っている人は、救われるための条件をつけたがります。そのような方々にとって黙示録2~3章の「勝利を得る者」の箇所は、条件付の救いを立証するための根拠となっているようです。

その方々は、「勝利を得る者」というフレーズによって、救いに関して次のような定義をつけていると思われます。「勝利を得る者」フレーズが出てくる直前の箇所に書かれている困難な条件を克服した信者は救いに預かることができるが、克服できなかった信者は救いから漏れるというものです。

しかし聖書は、聖書によって解釈するのが原則です。私たちは、「勝利を得る者」というフレーズを、執筆者(使徒ヨハネ)が意図したとおりの意味で理解すべきであって、自分で勝手に創造(?)した思い込みで読むべきではありません。

●「勝利を得る者」=すべての信者
私たちはギリシャ語ではなく翻訳で聖書を読んでいますが、もしギリシャ語で読めたなら、そのような間違いに陥ることはありません。なぜかというと、黙示録に出てくる「勝利を得る者」とまったく同じ表現を、ヨハネは以下の箇所でも使っているからです。

「世に打ち勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」Ⅰヨハネ5:5

上記の箇所の「打ち勝つ者」は、黙示録の「勝利を得る者」とまったく同じギリシャ語です。翻訳者が違う表現を使って訳しただけです。どちらもニカオーという動詞の現在分詞を名詞的に使い、「勝利する者」あるいは「勝利している者」という意味の表現にしています。当然、Ⅰヨハネ5:4の「世に打ち勝った勝利」という部分にもニカオーが使われています。

Ⅰヨハネ5:4~5を見ていただくとわかりますが、「打ち勝つ者」とは「神の御子を信じる者」ですから、クリスチャンであるなら誰もが「打ち勝つ者」つまり「勝利を得る者」なのです。

そういうわけで、冒頭の御言葉にこれを適用すると次のようになります。(この2箇所だけでなく、すべての箇所に共通です。)

「クリスチャン全員に、わたしは神のパラダイスあるいのちの木の実を食べさせよう。」黙示録2:7

「クリスチャンは全員、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼(ら)の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。」黙示録3:5
 
●どちらもイエスの言葉
この黙示録で、これらの言葉をヨハネに語っているのは誰でしょうか。イエスです。イエスは別の箇所で次のように言っています。
 
「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。」ヨハネ6:39
 
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」ヨハネ10:28
 
先の適用は、上記のイエスの言葉と一致しています。イエスは、すべての信者は、例外なく最後まで救われると約束しています。
 
もし黙示録2~3章の「勝利を得る者」の箇所をもって、信仰が弱いクリスチャンは救いを失うかもしれないと解釈するなら、イエスの言葉は福音書と食い違うことになるのです。黙示録におけるイエスの言葉と福音書におけるイエスの言葉が食い違うなら、可能性は次の2つしかありません。
 
①イエスは嘘つきである
 
②聖書の記述が間違っている(=聖書は神の言葉ではない)

 
●まとめ
イエスによる救いは永遠です。もし何らかの理由で途中でなくなってしまう救いであるなら、それは永遠の救いとは言えません。信じる者に与えられるのは、永遠のいのちです。もし途中でなくなるいのちなら、それは永遠のいのちではありません。

イエスは嘘をつきませんから、永遠と言ったら永遠なのです。救いも永遠であり、信仰によるいのちも永遠です。一度救われた人は、死からいのちに移ったのです(Ⅰヨハネ3:14)。一度移ってしまったら、その継続期間は永遠ですから、二度と死の側に戻ることはありません。

一度救われても、それを失うことがあると、もし誰かが言うなら、その人は、イエスは嘘つきだと言っているのと同じです。しかし聖書は神の言葉ですから、間違いや嘘は一言もありません。

キリストにある救いは、決して失われることはありません。恐れる必要などないのです。イエスが与える平安は、世が与えるものとは違います(ヨハネ14:27)。聖書を神の言葉として、しっかり信じましょう。
 
 

ドーマギフト

「私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。そこで、こう言われています。
『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』
~この『上られた』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
この下さられた方自身が、すべてのものを満たすためにもろもろの天よりも高く上られた方なのです~
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」エペソ4:7~11

11節の5種類の人々に関しては、従来、五役者とか五職という呼ばれ方をしてきました。しかし最近は、8節の「賜物」という言葉がドーマというギリシャ語であることから、英語圏では「ドーマ・ギフト/doma gifts」と呼ばれています。日本では7節の表現を使って、「キリストの賜物」と呼ばれているようです(注)。

またこの賜物は、従来、キングジェームズバージョン(欽定訳)の訳文のゆえに、一部の信者にしか与えられない賜物であると解釈されてきました。しかし近年、11節の翻訳が見直された結果、別の解釈をすべき段階になったと思います。

注:Ⅰコリント12章の聖霊の賜物には、原文ではカリスマという言葉が使われています(12:4)。

●一部の信者か全員か
まず従来の解釈をおさらいしましょう。下記の英文がキングジェームズバージョンです。この訳文によると、使徒、預言者・・・教師の5つの役割は、「some/何人かの人」に与えられたと書かれています。これでは、信者全員に与えれているとは解釈しがたい訳文です。

KJV© 4:11
And he gave some, apostles; and some, prophets; and some, evangelists; and some, pastors and teachers;

「彼は、何人かの人に使徒を与え、何人かに預言者、何人かに伝道者、何人かに牧師と教師を与えた。」(私訳)

しかしニューキングジェームズバージョン、ニューインターナショナルバージョン、新米標準訳は以下のように訳しています。変わった点は、「何人かを使徒として、何人かを預言者として・・・」という具合に、「~として/to be, as」という表現を採用したことです。

NKJV© 4:11
And He Himself gave some to be apostles, some prophets, some evangelists, and some pastors and teachers,
NIV© 4:11
It was he who gave some to be apostles, some to be prophets, some to be evangelists, and some to be pastors and teachers,
NASB© 4:11
And He gave some as apostles, and some as prophets, and some as evangelists, and some as pastors and teachers,

「彼は、何人かの人を使徒として与え、何人かを預言者、何人かを伝道者、何人かを牧師と教師として与えた。」(私訳)

この訳に従うなら、11節の解釈は大きく変わります。5つの賜物の付与を、一部の信者だけに限定する必要がなくなります。信者は全員、5つのうちのどれかに該当することになります。
 
冒頭に挙げた新改訳聖書の訳もこれと同じ立場です。私はこの訳し方が正しいと考えています。理由は、7節や8節の文脈と一致するからです。

7節でパウロは、信者の「ひとりひとり」に恵みが与えられたと述べています。「ひとりひとり」ということは、全員です。ギリシャ語原文でも、「おのおの、すべて、あらゆる」を意味するヘカストスという言葉が使われています。

8節は詩篇68:18の引用です。詩篇のほうの意味は、神が戦いに勝利して、「高い所」つまりエルサレムにある王座につき、敵から生け捕った多くの「捕虜」を連れて来たという内容です。これを新約に当てはめると、キリストが十字架でサタンに勝利して、選ばれた人々(信者)を「捕虜」として「高い所」つまり天に連れて行ったという意味になります(注)。

注:
エペソ1:4でパウロは、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストにあって選び」と述べています。「あって」という部分のギリシャ語は、エンという前置詞で英語のinに相当します。つまり私たち信者は、「世界の基の置かれる前から」キリストの中に存在していて、キリストの中で選ばれたということです。

コロサイ3:3,4でもパウロは、「あなたがたは・・・キリストとともに、神のうちに隠されてある」「キリストとともに・・・現れる」と言っています。ですから十字架刑と昇天の時点においても、私たちのいのちはキリストのうちに存在していて、キリストともに十字架につけられ、キリストともに昇天したのです。そういうわけでこの「捕虜」とは、私たち信者を意味しています。
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8節の「人々」も信者を意味しています。キリストは天において、私たちに賜物を分け与えてくださったのです。このように、文脈が信者全員に与えたと述べているので、11節だけ一部の信者に与えたと解釈するのは無理があります。

新約では、信者はすべて祭司です(Ⅰペテロ2:9)。この万人祭司という点から考えても、すべての信者にドーマギフトが与えられ、使徒、預言者、伝道者、羊飼い、教師のいずれかの役割を担っていると考えるほうが妥当だと思います。

クリスチャンは元々、キリストに似た者として新しく創造されました(Ⅱコリント5:17、ローマ8:29)。キリストは実に、大使徒であり、大預言者であり、大伝道者、大羊飼い(大牧者)、大教師ですから、キリストの似姿である私たちに、キリストと同じ役割が割り振られることは、理にかなっています。キリストは天に帰り、私たちはキリストの大使だからです(Ⅱコリント5:20)。

●結論
これまで述べてきたことから、信者全員が使徒、預言者、伝道者、牧師(注1)、教師として教会に与えられている(注2)と考えるべきです。

注1:「牧師」と訳されていますが、原語の意味は「羊飼い」です。つまり信者を敵から守り、面倒を見る人のことです。必ずしも、現代の教会でいう「牧師」という職業を指しているのではありません。
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「使徒/アポストロス」には、「遣わされた者」という原義があります。このアポストロスは、聖書時代のギリシャ・ローマ社会においては、船が港に近づいてきたことを知らせる伝令係(メッセンジャー)でした。私は、使徒とは長期宣教師のような人々だと考えています。だからと言って必ずしも外国へ遣わされている必要はなく、神(キリスト)によってこの世に遣わされ、伝道だけでなく教会で指導的な役割を果たす人々を指していると思います。

「預言者」は、必ずしもⅠコリント12章の「預言」の賜物が与えられている人のことではなく、神からのメッセージを教会に伝える役割を担っている人が預言者ではないかと考えています。ブログをやっている兄弟姉妹の中にも、預言者がいるかもしれません。

「伝道者」は未信者に伝道するのが得意な人のことで、必ずしも職業として大衆伝道者や巡回伝道者、地域教会の伝道師などをしている必要はないと思います。「教師」は私のように、聖書を教えることに重荷がある人のことだと考えています。

注2:新改訳聖書では「お立てになった」という仰々しい言葉が使われ、あたかも任命された役職を持つ人であるかのような訳にしていますが、原文では英訳のように、「与える」という平易な言葉が使われています。私たち信者は、教会に与えられているのです。
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「キリストの賜物の量り」に従って恵みが与えられているのですから、たくさん任されている人もいれば、少なく任されている人もいるかもしれません。「ひとりひとり」が与えられている役割を果たし、「奉仕の働き」をすることによって、教会はキリストの身丈にまで成長するのだと思います(エペソ4:12,13)。
 
 
 

 

「水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々もすべておおわれた。・・・こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。」創世記7:19~21

少し前に、オーストラリア・クイーンズランド州で洪水がありました。私たちの教会は、そこに短期宣教に行っている日本人の兄弟をサポートしています。彼が被災したので心配になり、現地の様子をインターネットの映像で見て、現地の人々は大変だなあと思いました。

2月の中旬には、私たちの教会で賛美を導いていた兄弟が仙台の実家に帰るよう導かれ、みんなで祈りつつ見送ったばかりでした。今回、その兄弟や彼のご家族、家屋も無事だったので、ほっとしています。

その兄弟と入れ替わるようにして、仙台から愛知に導かれた姉妹が、私たちの教会に定着しつつあります。彼女のご家族も無事だったので、胸をなでおろしています。

埼玉には私の母親と妹がおり、懐中電灯と乾電池がなくて困っているというので、今日、買い求めて小包で送りました。

私にとって、自分自身は被災地から遠く離れているものの、身近な人々が軽度ながらも被災しているので、今回の災害は人事ではありません。

東北の津波による被災地の映像を見ると、その荒廃した様子は、同じ日本とは思えない状況です。2万人を超える人々が、一瞬にして亡くなりました。

この小さな国の一部が津波で被災してもこれだけ大変な状況なのに、ノアの洪水の場合はいかばかりであったことでしょう。ノアとその家族を除いて、すべての人間が死に絶えたのです。

●最初の被害者は神
 
「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことにだけ傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」創世記6:5~6

私たち人間は、悲惨な出来事が起こると神を呪います。

「この世に神がいるなら、なぜこんな悲惨ことが起こるのだ」「なぜ神はこんなことを起こすのだ」と、あたかも神が悪者であるかのように責めます。

しかし上記の御言葉を見るかぎり、初めの被害者は神です。「主は・・・心を痛められた。」

●すべての人間は罪人

「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深いと思うのですか。・・・あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」ルカ13:2~3

若い頃、福島県にあった開拓教会を何度も応援に行ったことがあります。礼拝のお手伝いをしたり、一緒に祈祷会をしたり、近隣の地域で霊の戦いをしました。

東北地方というのは霊的束縛がとても強い地域です。言い換えると、偶像崇拝が地域の人々の生活の隅々に入り込んでおり、とても盛んで根強い地域です。
 
キリストの教会は、その霊的風習や悪霊の攻撃と激しく戦うことなしに福音を伝えることはできませんし、存続することもできません。

しかし上記の御言葉からわかることは、東北地方の人々が特別に罪深いのではないということです。どこの国の人でも、どの地域の人でも、人間は誰でも罪深いのです。
 
今回は被害がなかった国々や地域の人々も「みな同じように」罪人であり、「悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。

被災者の方々に同情するのは決して間違いではありません。しかし私たちクリスチャンは、すべての人間が罪人であり、イエスを信じない人々に対して「神の怒りが天から啓示されている」ことを忘れてはなりません(ローマ1:18)。

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりも、やみを愛した。その行いが悪かったからである。」ヨハネ3:18~19

私たち人間はみな、「生まれながら御怒り受けるべき子ら」です(エペソ2:3)。すべての人は、悔い改めて御子を信じる必要があるのです。
 
 

災害と神の御心

「町にわざわいが起これば、それは主が下されるのではないだろうか。」アモス3:6b

「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。」哀歌3:38

●災害は神の決定による
災害は、基本的には神が定めた自然界の法則によって起こるものです。しかし聖書を見ると、それ以外に、神やサタンの意志によって災害が引き起こされることが書かれています。

クリスチャンたちの中には、この世界で起こる悪いことを、すべてサタンのせいにする方々がいます。イエスさまは優しい愛なる方だから、災害を起こして人間を苦しめたり殺したりするはずがないと考えるのでしょう。

しかしそれらの方々も、イエスがガリラヤ湖の嵐を静める力を持っていることは知っているはずです。ですからどこかで災害が起きた場合、イエスがその災害を止めなかったことを認めなければなりません。

またイエスは「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」と述べています(マタイ10:29b)。ですから、災害によって多くの人間が死んだ場合、父なる神がそれを許可したことに間違いはありません。

サタンが災害を起こす場合でも、神がそれを許可するからこそ起こせるのです。ヨブ記を見ればわかるとおり、サタンは神の許可なしに活動することはできません。
 
悪いことをサタンのせいにする考えの問題点は、あたかも神が力不足で、ご自分の願いに反することをしでかすサタンを食い止められないかのように考えることです。

しかし実際のところ、神は唯一の主権者であり宇宙の支配者です(Ⅰテモテ6:15)。サタンは人間に比べれば遥かに賢く力がありますが、神の被造物の一つに過ぎません。神の知恵と力、存在は無限ですが、サタンのそれらは有限です。サタンが神に太刀打ちすることはできません。

ですから災害が起きた場合、積極的な場合と消極的な場合を合わせて、すべて神の決定によるのです。上記の御言葉は正しく、差し引くべき部分は少しもありません。

●重要なこと
そこで私たちクリスチャンにとって重要なことは、なぜ神が災害を起こしたかを知ることです。神は何の目的もなく、気まぐれで行動することはないからです(詩篇115:3)。

私は、遠くない将来、神がこの日本を祝福すると思います。災いを起こした後で祝福するのは、聖書に書かれている神のパターンだからです。

この国に、救いに定められた人々がどれくらいいるか私にはわかりませんが、それらの人々が福音を聞いて救われるでしょう。

私たち、先に救われた者たちは、そのために備えるべきだと思います。ぶどう畑で働くのです。
 
その備えの内容は個々人違うでしょうから、神に聞かなければなりません。
 
お一人おひとりご自分がどうすべきか、神の導きを求めて祈りましょう。神はあなたを通して、祝福を現してくださいます。
 
 
 

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