ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2011年07月

ローマ1:21~27 

長いので、聖書箇所はご自身の聖書をご覧ください。

聖書をお持ちでない方は、こちらへ→「聖書の杜」 http://bible.monochro.com/index/30473/#ln30473

26~27節で、パウロは同性愛について述べています。

前節の26節の冒頭に、「こういうわけで」とあります。

この「こういうわけで」が指している部分に、同性愛の原因が書いてあるということになります。

その部分はどこかといえば、24~25節です。

偶像崇拝(25節)こそ、人間社会に同性愛が発生した直接的な原因です。

これは必ずしも、現在、同性愛の人が、過去に偶像崇拝をしたから同性愛になったという意味ではありません。

人類の罪の歴史においての話です。

人類が過去において、「神の真理を偽りと取り代え」、「造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えた」ので(25節)、神は人間たちを同性愛に引き渡されました(26節)。

ちなみに人間が偶像崇拝をするようになった原因は、21節にあるように「神を神としてあがめず、感謝も」しなくなったことです。

現代の医学や心理学はこのような見解をとらないでしょうが、同性愛の原因は人間の罪であり、特に偶像崇拝の罪なのです。

言い換えると、同性愛者の存在自体が、神の怒りの啓示の一部分だということです(1:18)。

神は同性愛自体だけを怒っているのではなく、人類全体の偶像崇拝に対する怒りを、同性愛という現象によって啓示しているのです。

●適用
つい先日、アメリカのニューヨーク州で同性愛者の結婚が法律的に認められ、1日で数百の同性愛者カップルが誕生しました。
 
こういう社会現象を見聞きするとき、私たちクリスチャンは、神の怒りの啓示として受け止めなければなりません。

オバマ大統領は、同性愛者の結婚に賛成しているとのことです。

それがたとえ政治的な理由であり、個人的な信条ではないとしても、国家の元首として神の怒りを助長するような言動は、必ず責任を取らさせられることになるでしょう。
 
彼がボーンアゲンしたクリスチャンであることは、極めて疑わしいと言わざるを得ません。

「預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。・・・完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。」Ⅰコリント13:8~10

日本の福音派では、上記の箇所を根拠にして、異言や預言が現代においてはすたれていると教えています。

「完全なもの」を聖書と解釈しているので、旧新約聖書が完成したことによって、異言や預言は不要になり、すたれたと教えています。
 
しかしその解釈は、完全に間違っています。

いくつかの理由を挙げて、それが間違いであることを説明します。

●黙示録11:3

「それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」

2人の預言者の登場は、終末の艱難期です。
 
つまり預言の働きは、艱難時代でも行われるのです。

ですから新約聖書の完成によって、異言や預言がすたれるという考えは間違いです。

●使徒2:17~20/ヨエル28~31

「神は言われる。

終わりの日にわたしの霊をすべての人に注ぐ。

すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。・・・

その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

すると、彼らは預言する

また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。

それは、血と火と立ち上る煙である。

主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」
 
 

上記のヨエルの預言によると、「終わりの日」というのは、2000年前の聖霊降臨から始まりました。

聖霊と聖霊の賜物が信者に与えられ、預言の働きが始まりました。

ではこのヨエルの預言は、1世紀のうちに成就が完了したでしょうか。

ヨエルは、そうは述べていません。

こんにちに至るまで、19節に書かれている「血と火と立ち上る煙」による「しるし」は成就していません。

また、20節に書かれているような、太陽がやみとなったり月が血に変わる「不思議なわざ」も起きていません。

つまりヨエルの預言は、2000年前に成就し始めましたが、今も成就しつつあり、20節の「主の輝かしい日」の到来(=再臨)によって成就が完了するのです。

それまでは聖霊が注がれ続けており、ゆえに預言の働きも続くのです。

●「完全なもの」

「そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。」黙示録22:3~4

私たちは、地上にいる間、キリストというお方を「ぼんやりと」見ています。

しかし天に帰ったとき、直接「神の御顔を仰ぎ見る」ことになります。

これはⅠコリント13:12に書かれている、「その時には、顔と顔を合わせて見ることになります」のことであると思われます。

そしてキリストがどのようなお方であるかを、「完全に知る」ことになるのです(Ⅰコリ13:12)。

正直なところ、聖書が完成したからといって、クリスチャンのみなさんは聖書に書かれている真理を「完全に知る」ようになったでしょうか。

もし完全に知っているなら、この記事でこのようなことを論じること自体あり得ません。
 
ナンセンスです。

「完全なもの」とは、聖書のことではありません。

●「現れたら」
「現れたら」と訳されている言葉は、「来る」という意味のギリシャ語です。

この言葉は、新約聖書の中で643回使われていますが、そのうちの617回は「来る」と訳されています(欽定訳の場合)。

もし「完全なもの」が新約聖書の完成に伴う旧新約聖書の完成だとしたら、おかしなことになります。

完成した聖書が、あたかもどこからともなく「現れた」、あるいは「来た」ことになるのです。

しかし聖書というものは、歴史を通して多くの教会指導者たちの研究と議論と証によって淘汰されることで完成に至りました。

印刷され、一冊の本になって、突然「現れた」のでもなければ、どこからともなく「来た」のでもありません。

段階を経て、書簡ごとに少しずつ、聖典として認められたのです。

また、もし「完全なもの」が聖書だと解釈するなら、世界の諸国、諸地域の中で、聖書が翻訳されていない地域に関しては、今でも異言や預言がすたれておらず、用いられているという解釈になります。

聖書が完成している国々や地域においてのみ、異言や預言がすたれているということになるのです。

それも、おかしな話でしょう。

「完全なもの」とは、全世界に同時に「現れる」、あるいは同時的に「来る」ものでなければなりません。

全世界に同時に「来る」のは、やはり再臨のキリストでしょう。

●まとめ
こういうわけで、異言も預言もこんにちも存在しています。
 
福音派のみなさんは、聖霊の賜物がこんにちでも存在しているにもかかわらず、もうないと教えられて大損しているのです。
 
これは実に、いまわしい現実です。
 
聖書を正しく信じ、聖霊の賜物を通して与えられる恵みを受け、こんにちでもしるしや不思議を行われる神をぜひ体験してください!
 
そのことを摂に願います。

「神の、目に見えない本姓、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきり認められるのであって、彼らに弁解の余地はありません。」ローマ1:20

クリスチャンはしばしば、一度も福音を聞いたことのない人が死んだらどうなるのかという疑問を持ちます。

神は憐れみ深い愛なる神だから、福音を一度も聞いたことのない人を地獄へ送るはずがないと考える人もいます。

しかし、それは大きな間違いです。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ14:6

主イエスは、救いに至る方法は、ご自分を信じることを通してしかないと言明しておられます。

しかも、父なる神の介入がない限り、誰ひとりイエスを信じることができないのです(ヨハネ6:44)。

不信者であっても、被造物を観察することによって、神が存在することと、神が永遠のお方であることを知っていると冒頭の聖句は述べています。

神がいないと考えている人がたくさんいますが、それはその人の罪が真理を歪めているにすぎません(1:18)。

つまり、自分で自分を欺いているのです。

ですから福音を一度も聞かずに死んだとしても、その人々が神の怒りを逃れるための弁解の余地はありません。

これは、「義」という神の性質による原則です。
 
厳しいことですが、私たち被造物はそれを受け入れなければなりません。
 
(ただし上記の原則は、胎児や幼い子どもにはあてはまりません。)

補足
 
聖霊は人格です。
 
人も人格です。
 
人格同士が一体になるということは、聖霊の思いが私の思いになり、私を通して聖霊が語り、私を通して聖霊の力が働くということです。
 
使徒の働きの2章や3章でペテロを通して起こったことは、そういうことだと思います。
 
それが聖霊と一体になった状態であり、聖霊によって満されている(支配されている)状態だと思います。
 
大規模なことが起こったからそれが聖霊の満たしで、小さなことが起こった場合は、聖霊の満たしではないと言っているのではありません。
 
聖霊に満たされて小さな一言だけを語らされる場合もあると思います。
 
アメリカのカリスマ・ペンテコステ派では、異言を語りさえすれば、そのクリスチャンはスピリット・フィルド クリスチャン(御霊に満たされたクリスチャン)と呼ばれます。
 
私はそうは思いません。
 
異言はその人に与えれた賜物ですから、聖霊に満たされていなくても、使いたい時に使えます。
 
重要なのは、思いが聖霊と一致することだと思います。
 
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つにになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」 Ⅱ歴代誌16:9
 
「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主は仰せられる。 セカリヤ4:6
 
●バプテスマと満たしの違い
また聖霊のバプテスマは聖霊の満たしですが(使徒2:4)、聖霊の満たしは聖霊のバプテスマとは言われません。
 
聖霊の満たしは何度でも起こりますが、聖霊のバプテスマは一度限りです。
 
つまり誰かに最初に起こる聖霊の満たしを、聖霊のバプテスマと呼ぶのだと思います。
 

バプテスマという言葉のニュアンス

これまでの記事を通して、福音派とカリスマ・ペンテコステ派双方の立場から聖霊のバプテスマを考えました。

どちらか片方の見地だけでは、聖書が述べているところの聖霊のバプテスマの意味を完全にカバーすることはできません。

どちらも不完全です。

しかしそれぞれがまったく間違っているということでもありません。

双方を足すと、聖書が述べている聖霊のバプテスマの意味になります。

要は、聖書が述べる聖霊のバプテスマの意味する範囲が、それほど広いということです。

私たちが、「バプテスマ」という言葉の意味を理解するなら、聖書が聖霊のバプテスマという言葉で、矛盾することなく広範な内容を表せることがわかるはずです。

●「バプテスマ」=一体化

バプテスマは、洗礼と訳されています。

しかし洗礼という表現だけでは、バプテスマの元になっているバプティゾーという動詞に含まれている意味を十分に伝えることができません。

やはり聖書全体から、この言葉にどういった霊的な意味があるかを捉える必要があると思います。

そのためには、ギリシャ語としてのバプティゾーにどのような意味があるかを捉える必要があります。

BC200年頃に、外科医また詩人として活動していたNicander/ニカンダーという人がいました。

彼が書いたピクルスのレシピが近年発見され、それによって当時のギリシャにおいて、バプティゾーという言葉のニュアンスがどういうものであったかがわかりました。

彼は医師であり詩人ですから、言葉を正確に使える知識を持っていたと考えられます。

彼は、「浸す」を意味する2種類の言葉を使って、ピクルスの作り方を説明していました。

①まず野菜を沸騰した湯に浸す。

②次にその野菜を酢に漬け込む。

と書かれていました。

①の「浸す」にはバプトーという動詞が使われていました。

②のほうにはバプティゾーが使われていました。

このレシピの発見により、単純に「浸す」ことはバプトーで、酢が野菜に染み込み、両者が一体になるまで漬け込むことがバプティゾーだということがわかりました。

カリスマ・ペンテコステ派で聖霊のバプテスマを教える際、バプティゾーの意味として、単に「浸す」という部分だけを教えます。

それは間違いではありません。

ただ、一体化のニュアンスが抜けているということです。

ギリシャ語では船が沈んだ場合もバプティゾーを使って表現します。
 
船が沈むと水が船体に入り込んで、船と水が一体になります。

この状態がバプティゾーされた状態なのです。

この一体化のニュアンスを持った言葉を使って、新約聖書の執筆者たちは聖霊のバプテスマを始めとした様々なバプテスマについて説明したのです。

●一体化の例
バプテスマが一体化を意味することの顕著な例として、ローマ6章があります。

パウロは、ローマ書6:3から「キリスト・イエスにつくバプテスマ」の説明を始めています。

ここでいう「バプテスマ」が一体化を意味していることは、バプティゾー以外の表現によっても描写されています。

パウロは、3節の「キリスト・イエスにつくバプテスマ」を言い換えて、「私たちは・・・キリストとともに葬られた」と4節で表現しています。

ここで使われている「~とともに」に当たるギリシャ語はsun/サンという言葉です。

この「サン」は、6節や8節にも使われています。

この言葉のニュアンスは、完成したクッキーの材料の状態のようなものです。

クッキーは、複数の材料が混ぜ合わせてあります。

焼く前は、ある程度それぞれの材料の見分けがつきますが、焼いてしまうと各材料が互いに密着し、一体化した状態になっています。

もはや、各材料を引き離すことはできません。

このような状態を示すのが、サン(~とともに)という言葉です。

ですから「キリストとともに葬られた」の意味は、信者とキリストが一体となって埋葬されたということです。

ですからパウロによれば、「キリスト・イエスにつくバプテスマ」とは、信者がキリストと一体になることなのです。

他にもパウロは、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」(6節)、「キリストとともに死んだ」(8節)などの箇所で「サン」を繰り返し使い、徹底して信者とキリストとの一体化を語っています。

また注目すべきことは、「葬られた」「十字架につけられた」「死んだ」の時制が、すべてアオリスト過去形であることです。

アオリスト過去形は、過去のある時点に、一度だけ起こった事実を描写する時制です。

つまり、信者の古い人が「キリストとともに葬られ」「十字架につけられ」「死んだ」ことは、歴史的な出来事だということです。

過去において、信者がキリストと一緒に葬られた瞬間が、一度だけあった。

信者がキリストとともに十字架につけられた瞬間が、一度だけあった。

信者がキリストとともに死んだ瞬間が、一度だけあったということです。
 
では私たちの古い人は、いつ十字架で死んだのでしょうか。
 
それは2000年前です。
 
私たちはそのときキリストの中にいて、キリストとともに十字架につけられたのです。

キリストが十字架で死んだときに私たちも死に、キリストが埋葬されたときに私たちもキリストの中にあって埋葬されたのです。

パウロがこの6章で述べているキリストとの一体化とは、実にそういうことです。

ある方にとっては、信者がキリストの中にいるという霊的リアリティーが不可思議に思えるかもしれません。
 
しかしコロサイ3:3~4によれば、私たちは今この瞬間も、キリストのうちに隠されていて、キリストともに天にいるのです。
 
新約聖書、特にパウロの書簡には「キリストにあって」という表現が頻繁に出てきますが、この表現でパウロが意味していることは、信者が文字通りキリストの中に霊的に存在しているということです。

というわけで、「バプテスマ」という言葉は一体化を意味しています。

●他の事例
バプテスマという言葉が一体化という意味で使われるのは、水の洗礼に限りません。

Ⅰコリント10:2の「モーセにつくバプテスマ」もそうです。

「雲」(神の導き)や「海」(神の奇蹟)において、イスラエルの民がモーセのリーダーシップと一体となり、神を体験したことを物語っています。

ゆえに民全員が同じ霊的な食べ物を食べ、霊的な飲み物を飲んだということです。

使徒2:38のペテロの言葉も、一体化を理解すれば納得がいきます。

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」

これを現代人が文字通りに解釈すると、水の洗礼を受ければ罪が赦され、聖霊が与えられるという理解になってしまいます。

しかし水の洗礼とは、私たちがキリストとともに死に、ともによみがえったことの可視的なしるしであり、それを公にする信仰告白に過ぎません(Ⅰペテロ3:21)。

実質はキリストと信者の一体化、つまり救いです。

ですからペテロはこの箇所で、「悔い改めて、救いを受けなさい」と勧めているのです。

●聖霊のバプテスマ
一体化の概念は、聖霊のバプテスマにも同様に適用できます。

聖霊のバプテスマとは、信者が聖霊と一体となるということです。

信者が聖霊と一体になるのですから、それをもって救いを意味する場合もあれば、神の霊の満たしによって力を受けることを意味する場合もあるということです。

↑このページのトップヘ