ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2011年11月

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」  ヨハネ1:18

最近、自教会で「ヨハネの福音書」を学んでいます。

単発になるかもしれませんが、その準備の中で学んだことを分かち合おうと思います。

●「見た」

ヨハネ1:18に使われている「見る」という動詞はhorao/ホラオーというギリシャ語で、次の3つの意味を持っています。

1 目で見る/to see with the eyes

2 心で見る、すなわち知覚する、知る/ to see with the mind, to perceive, to know
 
3 体験によって理解する/to see by experience

●「ふところにおられる」

この表現はイディオム(慣用句)で、親しい交わりや関係にあることを意味します。

例えばヨハネ13:23の「イエスの右側で」は、
 
原典では「イエスのふところで」と書かれており、イエスとヨハネが親しい関係にあったことを示しています。

ルカ16:22の「アブラハムのふところに」にも、同じイディオムが使われています。

「アブラハムのふところ」という霊的な場所が存在するという意味ではなく、
 
ラザロとアブラハムが天国で親しい人間関係にあることを示しています。

つまり18節は、イエスが永遠の昔から三位一体の関係の中で、
 
父なる神と親しい交わりを持っていることを指しているのです。

このことからも、「見た」という言葉は、単にイエスが父なる神を目視したという薄っぺらな意味ではなく、

三位一体の関係を土台として、知的にも体験的にも、
 
父なる神がどのようなお方であるかを知っていたという意味を表しています。

●「ひとり子」

この言葉にも重要な意味があります。

「ひとり子」はモノゲネス/monogenesという形容詞の訳です。

monoは「単一の」という意味で、 ゲネスはギノマイ(存在するようになる)が変化したものです。

ですから 「ひとり子」という表現は、「唯一の存在」という意味で理解すべきです。
 
英語の聖書では、the only one(NETバイブル)、 God the One and Only(NIV)、
 
the unique One(新字義訳)などと訳されています。

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注:ヨハネの福音書の写本の中には、「子」(息子)という名詞が書かれているものと、書かれていないものがあります。

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要するに、イエスは人類に神を説き明かしたただ一人の存在、唯一の仲介者であるということです。

イエス以外には、神と人をつなげる存在はないのです。

●更に掘り下げると

通常、聖書注解はここまでしか説明しませんが、掘り下げて考えていくと面白い事実がわかってきます。

1:18は、神を知っているのはイエスだけであり、神と人を仲介するのもイエスだけだと述べています。

ですから人間は、イエスによらなければ神を知ることができず、救いを得ることができません(ヨハネ14:6)。

ところがヨハネ6:44でイエスご自身が、
 
「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」
 
と述べておられます。

ということは、神は基本的にまったくご自分を人間から隠しておられるということです(マタイ11:27)。

マタイ11:27後半で、
 
「子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません」と主イエスが述べているとおり、

神側からのアプローチがない限り、人間は仲介者であるイエスを知ることも、また神を知ることもできないのです。

神を知るイニシャチブ(主導権)は、人にはありません。

人が望んだからイエスや神を知ることができるのではなく、
 
神が恵みによって私たちにイエスを信じさせてくださるからこそ、私たちは神を知ることができるということです。

基本的に人間側には、救いに関して打つ手がないのです。

神側の一方的なアプローチを受ける以外に、救いを得ることはできないのです。

もしイエスを信じたいと願う人がいるとするなら、その願い自体が神から与えられたものだということです。

これを読んでいるあなたがクリスチャンであるとするなら、
 
あなたは自分でイエスを信じたのではなく、神の恵みによるアプローチによって救われたのです。

このことは、ヨハネ1:13と一致します。

「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

●神の選び

だとすると、この世界に救われる人と救われない人がいるという現実、

イエスを信じる人と信じない人がいるという事実は何を意味するのでしょうか。

人が自由意志によって信じるか拒否するかを決めているからだという説明は、もはや通用しません。

聖書は、そのようには述べていないのです。

人間は全員、救いに関してお手上げの状態なのです。

この無力さにおいては、すべての人が例外なく同等です。

上記の疑問には、神が救う人と救わない人を決めていると答えるしかありません。

神による一方的な選び以外に、救いを受けられるか否かの違いをもたらす要因が存在しないからです。

この答えは、
 
使徒13:48、エペソ1:4~6、エペソ2:8、ローマ9:16、Ⅱテモテ1:9、黙示録21:27などと一致します。

また、マタイ7:13~14のイエスの言葉とも整合します。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
 
そして、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」 

誰もが平等に、救われる可能性を持っているわけではないということです。

地上に生きる70億人全員に救いを得られる可能性があるという考えは、神の側にはないということです。

●恵み

あなたがもしクリスチャンであるなら、神があなたを選んでくださったがゆえに、あなたは救われたのです。

私たちよりも優れた人々が数え切れないほどいるにもかかわらず、
 
神は恵みによってあなたや私を選び、ご自分を現してくださったのです。

なんという恵みでしょうか!

「私たちは・・・恵みの上にさらに恵みを受けた」と書かれているとおりです(ヨハネ1:16)。

ありがたいですね。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」ヨハネ1:9

みなさん、お久しぶりですm(_  _)m
 
恐らく単発になりますが、記事を書きましたので掲載します。

●ジョン・ウエスレーの神学

を信奉する方々は、上記の聖句を次のように解釈しているそうです。

「イエス・キリストの来臨は、人類に光をもたらした。

その結果、すべての人は、福音を受け入れるか拒絶するかを選択することができるようになった。

この『光』とは、アダムの罪によって人の心を支配するようになった『やみ』を打ち破る恵み(先行的恩寵)である。

この『光』は救いを保証するものではないが、救いを選び取ることができる可能性をすべての人にもたらした。」

●現代の福音宣教

は、実にウエスレーと同じ聖書理解の上に成り立っていると思います。

こんにちの多くの牧師、伝道者、宣教師たちは、ウエスレーと同じ考え方をしているはずです。

ゆえに彼らの教えを受けてきた多くのクリスチャンたちも、おのずと同じ聖書理解に立っていることでしょう。

キャンパス・クルセード出身の私自身も、長年にわたりこのように信じてきました。

●しかし

聖書というものは正直言って正しい解釈をするがなかなか難しいもので、現代人の私たちにはそう容易く理解できる代物ではないようです。

自分が信じてきた聖書理解が崩されるとき、一旦、自分の思考の中に動揺や混乱が生じます。

しかしそれを通過して初めて、本来の聖書理解が得られます。

たとえ一時の間、混乱や動揺を感じようとも、間違った土台はなくなったほうが良いのです。

●では

ヨハネ1:9をどのように理解すべきなのでしょうか。

以前から述べていますが、すべての聖句は文脈の中で理解しなければなりません。

これは聖書が、教科書のように体系的にまとめられた文章ではなく、手紙や物語形式で書かれた文書だからです。

ウエスレーの解釈では、9節の「照らす」という言葉は、人間の内面に恵みをもたらすという意味で捉えられています。

しかし10節以降を見ていくと、「照らす」という言葉は、人間の霊的実情を暴露し、

イエスを信じる人と信じない人の相違を明確にするという意味であることがわかります。

個別に見てみますと、10節、「世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」

11節、「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」

12節、「・・・受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、・・・」

13節、「この人々は、・・・人の意欲によってでもなく・・・ただ、神によって生まれたのである。」

このように10節以降では、イエスを信じる者と信じない者のコントラストが述べられています。

この人間にコントラストをもたらすことが「すべての人を照らす」ことであり、「まことの光」の働きなのです。

同じ結論が、ヨハネ3:19~21からも出てきます。
 
19節、「人々は光よりもやみを愛した。」
 
20節、「悪いことをする者は光を憎み、・・・光のほうに来ない。」
 
21節、「真理を行う者は、光のほうに来る。」
 
9節の「照らす」という言葉と、19節の「さばき」という言葉が同じ役割を果たしていることがわかります。

ヨハネは、イエスを信じる人と信じない人が存在することを前提にしており、
 
イエスの来臨には、その2者を分別する働きがあることを教えています。
 
1:9に戻りますと、
 
「すべての人を照らす」という霊的行為は、イエスを信じる人と信じない人を差別化するという意味であって、

ウエスレーが考えたような、先行的恩寵をもたらすことではないことがわかります。

自然界の光が物質を識別するのに役立つのと同じように、

イエスの来臨は、羊と山羊を分別し(ヨハネ10:26~28)、
 
神の子どもと悪魔の子どもを分別するのです(ヨハネ8:44)。

●まとめ

私たちは聖書理解を見直すと共に、こんにちの福音宣教のあり方を見直す必要があります。

もし私たちがウエスレーと同じ考えを持っているならば、それを修正する必要があります。

万民がイエスを信じる可能性を持っている、という考えは誤りです。

伝道集会で、単に多くの決心者が出せればいいという考えは聖書的ではありません。

Ⅱテモテ2:10でパウロが述べているように、
 
神に選ばれた人々が救いを受けられるために、私たちは福音を伝えていく必要があるのです。

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