「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」ルカ10:28

上記の言葉は、25節で律法の専門家が尋ねた質問に対するイエスの答えです。

何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」ルカ10:25

ユダヤ人たちは、「行い」(何をしたら)によって永遠のいのちを得ることができると考えていました。旧約聖書に次のように書いてあるからです。

「あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行う人は、それによって生きる。」レビ記18:5

そこでイエスも、旧約聖書とまったく同じ答え方をしたのです。

「義」の意味

27節に、律法のうちの最も大切な戒めが述べられています。
 
イエスはそれらを実行すれば、永遠のいのちを得ることができると答えています。

理屈としては、戒めそのものに永遠のいのちを与える力があるのではなく、それを行うことによって人が義となるから、永遠のいのちが得られるのです。

そこで「義」の意味は、「永遠のいのちを受けられる基準」ということができます。

「義」であるなら、その人はいのちを得られます。

言い換えると、「永遠のいのち」を得られる条件は「義であること」なのです。
 
29節で律法の専門家が自分の「正しさを示そうとした(ギ動詞:ディカイオー/~を義とする)理由は、このためです。
 
(しかし人は、結局のところ、一生を通して律法を完璧に守ることはできないので、行いによっては義となることができません。)
 
隣人になりなさい

律法学者やパリサイ人たちの考えでは、「隣人」とは、同国人(神に従う者)だけでした。

サマリヤ人に代表される異邦人や、収税人や娼婦に代表される罪人は、隣人とは考えませんでした。例えば、詩篇139:21~22に次のようにあります。

「私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。/私は、あなたに立ち向かう者を忌みきらわないでしょうか。/私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。」

ですからもし、サマリヤ人(異邦人)に対してさえも愛を示すべきだという内容の例話なら、律法の専門家にとって想定内の訓戒といえます。

しかしイエスの例話では、隣人となったのはサマリヤ人(異邦人)のほうでした。

その上、「あなたも・・・同じようにしなさい」(37節)と付け加えました。

これは、どういうことでしょうか。

律法の専門家は、「私が助けるべき人は誰ですか」と尋ねたのですが、イエスの答えは、「あなたも、困っている人を助ける者になりさい」だったのです。

つまり重要なのは、誰があなたの隣人なのかではなく、あなたが誰かの隣人となることだと教えたのです。

困っている相手が誰であっても、あなたはその人の隣人として行動しなさいと教えたのでした。
 
この教えは、ユダヤ人たちにとって度肝を抜かれる内容であったに違いありません。

総括的な意味
更に一歩進んで、次のようなメッセージがあります。

ユダヤ人であっても異邦人であっても、イエスに従うことによって永遠のいのちを得ることができるということです。
 
もちろんこれは、行いによって救われるという意味ではありません。
 
本物の信仰には隣人として振舞う従順が伴うということであり、そうあるべきだということです。
 
●私の感想
私としては、クリスチャンの慈善活動は大切だなぁと、改めて思わされました。