ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2015年12月


 グルーデムがイスラム教過激派のルーツについて述べているので、それを翻訳抜粋します。(聖書とは直接関係ありません)
 
引用元:「聖書に基づく政治」 ウエイン・グルーデム(P401~P402)
 
 
 近年もっともよく読まれており、かつ権威あるイスラム教テロ史といえば、ローレンス・ライトによる『倒壊する巨塔 -アルカイダと「9.11」への道-である。ライトによれば、世界中のイスラム教徒のほとんどは聖戦主義の信条を持っていないという。こんにちのテロリストたちが信奉している見解は、ここ数世紀間、イスラム教内の少数派に過ぎないとライトは指摘する。
 
 最初に聖戦主義を復興させたのは、アブドゥル・ワハブ(170392年)というイスラム教の教師である。ワハブは、1744年にムハンマド・ビン・サウードの傘下に入った。サウードとは、第一次サウード王国の創立者である。
 
 ワハブは、自分の教えに従わない者は殺してもいいし、レイプしたり強奪してもよいと弟子たちに教えた。また宗教と政治の間にはいかなる違いもないと教えた。(中略)
 
 近年、暴力を使ってイスラム教を純化し発展させるように説いたもっとも影響力のある著作者は、「マイルストーン(道標)」(1964年)の著者であるサイイド・クトゥブ(190666年)である。(中略)
 
 アメリカ留学からエジプトに帰国したクトゥブは、ナセル大統領が率いるエジプト政府がイスラム法の執行に不徹底であることに業を煮やしていった。クトゥブはムスリム同胞団の機関誌の編集をとおして、ナセル大統領を忌憚なく批判するようになる。
 
 1954年にムスリム同胞団のメンバーがナセル大統領の暗殺を企てた後、クトゥブは1965年まで投獄され、獄中で「マイルストーン(道標)」を執筆。同書はカイロの刑務所から秘密裏に持ち出され、1964年に出版された。

 クトゥブは数ヵ月間だけ釈放されたが、政府の転覆を画策した嫌疑で再度投獄され、死刑判決を受けた。クトゥブは1966829日に処刑されたが、彼の影響は今も残っている。
 
 イスラム教テロに影響を及ぼしているもうひとりの指導者は、アイマン・ザワーヒリー(1951年~)である。ザワーヒリーはエジプトの名家出身の秀才で、医学部を卒業して外科医となった。ザワーヒリーはクトゥブの影響を受け、サダト大統領を含むエジプト政権の転覆をもくろむエジプト人グループの指導者となった。
 
 ザワーヒリーは、1981106日に起きたサダト大統領暗殺事件を計画したグループと密接な関係にあった。そのため逮捕投獄され、激しい拷問を受けた。
 
 1982124日に開始された300名の被告全員の代理人を務めたザワーヒリーは、イスラム教過激派の急進的指導者として認識されるようになる。しかし暗殺に直接加担していなかったため、1984年に釈放される。その後、サウジアラビアやアフガニスタンに赴き、ウサマ・ビンラディンと出逢う。
 
づく
 
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 クリスチャンは、いかなる場合も政府のいいなりにならなければならないわけではありません。グルーデムの著書から、政府に従うべきでない場合について見ていきましょう。
 
引用元:「聖書に基づく政治」 ウエイン・グルーデム(P87)
 
 
 ローマ1312、第一ペテロ21314は、クリスチャンはもちろん市民一般も、政府に従う義務があることを教えている。
 
 しかし政府に従うことが神の命令に直接逆らうことになる場合は、政府に従う責任を問われることはない。聖書にはその原則が示されている箇所が数多く見られる。
 
 初代教会に関する記述の中に、明確なケースがある。イエスが使徒たちに大宣教命令を預けた後(マタイ281920)、サンヘドリン、すなわちユダヤ教の指導者たちは、使徒たちを逮捕して「いっさいイエスのによって語ったり教えたりしてはならない」と命じた(使徒418)。

  しかしペテロとヨハネは「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」と答えている(使徒420)。またペテロは、「人に従うより、神に従うべきです」と宣言した(使徒529。これは政府への服従が、神に対する不服従を意味する明確なケースである。
 
 同様のことが他の箇所にも見られる。ダニエル31327ではネブカデネザル王が、シャデラク、メシャク、アベデネゴに対して、ひれ伏して金の像を拝むように命じた。しかし三人はその命令を拒み、「私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません」と答えている(ダニエル318)。神は三人の行為を是認したしるしとして、彼らを火の燃える炉から救い出した(19節~30節)。
 
 またパロがエジプト人の助産婦にへブル人の男子の新生児を殺すよう命じたとき、助産婦たちは従わなかった。神は彼女たちの不服従を是認している(出エジプト記11721参照)。
 
 また、アハシュエロス王が招いていないときに王の前に出ることは、法律で禁じられていた。しかしエステルは法を犯し、自らの命を危険に晒して、同胞であるユダヤ人を救った(エステル416参照)。同様にダニエルも、法律で禁じらているのに神に祈った(ダニエル610参照)。
 
 またヘロデ王は、賢者たちに王のもとに戻り、生まれてきたユダヤ人の王の居場所を教えるよう命じたが、彼らは夢で語り掛けを受けてヘロデ王に逆らい、「別の道から自分の国へ帰って行った」(マタイ2812参照)。
 
 
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 ウエイン・グルーデムの著書からの抜粋翻訳の続きです。ペテロの言葉から政府の役割について見ていきます。
 

引用元:「聖書に基づく政治」 ウエイン・グルーデム(P82~P83)
 
 
●第一ペテロ21314
 
 政府の役割について、ペテロも同じような見解を持っている。
 
人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい(第一ペテロ21314
 
 パウロと同じようにペテロも、「従いなさい」という命令を記している。この点は、その制度が皇帝であっても政府であっても同じである。政府が悪を抑制し、善行をほめ、奨励するという点においてもペテロは同調している。このように、政府には「悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめる」べき役割がある(14節)。

 この箇所には、政府が神によって設立されたものであると明示されてはいないが、人の立てたすべての制度に主のゆえに」従いなさいという言葉の中に、そのことが暗示されている(13節)。

 また、統治者は「悪を行なう者を罰」するために遣わされているというペテロの言葉の中に、悪を行う者への報復の概念が表現されている。(「罰」と訳されているギリシャ語の名詞はエクディケシスといい、ローマ134で述べたエクディコスと関連のある語である。)

 「善を行なう者をほめる」という概念は、社会における公益の促進を支持している。
 
 
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 ウエイン・グルーデムの著書からの抜粋翻訳の続きです。新約聖書から政府の役割について見ていきます。
 

引用元:「聖書に基づく政治」 ウエイン・グルーデム(P80~P82)
 
ローマ1337新共同訳)  
3 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。
  
4 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 

5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。 

6 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。 

7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
 

②国家の支配者は、「悪を行う者には恐ろしい存在」となる(3節)。つまり支配者には、悪を行う者に罰を課すことにより、悪を抑制する役割がある。
 

③支配者は善を行う者を「ほめる」存在である(3節)。また支配者は、「あなたに善を行わせるために、神に仕える者」(4節)である。これらの聖句は、政府には社会の公益を促進する役割があることを示している。政府は悪を罰することに加え、社会の利益に貢献する善行を奨励し、報奨を与えるべきなのだ。
 
 政府による公益奨励の実例として、公共のレクレーション施設や公園などの設置がある。家族でピクニックができるようにしたり、運動競技の練習や試合ができるようにする。このような善行推進は、教会に免税権を付与する理由づけにもつながる。一般的に、教会は社会に益をもたらし、市民生活の健全化に貢献するからである。また政府は結婚を奨励するために、既婚者への法的優遇や経済特典を設けるべきである。
 

④政府の役人は、神に仕える公僕である。パウロが4節と6節で、権威者は「に仕える者」だと言っているとおりだ。
 
 ゆえに政府の役人が悪を罰し善を奨励するとき、神への奉仕の一環として彼らはそうしているのだと理解する必要がある。彼らに自覚があってもなくても、そうであることに変わりはない。この箇所は、政府が神からの賜物であり、私たちに大きな益をもたらすことを示す有力な根拠となっている。確かに政府の役人や政府自体が悪を行う場合もあり得るが、政府という仕組み自体は大変よいものであり、神の限りなき知恵と愛をもたらすものである。
 

⑤政府の役人は、務めを果たすことにより「益」をもたらしている。なぜならパウロは、役人たちは「あなたに益を与えるための神のしもべ」だと言っているからだ(4節、新改訳)。ゆえに私たちは政府の活動を、善に報いて悪を罰する働きとして見るべきである。政府の活動は、神の言葉に基づく「益」また「善」なのである。これは政府という仕組みを、神に感謝すべきもう一つの根拠となる。
 
 しかしだからといって、「支配者」が行うことがすべて善であると考える必要はない!バプテスマのヨハネは、ヘロデ王が「行なった悪事のすべてを」責めた(ルカ319)。ダニエルはネブカデネザル王に、「正しい行ないによってあなたの罪を」除くよう進言した(ダニエル427)。また旧約聖書には、「主の目の前に悪を」行なった王たちの物語が数多く見られる(第一列王記116、その他)。それゆえ、神が定めた公正かつ公平な原則に基づいて政府が機能する場合に、政府が「善」を行なっていると考えるべきである。
 

⑥政府の権威者たちは、悪を行う者たちに神の怒りを執行する。そうすることにより、報復を遂行する。政府は「いたずらに剣を帯びているのではなく」、「神に仕える者」として「悪を行う者に対する神の怒りを遂行する報復者」(英語聖句直訳)の機能を果たすのだ(4節)。「報復者」と訳されているギリシャ語はエクディコスといい、「罰の代行者」という意味である。この概念は、たとえば第一テサロニケ46に「主はこれらすべてのことの報復者」(新米標準訳)とあるように、他の箇所におけるこの単語の使われ方によって支持される。またエクディコスとかかわりのある動詞であるエクディケオーの使われ方によっても同様である。エクディケオーは「不正に対して相応な処罰を課す」「罰する」「復讐する」という意味で、黙示録610192などで使われている。またエクディコスとかかわりの深い名詞エクディケシスの使われ方からも同じことが言える。エクディケシスの意味は「復讐」「罰」などで、使徒724、ローマ1219、第二テサロニケ18、へブル1030などで使われている。
 
 このことからわかるのは、政府による罰の目的が悪の抑止であると同時に、悪行に対する神の怒りの執行でもあるということである。そしてこれには、実際のが伴う。すなわち悪を行う者に対して何らかの痛みや苦役をもたらし、犯した犯罪にみ合う罰を与えるのである。パウロが4節で、政府の権威者のことを「悪を行う者に対する神の怒りを遂行する報復者」と言っている理由は、まさにこの点にある。
 
 このことは、パウロが政府の記述を始めるローマ131から3節手前に書かれているローマ1219とのかかわりにおいて、特に重要である。(パウロが執筆したギリシャ語本文は、章や節で区切られていなかった。つまり1219は、現在の13章の直近に位置していることになる。)その個所で、パウロは次のように述べている。
 
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。(ローマ1219 
 
 パウロは、不正がなされたとき個人的に復讐してはいけないとクリスチャンたちに教えている。むしろ悪を行った者への罰は、「神の怒り」に任せるよう述べている。そしてそのすぐ後のローマ134において、悪を行う者に対する神の怒りは政府による罰を通して執行されると説明している。つまりクリスチャンが他者によって何らかの不正を被った場合、公正を求めて政府に寄り頼むことは概して正しいことなのだ。この世の政府は、神が公正をもたらすために用いる手段なのである。
 
つづく
 
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 ウエイン・グルーデムの著書からの抜粋翻訳です。この記事では、新約聖書から政府の役割について見ていきます。
 
引用元:「聖書に基づく政治」 ウエイン・グルーデム(P79~P80)
 
 
1.新約聖書に見られる同様の教え:ローマ1317
 
 創世記9章は悪を罰する権威について記していたが、新約聖書はさらにそれを補強する記述をしている。その中でもっとも長い箇所が、ローマ1317である。
 
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。
それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。
ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。
あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさいローマ1317
 
 
 この箇所は政府に関して、次に挙げる事項を教えている。
 
政治的な力を持つ権威者は、神によって任命されている(12節)。ヨハネ1911におけるピラトに対するイエスの言葉も、この見解を支持している。
 
もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。」(訳注)
 

訳注:日本語聖書の訳語が紛らわしいためか、ヨハネ1911のイエスの言葉がまったく逆の解釈をされている場合があるので解説します
 

 たとえば、以下のような解釈です。
 
ピラトの権威はローマ皇帝から与えられているのですから、人間的に見たら、相当な権威であるわけです。しかし、イエスさまが言われているのは、神から与えられている権威のことです。真の権威をもっておられる父なる神から与えられている権威でなければ、イエスさまに対して何の権威もないのです。
 
 
 
●ヨハネ1911の解釈
 
 まず結論から言ってしまいますが、イエスはピラトの権威を否定しているのではなく、神からのものだと肯定しています。
 
NIV(新国際訳)
You would have no power over me if it were not given to you from above.
 
NASB(新米標準訳)
You would have no authority over Me, unless it had been given you from above;
 
NKJV(新欽定訳) 
You could have no power at all against Me unless it had been given you from above.
 
KJV(欽定訳) 
Thou couldest have no power [at all] against me, except it were given thee from above:
 
 どの英語聖書も仮定法の否定形で訳しています。つまりイエスは、ピラトには神からの権威がある、と言っているのです。訳はどれもほぼ同じです。
 
上から与えられていなかったなら、あなたにはわたしに対するなんの権威もなかったでしょうに(でも、あなたにはそれがあります)
 
 
 この箇所について聖書注解者たちは、次ようにコメントしています。
 
The New Living Translation Study Bible (P1810)

「ピラトにはイエスを十字架につける権威があったが、それは神がピラトに一時的な権威を与えていたからに他ならない。それはイエスが十字架につくためであった(ヨハネ1018参照)。」
 

D.A.カーソン (The Gospel According To John, P600)

「イエスは、ピラトの権威の背後に神の御手があることを認識していた。」
 

ジョン・マッカーサー(The MacArthur Bible Commentary,P1419)

「イエスの言葉が示すことは、最悪の存在でさえも神の主権から逃れることはできない、ということである。(中略)イエスは敵対勢力や悪に直面するとき、往々にしてその中に父なる神の主権が働いていることに慰めを見出していた。」
 

The Reformation Study Bible (P1550)

「イエスは、訴える者たちの邪悪さやピラトの臆病さすらも、神の主権的な計画の中に包含されていることを認識していた。使徒223のペテロの言葉も参照のこと。」
 
使徒223
あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を・・・
 
 
 つまりピラトに与えられた神の権威を通して、父なる神が意図的にイエスを十字架につけたということです。逆にピラトの権威が神から来ていたことを否定するなら、イエスの十字架は神によるものではなく、人によるものとすることになります。
 
 
●為政者に対するパウロの信仰
 
 もう一つ注意しなければならないことは、ローマ1317でパウロが「権威」「支配者」と呼んでいる直接の存在は、ローマ皇帝ネロだったということです。後になってクリスチャンたちを迫害したローマ皇帝を指して、パウロはこの箇所を執筆しました。
 

The IVP Bible Background Commentary (P441)

「このときの皇帝はネロであったが、まだクリスチャンたちへの迫害を始めてはいなかった。ネロは(アドバイザーで政治家また哲学者であった)セネカや、(警護を担当していた騎士)ブルッスの慈悲深さの影響下にあったからだ。(中略)ネロはギリシャでは常に人気があったが、パウロはそのギリシャ(コリント)から執筆していたのである。」
 

 ですから間違いの実例として上記に引用したピラトの権威に関する解釈は、二重の意味で間違っています。ローマ皇帝自身が神によって立てられた「権威」であり、ピラトはその神の「権威」によって任命されたのですから、ピラトの権威は人ではなく神による権威だったということです。
 
神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」というパウロの言葉は、字義通りに受け取らなければなりません。 
 
 詰まる所、為政者が聖人君子でなくても、また私たちにとって納得のいく人物でないとしても、聖書は「敬わなければならない人を敬いなさい」(7節)と教えている、ということです。
 
 世の人々は時の為政者や政府を思うままに批判し、卑下することもしばしばですが、キリスト者は「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ122)。

 私たちは、神が彼らを任命しているという信仰に立つ必要があります。個人としての政治家に敬意を払うのではなく、神が立てた器として、信仰によって敬意を払う必要があるのです。
 

つづく
 
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