ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2016年05月

 
 罪責感からの解放のために、小さなお手伝いになれば幸いです。

 
完全な赦し
 
マタイ26:28 
これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです
 
 
 罪をすためにという部分に使われているアフェスィスという言葉は、
 
 遠くに送る「(誰かを)解放するという意味の動詞からできた名詞で
 
 「完全な赦し」(コンプリート・フォーギブネス)という意味を持っています。
 
 
 言い換えると、
 
 イエスさまは、部分的にではなく、完全に赦すために血を流しました。
 
 過去・現在・未来にわたるすべての罪をです(コロサイ213)。
 

 
十字架の時点から自分を見る
 
 しかし現実には、
 
 赦しの話を聞いても、罪責感が抜けないクリスチャンが結構います。
 
 そういう方の中には、
 
 イエスさまを受け入れる以前に犯した罪や
 
 洗礼を受ける前に犯した罪は赦されているけれど
 
 その後に犯した罪は赦されていない気がする、という方がいます。
 
 私はそういう方に次のように言ます。
 
 
イエスさまの十字架の時点から見たら、
 
過去の罪も、最近犯した罪も、これから犯すであろう罪も、すべて未来のものですよね
 
あなたが自分で「過去の罪は赦されたけれど、最近の罪は赦されていない」
 
と感じているだけで、
 
十字架刑の時点から見たら、すべての罪が未来の罪でしょう。
 
からイエスさまは、あなたが人生で犯すであろうすべての罪を背負って
 
十字架で赦してくださったのですよ
 

 
●解説
 
「赦されている感じがしない」「神さまから責められている気がする」という人は、
 
 御言葉よりも自分の感覚のほうを強く信じているのです。
 
「感じがしない」とか「気がする」という感覚のほうをです。
 
 
 これは一種の不信仰であり、大げさに言うと、一種の偶像崇拝です。
 
「感じがしない」「気がする」という感覚に信頼するのをきっぱりとやめ
 
 御言葉に信頼しましょう。
 
 
 
効果的な実践方法
 
 真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ832

 赦されている実感がくるまで、
 
 完全な赦しを、声を出して感謝しつづけましょう。
 
 これは一種の信仰による宣言です。
 
 一日で実感できなくても、何日も繰り返しましょう。
 
 
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面白いので画像だけアップしようと思います。

それぞれ、上段が古代ヘブル語で、下段が日本語(多分、アメリカ人が書いたもの)です。

イメージ 1


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 救いの完成に関する学びになります。
 
 
救いの相続は確実
 
へブル1:14(新改訳)
御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。
 
 
 へブル114を原語で見ていくと、「相続する」という動詞のほかに、
 
 相続という行為が確実であることを示す
 
「メロンタス」(原形はメロー)という動詞が使われています。
 
 
ディア  トゥース      メロンタス    クレロノメイン  ソテリアン
~のため 定冠詞(者たち) ~ことになっている  相続する     救い
 
 
 新改訳聖書は「救いの相続者となる人々」という訳文ですが、
 
 これだとメローという動詞の意味が十分に訳出されていません。
 
 
 ギリシャ語辞典によると、ここに使われている動詞メローの意味は以下のとおりです。

 
3195 méllō – properly, at the very point of acting; ready, "about to happen." 3195 (méllō) is used "in general of what is sure to happen" (J. Thayer).
 
メロー:厳密には、ある行為まさにしようとしている、という意味。「今にも起ころうとしている」。メローは、「起こるのが確実なことに関して」使われる
 

 ●事例
 
 メローという動詞が使われている箇所は数多くありますが、
 
 その事例として、次の箇所があります。
 

マタイ16:27
人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。
 

へブル2:5 
神は、わたしたちが語っているるべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。
 
 
●まとめ
 
 へブル書の著者によれば、クリスチャンが救いを相続するのは確実です。
 

 岩波翻訳委員会訳は、「救いを受け継ぐことになっていると訳すことで、
 
 救いの相続が確実であることを訳出しています。
 

へブル1:14(岩波翻訳委員会訳) 
彼らは皆、務めを果たす霊であって、救いを受け継ことになっている人々のため、〔彼らに〕仕えるために遣わされているものではないか。
 

 
 私たちは、自分の弱さを見てしまうと、
 
 こんな私が救いを全うできるだろうかと、不信仰になるかもしれません。
 

 1世紀のへブル人たちも、迫害のただ中で信仰が弱っていました。
 

 だからこそ筆者は、
 
 イエスが、人の弱さを「共に苦しむ大祭司であることを示しました。
 
 
私たちには大祭司があるが、この方は私たちの弱さを共に苦しむことのできない方ではなく、罪を別にすれば、すべてについて〔私たちと〕同じように試みを受けた方である
                        へブル4:15(岩波翻訳委員会訳)

 
 イエスさまが律法主義者でないことは、私たちにとって文字どおり救いですね。
 

 
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新改訳聖書をお使いのみなさんには、新鮮に思えるかもしれません。
 
 
原文では主語が二つ
 
2コリント82
苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
 
 この新改訳聖書の訳文は、かなり翻訳者の解釈が加わった意訳になっているようです。
 
 この訳文ですと、主語は「喜び」だけです。
 
 
原文
ホティ    エン   ポレー ドキメー セリプセオス、
~ということ ~の中に 多くの  証拠   試練の
 
ヘイ  ペリセィア   テス  カラス アウトン、
定冠詞 あふれる豊かさ 定冠詞 喜びの 彼らの
 
カイ  ヘイ  カタ  バセソウス プトークヘイア アウトン、
~と  定冠詞 ~下へ  深さの  貧しさ     彼らの 
 
エペリスーセン エイス  ト  プロウトス テス  ハプロテトス アウトン
あふれ出た  ~の中に 定冠詞 豊かさ  定冠詞  一途さ    彼らの
 
 
 原文にはカイ(英語のandに相当)という接続語があるため、
 
 「あふれ出た」の主語はあふれる豊かさ」と「貧しさの二つになります。
 
 
私訳
試練の多くの証拠の中にあって、
 
彼らの喜びのあふれる豊かさ凄まじい深さの彼らの貧しさは、
 
彼らの一途な思いの豊かさという形であふれ出ました。
 
 
一途さ
 
 新改訳では「惜しみなく」と意訳されていますが、
 
 ハプロテスは、「一途さ」「単純さ」という意味の名詞です。
 
 
 ギリシャ語辞典の説明を訳します。
 
572 haplótēs (from 1 /A "not" and from pel-, "fold," cf. DNTT, 3, 572) – properly, "singleness, without folds, like a piece of cloth unfolded" (WP, 1, 56), i.e. not compounded or over-complicated (needlessly complex); "single-threaded" (versus "multi-threaded"); "without folds, simplex" (J. Thayer), used of "unworldly simplicity" (as in the papyri, MM).
 
ハプロテス
厳密には、「折り重なりがない一枚」のことで、たたんでない一枚の布のこと。
すなわち、重なっていない、あるいは過度に複雑になっていないもの。
「一本の糸で織られたもの」「折り重なりがない単一のもの」
「世的でない一途さ」という意味で使われている
 
 
あふれる喜び+極貧=気前の良さ
 
 岩波翻訳委員会訳は、次のような訳になっています。
 
すなわち、患難〔に耐えるという彼らの〕大いなる確証のうちに、彼らの満ち溢れる喜びと、その底をつく貧しさとは、彼らの物を惜しまない純真さのもつ豊かさとなって溢れ出たのである(岩波翻訳委員会訳)
 
 
①「ホティ エン ポレー ドキメー セリプセオス/試練の多くの証拠の中にあって」が文頭に来て強調されている
 
あふれる喜び + 極貧 ⇒ 気前良さ

 1節に「マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵み」とあるとおり、

 マケドニアの諸教会(ピリピ、テサロニケ、ベレア)は、
 
 恵みのゆえに喜びにあふれていました。

 しかし同時に、迫害を含む試練に直面していました(1テサロニケ2:14)。
 
 
 カタという前置詞は、「下に向かってくだる」という意味合いを持っています。

 それプラス「深さ」で、日本語の「どん底」という感じの意味になります。


 マッカーサー・バイブル・コメンタリーによれば、この箇所の「極貧状態」は、

 物乞いをするほどの貧しさを指しているそうです。

 ところがそれが、気前の良さを生み出したという逆説的な現象が起きました。


 
●ちなみに
 
2コリント8:9 
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
 
 
 ついでにエクスポジターズ・バイブル・コメンタリーから、9節の意味を拾っておこうと思います。
 
主は富んでおられたのに」=来臨以前のイエスが神の栄光をまとっていたことを指す
 
貧しくなられました」=受肉して人の姿をとったこと
 
「富む者となる」=救いにある祝福を受けること
 
 
●まとめ
 
 マケドニアの教会の精神は、まさにレプタ銅貨を投げ入れたやもめと同じではないでしょうか。
 
マルコ12:43~44
この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです
 
 
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 根源的な質問です
 なぜイエスキリストや仏陀は書物を残さなかったのでしょうか?
 
 上記のようなご質問をいただきましたので、私なりにお答えいたします。 
 
 ただし、ブッダについてはお答えできかねます。
 
 私はキリスト教徒ですので、ブッダについては、その筋の方にご質問ください。
 
 
聖書全体がキリストによる文書
 
1テモテ316 
聖書はすべて、神の霊感によるもの、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
 
 
 新約聖書の「テモテへの手紙第一」という書物の中に、上記のような一節があります。
 
 この「聖書はすべて、神の霊感によるものという表現の意味を説明いたします。
 
 
 この箇所における聖書とは、直接的には旧約聖書を指しております。
 
 しかし神学的には、新約聖書も含まれます。
 
 ですから、旧新約聖書全体が、神の霊感によって書かれた書物です。
 
 
 次に、「神の霊感の意味を説明いたします。
 
 これは神の霊が、聖書を執筆した人々の思いの中に働き、
 
 使用すべき言葉や、書くべき内容を一言一句導いたことを意味しております。
 

 イエスの一番弟子ペテロは、こう説明しています。
 
2ペテロ1:21 
ぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです
 
 
 この箇所の「預言」とは、旧約聖書の預言書のことです。
 
 預言は口述の場合もありましたが、記述されたものも数多くあり、
 
 それが旧約聖書の多くの部分を構成しています。
 
 預言書は新約聖書にもあり、後述する「黙示録」がそれに当たります。
 
 
 さて、ここで三位一体という概念が必要になります。
 
 聖書の神には、神格(人格)が三つあります。
 
 父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神です。
 
 聖霊とは、神の霊の別の呼称です。
 
 この三つの神格が、常に一人の神を構成しております。
 
 父=キリスト=聖霊 ということです。 
 
 
 それでは話を戻します。
 
 三位一体論をとおして「聖書はすべて、神の霊感によるものという表現を考えますと、
 
 「聖書はすべて、キリストの霊感によるもの」と、言い換えることができます。
 
 この意味で、キリストがいろいろな人物に聖書を書かせた、
 
 あるいは代筆で聖書を著した、と言えます。
 
 
実例
 
黙示録1:1 
イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すためキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。
 
 
 キリストが代筆で聖書を書いたことの、わかり易い実例として黙示録があります。
 
 上記の書き出しを見てわかることはこうです。
 
 神 ⇒ キリスト ⇒ 御使い(天使) ⇒ 代筆者(ヨハネ)
 
 キリストは直筆していませんが、著者であることに変わりありません。
 
 タイトル自体、「イエス・キリストの黙示」です。
 
 このような書物を集めたものが、こんにちの聖書です。
 
 
代筆による書物であることの特徴
 
 聖書の中には、「主は仰せられた」というフレーズが400箇所余りあります。
 
 このことは、聖書がキリストの代筆の書であることの明確な現れと言えます。
 

 また聖書の中には、

 「主の教え」「主のさとし」「あなたのことば」「あなたのみ教え」
 
 といったフレーズも数多く見られます(一例詩篇119篇)。
 
 この「主」や「あなた」とは、神のことであり、キリストのことです。
 
 
代筆の理由/結果
 
 聖書は数多くの代筆者により、約1500年間にわたって書かれました。
 
 モーセが旧約聖書の最初の五書を書いたのがBC1400年頃で、
 
 ヨハネが黙示録を書いたのがAD90年頃と言われています。
 

 代筆者たちが生きた年代はバラバラで、打ち合わせなど不可能ですが、
 
 聖書の全巻をとおして、

 「人類の堕落と神による贖い」という主題が一貫して流れています。
 

 この不思議な現象は、キリストが直筆しなかったことの効果といえるもので、
 
 聖書が人間の意志によってもたらされたのではなく
 
 「神の霊感によるものであることの証拠のひとつとなっています。
 
 
まとめ
 
 私の答えを簡潔にまとめますと、
 
 キリストは、霊の状態で預言者や弟子たちに霊感をもたらし、
 
 彼らの思いの中に語りかけて聖書を代筆させた、ということです。
 
 代筆ではあっても聖書の著者はキリストであり、
 
 聖書全巻がキリストによる著作物だといえます。

 
 弟子のひとりヨハネは、キリストは神の言葉そのものだと記しています。

ヨハネ1:1~2
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
 
 
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