ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2017年01月

 この聖句は、教会が看板のようにして掲げる聖句として最も有名だと思います。

 この記事では、その意味について考えたいと思います。

 
マタイ11:28~30 
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
 
 
 この箇所の意味を、文脈の中で見ていきましょう。

 25で、イエスは父なる神を賛美しました。
 
 父なる神が、「賢い者や知恵ある者」(律法学者・パリサイ人)には真理を啓示せず、
 
 幼子のように単純な者、宗教的な教えを受けていない者に啓示したからです。
 
 27節では、「子が心に定めた人」にしか父なる神を知ることができないと言ってます。

 一連の流れ中でイエスが語っていることは、

 神とその真理を知ることは、神の主権的な選びに依存しているということです。

 すべての人が神を知ることができるとは言っていません。

 むしろその逆です。
 
 ですから28節の招きの言葉が万人に向けられたものだと解釈すると、
 
 イエスが語っている内容と整合しません。

 これから述べるいくつかの要因からして、

 この招きの言葉は、神を求めている人に向けられたものと考えるべきだと思います。
 
 
重荷というのは律法主義

「重荷を負っている」と訳されているフォルティゾーが使われているのは、

 聖書中に2箇所しかありません。

 そのもう一つの箇所はルカ1146です。 
 
 
ルカ11:46 
しかし、イエスは言われた。「あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本もさわろうとはしない。
 
 
 この箇所からわかるのは、

 人々が負わされていた重荷とは、律法主義だということです。

 罪の重荷でもなければ、漠然とした人生の重荷でもありません。

 フォルティゾーという言葉は、宗教的な重荷を負うことを意味しており、
 
 パリサイ人たちが民衆に負わせていた律法主義の重荷と理解する必要があります。
 
 このことは、マタイ23:4にも読み取れます。
 
 
マタイ23:4 
また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。
 
 
くびき
 
エレミヤ27:12
ユダの王ゼデキヤにも、私はこのことばのとおりに語って言った。「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。
 
ガラテヤ5:1 
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
 
 
 上記の箇所に見られるとおり、「くびき」という言葉は、
 
 聖書中では「連帯」や「束縛」を比喩的に表現する言葉として使われています。

 マタイ112930で語られているイエスの「くびき」は、
 
 信仰によってイエスに従うこと(イエスとの連帯)を意味しており、
 
 律法主義(行いによる人間の義)のくびき(束縛)とは対照をなしています。
 
 イエスのくびきが負いやすい理由は、
 
 イエスが私たちの代わりに律法を成就したからです(マタイ517)。
 
 
マタイ5:17 
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
 
 
 生涯をとおしてイエスが律法のすべてを完全に成就してくださったので、
 
 私たちは行いによる人の義ではなく、信仰による神の義に生きればよいのです。
 
 
まとめ
 
 マタイ11:28~30については、
 
 しばしば「罪の重荷」とか「人生の重荷」と解釈した説教を見聞きします。
 
 伝道説教としてはそれでいいかもしれしれませんが、
 
 この箇所の釈義としては正しくありません。
 
 イエスが28節で意味しているのは、律法主義という重荷からの解放であり、
 
「疲れた人」というのは、律法を守ろうとしても守り切れず、
 
 霊的に疲れている人のことです。
 
 イエスは恵みに満ち満ちている方ですから(ヨハネ116
 
 正しく従うなら、たましいに安らぎが来ます。
 
 クリスチャンになる前よりも、なってからのほうが疲れているという人は、
 
 従い方に何らかの間違いがあるのでしょう。

 人の義を立てようとして、
 
 知らず知らずのうちに律法主義に陥っているのかもしれません。
 
 信仰による歩みは、疲れないのです。
 


 私たちの救いの中にある、神の意図について学びます。


マタイ11:25~27 
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
 
 
 この箇所で「みこころ」と訳されている語はユードキアといい、
 
 神について使われる場合は善意、善き喜び(good-pleasure)好意、満足感

 という意味です。
 
 次の箇所でも使われています。
 
 
エペソ1:5 
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
 

 
 また「幼子」と訳されているネピオスは、
 
 ここでは「子供のような者、教えを受けていない者という意味で使われています。
 
 そして、「現わした」と訳されているアポカリュプトーは、

「啓示する」という意味の言葉です(例:1コリント210)。
 
 つまり、賢い者や知恵のある者には神の真理を隠し、
 
 宗教教育を受けいていない単純な者に啓示することは、
 
 神にとって善き喜びであり、満足の行くところだったということです。
 
 なぜでしょうか?
 
 答えは、次の箇所でわかります。
 
 
1コリント1:27~30
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。
 
 
子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません
 
 とマタイの箇所にあるとおり、私たちの救いは神の側の選びに依存してます。
 
 同じことが1コリント130にも書かれています。
 
 こちらでは、私たちがキリストの内にあること、つまり救われていることは、
 
 神に依るわざだと書かれています。
 
 これは、「自由意志で救いを選んだから私は救われたのだ」とか、
 
「私にコレコレの長所があるから神は救ってくださったのだ」とか、
 
「私がコレコレの良い行いをしたからだ」と、人に誇らせないためです(エペソ28)。
 
 逆に、神の選びの恵みを私たちが称えるためなのです。
 
 
エペソ1:6 (新共同訳)
神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです


 
知恵の正しいことは、その行ないが証明します」というのは、
 
 どいう意味でしょうか?
 
 これについて調べてみました。

 
マタイ11:19
人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。
 
 
 まず「知恵」の意味についてですが、
 
 ほとんどの聖書注解者は、

 バプテスマのヨハネとイエス自身の教えを指しているとしています。


 この箇所でイエスさまが言っているのは、

 人々はバプテスマのヨハネもイエスさま(人の子)のことも批判するということです。
 
 しかし知恵が正しいことは・・・と、話が展開されています。

 ここまで来るわかると思いますが、

「知恵」という言葉は、ヨハネとご自分の教えのことを指しています。
 
 
 また「行ない」は、知恵を実践した結果として生じる行ないのことです。
 
 この解釈は、ルカの福音書にある並行記事と一致します。
 
 
ルカ7:35 
だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。
 
 
「子ども」と訳されているのはテクノンという語で、
 
 この箇所の場合、「師から教えを受ける弟子」を意味します。
 
 ユダヤ文化では、子弟の関係を親子関係になぞらえました(1ヨハネ2:1)。
 
 この箇所のテクノンは、文字通りの子供のことではなく、

 ヨハネやイエスの教えを聞いて、実践する人々のことです。


 ですから言葉は違っていても、マタイとルカは同じ内容を記しています。

 バプテスマのヨハネやイエスの教えの正しさは、
 
 それを実行する人々によって証明されると言っているわけです。
 
 批判している人たちは、それがわかっていないから批判するのだ、
 
 という暗示もあります。
 

 教えとその実践の重要性を説く講話は、マタイの他の箇所にも見られます。
 
 
マタイ7:20(にせ預言者に関して) 
こういうわけで、あなたがたは、(教えとその実践)によって彼らを見分けることができるのです。
 
マタイ7:24 
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
 
 

 
 最近クリスチャン・トゥデイの記事で、同メディアのコラムニストである青木保憲(やすのり)氏が、新約聖書学者・青野太潮(たしお)氏の「パウロ 十字架の使徒」という著書を紹介していました。
 
 その記事には、以下のような言説があります。

 
では、パウロが真に見ていたキリストとはどんな方なのか。彼はそれを「十字架につけられたままのキリスト」であると表現している。力なくうなだれ、息も絶え絶えになりながら、十字架の上で苦しみ続けられているキリストこそ、パウロが受け入れた真のキリストの姿だ、と語るのである。
                                (引用終わり)  
 
問題 
 
 私が問題視するのは、「十字架につけられたままのキリスト」という主張です。

 青野氏が何を根拠にそう主張しているのかを調べたところ、

「『十字架の神学』をめぐって」という青野氏の論稿の中で、

 1コリント1:23、同2:2、ガラテヤ31を根拠にしていることがわかりました。

 以下はその論稿の抜粋です。
 

1コリント1・23、2・2、そしてガラテア3・1において三回、いずれもキリストに懸かる形容詞としての分詞形でChristos estauro¯menos として用いられています(中略)。そして、それが現在完了形でありますからには、文語訳がガラテア3・1に関してだけではありますが正確に訳出していますように、
「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」と訳されなくてはなりません。「十字架につけられた」のは、「死んだ」と同様に過去の一回的な出来事ですから、たとえそれが分詞形においてであったとしても、点的な「動作の種類」(ドイツ語で Aktionsart)をもつアオリスト形の分詞になると考えるのが常識的でありましょうが、パウロはそこでこそ(!) 現在完了形を用いて、「イエス・キリストはいまなお十字架につけられたままでおられる」という言い方をしているのであります
                        (引用終わり、強調はブログ主)

引用元:「十字架の神学」をめぐって14-(14
 
 
反証
 
文語訳・ガラテヤ3:1 
愚なる哉、ガラテヤ人よ、十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト、汝らの眼前に顯されたるに、誰が汝らを誑かししぞ。
 
 
 青野氏が言われるとおり、
 
 文語訳では「十字架につけられ給いしままなる」と訳されています。
 
 この部分は、「十字架にかける」を意味する動詞が完了形で使われています。
 
 しかし完了形で書かれているからといって、
 
 動詞が描写している行為が現在も継続しているとは限りません。
 
 ダニエル・ウォレス博士はThe Basics of New Testament Syntaxの中で、

 完了形には歴史的用法Historical Perfectという用法があると述べています。
 
 この用法には別の呼称もあり、アオリスト的用法Aoristic Perfect」、
 
劇的用法Dramatic Perfectとも呼ばれます。 

 歴史的用法の定義は、

used as a simple past tense without concern for present consequences
 
現在に及ぶ結果を気にせず、簡潔な過去時制として使われると説明されています。
 
 そしてその実例として、次の箇所が挙げられています。
 
 
使徒7:35
『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか。』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現われた御使いの手によって、支配者また解放者としてお遣わしになったのです
 
 
「お遣わしになった」は、アポステローという動詞の完了形で書かれています。
 
 しかしモーセが遣わされたのは遥か昔のことで、今はもう遣わされていません。
 
 使徒の働きが書かれたとき、モーセはすでに死んでいました。
 
 青野氏の言葉を借りるなら、アオリスト過去形で書かれるのが常識でしょう。
 
 しかし使徒の働きの執筆者は、完了形の歴史的用法を用いました。 
 
 私は、ガラテヤ31などのスタウロオーの完了形も、同じことだと思います。
 
 ガラテヤ教会にキリストの十字架という歴史上の出来事を思い起こさせるため、
 
 パウロは完了形の歴史的用法を使って描写したのです。
 
 そう考えるなら、

 新改訳聖書のように、通常の過去形と同じように訳すべきです。
 
 
新改訳・ガラテヤ3:1 
ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
 
 
パウロにはない見解
 
1コリント15:3~8 
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、…
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました
 
 
 パウロはコリント教会への書簡の中で、
 
「最も大切なこと」の一つとして、キリストの復活を述べています。
 
 8節では、復活のキリストが「私にも、現われてくださいました」と言っています。
 
 こういったパウロの言説を考慮すると、

 復活のキリストとの出会いを使徒であることの証としているパウロが、
 
キリストはいまなお十字架につけられたまま」だと言うはずがありません。
 

おわりに
 
使徒20:30 
あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。
 
 
 上記のようにパウロは、
 
 教会指導者の中から「いろいろな曲がったこと」を語る者が出ると警告しました。
 
 福音主義を標榜するメディアや人物の言説であっても、

 鵜呑みにすることがないよう、注意していきましょう。

 パウロの宣教に同行したルカは、次のようにキリストの復活を証しています。
 
 
 ここにはおられません。よみがえられたのです。ルカ24:6




マタイ10:28 
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
 
 
 イエスさまは、人間には「(人の)たましいを殺せない」と言っています。
 
 逆に言うと、

 救われているか否かに関わらず、人間の魂は永遠に生き続けるということです。
 
 そして不信者の場合、
 
 魂と体の両方が地獄(ゲヘナ)で滅ぼされることになると書かれています。
 
 言い換えると、不信者の体も終末に復活することが示唆されています。
 
 
「滅ぼす」と訳されているのはアポルミーという言葉です。
 
「殺す、破壊する、失う、滅ぼす」という意味の言葉で、
 
 聖書で使われる場合は永遠の滅びを含みます。

 
 生物学的な意味で「殺す」ことを意味するアポクテイノーとは、区別されています。
 
 この箇所の前半で、「殺す」と訳されているのがアポクテイノーです。
 

 言い換えると、
 
「魂と体の両方を滅ぼす」というのは、それらを消滅させるという意味ではなく、
 
 魂と体が永遠の救いを失うということです。
 
 それが具体的に起こるのは、次の場面においてです。
 
 
黙示録20:11~14
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
 
 
 この白い御座の裁きの際に、不信者の体も復活し、神の前に引き出されます。
 
 復活した体の具体的な特徴については書かれていませんが、
 
 救いを失っているのですから、栄光の体ではないことははっきりしています。
 
  
 マタイの箇所では、
 
 神が不信者の魂と体を「ともにゲヘナで滅ぼす」と書かれていました。

 黙示録では、ゲヘナは「火の池」と言い換えられています(黙2014)。
 
 マタイと黙示録を合わせて考えると、
 
「滅ぼす」というのは、永遠の刑罰に処すということになります。
 
 不信者の場合、魂も体も、地獄において永遠の刑罰に処せられるのです。
 
 
 非キリスト教徒の方々も、このブログを読んでおられると思います。
 
 皆様は聖書を信じないことに決めておられるのかもしれませんが、
 
 信じる側としてはぜひ考え直していただき、

 聖書とキリストを心から信じていただきたいと願います。

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