患難前携挙説は、1830年代にジョン・ネルソン・ダービーというアイルランド人の聖書教師によって広められました。
ダービーは携挙を再臨から切り離しましたが、この解釈は1テサロニケ4:17を文脈の中で考えた場合、不適切な解釈だと言えます。
この記事では、1テサロニケ4:15にあるパルスィーアの意味を確認し、患難前携挙説の携挙の概念が、パウロの意図していることと食い違っていることを検証します。
1テサロニケ4:15~17
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
「再び来られること」という部分がパルスィーアです。
ですからこの箇所のテーマを正しく理解するには、
まず、パルスィーアという言葉がどのような意味なのかを理解する必要があります。
「再臨」を意味するギリシャ語パルスィーアは、字義通りには「(特定の場所に)存在すること」を意味します。
パルスィーアは、「~と共に」を意味するパラ/paraと、「居ること、存在すること」を意味するウスィーア/ousiaから構成されています。
それゆえパルスィーアには、「到着」とその結果としての「滞在/~と共にいる」を合わせた意味があります。
事例としては、ある女性がパピルス製の手紙の中で、自分の所有物に関する用事のゆえに、ある場所にパルスィーア(滞在)する必要がある、と綴っています。
パウロはピリピ人への手紙の中で、ピリピでの滞在についてパルスィーアを使っています。
ピリピ2:12 ・新共同訳
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
アルスィーアとの比較からもわかるとおり、パルスィーアという言葉は、どこかにやって来てそのままそこに滞在することを意味します。
つまり、パウロがもともと述べていたのは、メシアが再び来臨し、そのまま地上に滞在するということでした。
しかし患難前携挙説はその意味に反し、空中までやって来てすぐに天に戻るという概念を持ち出しています。
これはパウロが語っているパルスィーアと大きく異なります。
1テサロニケをそのようなに解釈したこと自体が、間違いだったと思います。