ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2017年03月

 
 患難前携挙説は、1830年代にジョン・ネルソン・ダービーというアイルランド人の聖書教師によって広められました。
 
 1テサロニケ417で「引き上げられ」と訳されているハルパゾー(力づくで取り去る)というギリシャ語が、
 
 ラテン語聖書でrapioと訳されていることから、raptureという英語で表現されるようになりました(ウィキペディア「Rapture」参照)。
 
 ダービーは携挙を再臨から切り離しましたが、この解釈は1テサロニケ417を文脈の中で考えた場合、不適切な解釈だと言えます。

 この記事では、1テサロニケ4:15にあるパルスィーアの意味を確認し、患難前携挙説の携挙の概念が、パウロの意図していることと食い違っていることを検証します。
 
 
1テサロニケ4:15~17 
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
 
 
 パウロは、15節で再臨を意味するパルスィーアの説明をし始めています。
 
「再び来られること」という部分がパルスィーアです。
 
 ですからこの箇所のテーマを正しく理解するには、

 まず、パルスィーアという言葉がどのような意味なのかを理解する必要があります。
 

 
「再臨」を意味するギリシャ語パルスィーアは、字義通りには「(特定の場所に)存在すること」を意味します。
 
 パルスィーアは、「~と共に」を意味するパラ/paraと、「居ること、存在すること」を意味するウスィーア/ousiaから構成されています。
 
 それゆえパルスィーアには、「到着」とその結果としての「滞在/~と共にいる」を合わせた意味があります。
 
 事例としては、ある女性がパピルス製の手紙の中で、自分の所有物に関する用事のゆえに、ある場所にパルスィーア(滞在)する必要がある、と綴っています。
 
 パウロはピリピ人への手紙の中で、ピリピでの滞在についてパルスィーアを使っています。
 

ピリピ2:12 ・新共同訳
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
 

 一方、「いない」と訳されているのはアルスィーアという語で、「不在」を意味します。
 
 アルスィーアとの比較からもわかるとおり、パルスィーアという言葉は、どこかにやって来てそのままそこに滞在することを意味します
 
 つまり、パウロがもともと述べていたのは、メシアが再び来臨し、そのまま地上に滞在するということでした。
 
 しかし患難前携挙説はその意味に反し、空中までやって来てすぐに天に戻るという概念を持ち出しています。
 
 これはパウロが語っているパルスィーアと大きく異なります。
 
 1テサロニケをそのようなに解釈したこと自体が、間違いだったと思います。


 質問者さんから次のような質問がありました。

 これに答えるために、「産みの苦しみ」という言葉の使われ方を説明します。
 
 
それから、第一テサロニケ5:3で、「人々が『無事だ、安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」と書いてあり、

 突然の破滅=産みの苦しみ
 と解釈できると思います。

 「産みの苦しみ」は、マタイ24:68で、「戦争や戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まってるが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」と書いてあるので、

 突然の破滅=産みの苦しみの始まり=民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる=まだ世の終わりではない=地上再臨ではない
 と解釈することもできるのではないでしょうか
 
 
●応答
 
 1テサロニケ53やマタイ248「産みの苦しみ」と訳されているのは、オーディンという言葉です。
 
 オーディンは「陣痛、激しい苦しみ」という意味ですが、単数形の場合と複数形の場合ではニュアンスが変わる場合があります(常に変わるわけではありません)。
 
 単数形の場合は、そのまま「陣痛」あるいは「激しい苦しみ」という意味です。
 
 1テサロニケ53は単数形ですので、パウロは「陣痛」という意味でオーディンを使っています。
 
 しかしマタイ248のほうは複数形です。
 
 複数形の場合、陣痛という意味の場合と、「メシア到来の前兆としての苦難」を指す場合があります。
 
 
使徒2:24 
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
 
 
 上の使徒224で「苦しみ」と訳されているのは、オーディンの複数形です。
 
 新改訳聖書では欄外に注釈がついており、「陣痛」という意味であることが説明されています。
 

マタイ24:6~8 
また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
 
 
 一方、上記マタイ248の「産みの苦しみ」も複数形ですが、こちらの場合は、文脈的に「戦争」「戦争のうわさ」「ききん」「地震」を指していることがわかります。

 これは、ユダヤ教の伝承で使われている「産みの苦しみ」に「メシア到来の前兆としての苦難」というニュアンスがあるためです。
 
 ですからオーディンが複数形で使われている場合の意味の違いについては、前後の脈絡で判断することになります。


 上記の説明は、

 セイヤーギリシャ語辞典/ストロングス・コンコーダンス5604「オーディン」や、

 
 後者の資料によると、第4エズラ記や第2バラキ書などのユダヤ教の伝承に、
 
「メシア到来の前兆としての苦難」を指す言葉として、
 
「産みの苦しみ」が使われていると説明されています。  
 

 こういうわけで、質問者さんへの答えとしては、次のようになります。
 
 1テサ5章の「産みの苦しみ」は「陣痛」という意味で、

 マタイ248の「産みの苦しみ」は、ユダヤ教の伝承的な意味で「メシア到来の前兆としての苦難」です。

 

 前回投稿した「患難期に教会は地上に存在するのか?」を読まれた方から、以下のようなコメントをいただきました。

また、「クリスチャンも神の裁きを通過する」という考え方は、「キリストの福音によって神の怒りから免れた」という大原則から外れています。
これは、救いについての福音の内容を揺るがすものです。
 
 このご質問の内容は重要ですので応答します。


パウロが意図した神の怒りの定義
 
1テサロニケ5:210 
主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
5:9 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです
5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
 
 
 上記の箇所をよく読むと、

 9節にある「御怒り」について、パウロが2節ですでにその意味を暗示していることがわかります。
 
 パウロは、2節の「主の日」に御怒りが現れると言っているのです。
 
 というのは、キリストの再臨は「主の日」に起こるからです。

 キリストの再臨は、神を信じなかった不信者にとって滅びに直結する出来事です。
 
 しかしクリスチャンは罪赦され、救われていますから、再臨が起きても滅びとは無関係です。
 
御怒りに会うようにお定めになったのではなく」というのは、再臨による滅びに会わずに済むという意味です。
 
 ですから患難後携挙説は、救いの教理や神の怒りと何ら矛盾しません。
 


 質問者さんから以下のようなご質問をいただきました。応答していきたいと思いますが、その前に質問者さんご本人にお願いがあります。
 
 もし私の記事を読むことによって、質問者さんの携挙に関する立場が変わり、それによって過去に体験された苦痛に耐えがたくなる可能性がおありでしたら、
 
 これ以上、この記事を読み進まないでください。また心の痛みが癒されるまで、携挙論に関する追及は休止してください。
 
 私は他の読者の方々への情報提供を考えて記事を書きますが、質問者さんを苦しめる意図はまったくありません。
 
 お読みになる場合は、自己責任でそうなさってください。 
 
 
黙示録3章までで教会時代は終わり、4章以降「教会」という言葉は出てこない
 
「教会」という言葉が出てこないのは、教会時代に救われたクリスチャンが大患難時代を通過しないからだと思います。


●応答1
 
 質問者さんからの最近のコメントに、黙示録310のギリシャ語エクに関するご質問もありました。
 
 それについては過去記事「ギリシャ語エクの解釈 黙示録310」で詳述していますので、そちらをお読みください。

 
 では、③の質問について応答します。
 
 教会という言葉は確かに出てきませんが、「わが民よ」という天からの呼び掛けはありますし(黙示録184)、「聖徒たち」が地上にいる描写はあります。
 
 その聖徒たちにまつわる箇所から、患難期において教会が地上にいる可能性が高いことを示す箇所をご紹介します。
 
 
キリストの花嫁
 
黙示録19:7~8 
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。
 
 
 7節では、キリストと花嫁の婚宴の時が来たことが宣言されています。
 
 この箇所を見ると、花嫁が着る「麻布の衣」は、「聖徒たちの正しい行い」であることがわかります。
 
 ということは、花嫁=聖徒たち ということがわかります。

 さらに、キリストの花嫁とは教会です。これはエペソ5:25~33などからも明らかです。

 するとこうなります。

 キリストの花嫁=聖徒たち=教会
 
 これは何を意味するでしょうか?
 
 患難時代や大患難時代に地上にいる「聖徒たち」、例えば黙示録13:7で、獣から戦いを挑まれる聖徒たちは、教会だということです。  

 黙示録1911ではキリストが地上再臨しますが、それは地上にいる教会が花嫁となる時が来たため、主が花嫁を迎えに行くのだと考えることができます。


天の軍勢

黙示録19:14・新共同訳
そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。

 また黙1914では、「天の軍勢」が「きよい麻布」を着て再臨のキリストと共に戦います。
 
 この天の軍勢は、いくつかの理由から、携挙された教会が空中()で合流したものと考えられます。
 
 まず「きよい麻布」と訳されているブシノスというギリシャ語は、198で花嫁が着る「きよい麻布」と同じ言葉です。
 
 ブシノスは新約聖書中で、黙示録18章と19章で5回使われているだけです。
 
 2回はバビロンで売られていた商品の「麻布」に使われ、残りの3回は1982回)と14節です。
 
 つまり、ブシノスは天使の着物ではないということです。ということは、花嫁の衣であり、聖徒たちの正しい行いである可能性が高いということです。
 
 また「天」と訳されているウラノスには、「空」という意味もあります。
 
 ですから「天の軍勢」は、「空にいる軍勢」と理解することもできます。

(「天の」をギリシャ語に忠実に訳すと、「天/空の中の」となる)
 
 これは1テサ417で空中に引き上げられた教会が、「天の軍勢」として再臨の主と合流し、共に戦うことになるのだと理解できます。
   
 ですから黙示録4章以降では、教会が「聖徒たち」「花嫁」「天の軍勢」と呼ばれていると考えることができます。

 
黙示録4章の「二十四人の長老」は携挙されたクリスチャンを表している

二十四人の長老は天上で礼拝をしていますが、黙示録6:9のクリスチャンは祭壇の下で休んでいるようにと言われています。

6:9のクリスチャンは、二十四人の長老とは別のグループで、二十四人の長老と同じ場所に行けないのは、まだ体が復活していないからではないでしょうか。

もしも、大患難時代の終わりに携挙があるとしたら、二十四人の長老と、6:9のクリスチャンが別々の場所にいるのはなぜでしょうか。
 
 
●応答2
 
 この質問に答えるには、まず「二十四人の長老」がどのような人たちなのかを明確する必要があります。
 
 過去記事「24人の長老」を引用して説明します。
 
 なお、以下の記事は英語サイト「THE 24 ELDERS」の翻訳ですが、引用元のサイトは既にリンクが切れているようです。


私はこの24人の長老たちは、教会を代表していると思います彼らは教会そのものというより、教会を代表する人々です。こう解釈することは、旧約聖書を見るなら、決しておかしくはありません。歴代誌24章では、ダビデ王が祭司を組分けして24人の代表者を選出しています。ペテロ2:9も、教会を「王であり祭司」と呼んでいます。この24人の長老は、王の祭司の総体を代表しているのです。座についていることは、何を意味するのでしょうか。白い衣を着ているとは、どういうことでしょうか。教会が、座や衣を受けるという約束はあるのでしょうか。

 黙示録3:21には、こうあります。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの【座】に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」

また黙示録3:5には、「勝利を得る者は、このように【白い衣】を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす」とあります。

 黙示録2:10は、「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの【冠】を与えよう」とあります。

 同じく3:11にも「わたしは、すぐに来る。あなたの【冠】をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい」と。

これらの御言葉は「座」「冠」「白い衣」に言及しており、黙示録4:4と完全に一致します。
                         
                         (引用終わり、強調はダビデ)
 
 この論考の著者はこう言っています。
 
「この24人の長老たちは、教会を代表していると思います。彼らは教会そのものというより、教会を代表する人々です。」
 
「この24人の長老は、王の祭司の総体を代表しているのです。」
 
 私もこの見解は正しいと思います。
 
 つまり「二十四人の長老」は公同の教会の代表であって全体ではない、ということです。
 
 すでに死んで天国に行っているクリスチャンたちの一部が、「二十四人の長老」を構成しているのではないでしょうか。
 
 ですから天にいる二十四人の長老は、地上に教会が存在することを否定するものではありません。


 質問者さんの2番目の質問は以下のとおりです。
 
マタイ24:3644に書いてあることは、携挙を表しており、大患難時代の後期に起こるとは考えにくい

 ノアの日のように、人々が食べたり飲んだり、通常の日常生活が送れるのは、患難時代が始まる前までだと思います。
 大患難時代が始まったら、戦争や飢饉や自然災害や天変地異で、普通の日常生活を送ることは困難になるのではないでしょうか。
 特に、大患難時代の終わりには、生き残っていられる人の数はどれほどかと思います。
そのような時に、「畑に二人の男がいれば、一人は連れていかれ、もう一人は残される。二人の女が臼を引いていれば、一人は連れていかれ、もう一人は残される」と書いてあるように、生き残っている人数がある程度残っていて、しかも通常の日常生活を送っているとは考えにくいと思います。
 
 
●応答
 
 質問者さんの見解では、マタイ343644は患難期以前を指しているとのことです。
 
 この見解に応答します。
 
①「ノアの日」というのは人類に対する神の裁きを象徴しています。とりわけ主に従わない人々にとっては、滅びを意味する表現です。
 
 ですから患難期前の神の裁きが現れていない時期を例えるために、滅びを暗示する表現を主イエスが使うとは考えにくいと思います。
 
 神の裁きや滅びを意味する表現で例えるべき時期は、大きく見ても患難期全体、厳密な見方をすれば大患難期であるべきです。
 

②また文脈的に見ても、患難期の前とは考えにくい理由があります。
 
 マタイ2415では反キリストの台頭が述べられており、21節では「世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような…ひどい苦難」とあり、
 
 22節には「その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はない」とまで言われるほど厳しい状況が語られています。
 
 これらは大患難期の厳しさを表現していると思いますが、243644は、そのあとに語られています。
 
 ということは、主イエスはこの大患難期の例えとして、ノアの洪水を引き合いに出していると考えるほうが理に叶っています。
 

③また37節や39節で「人の子が来る」と訳されているのは、再臨を意味するパルスィーアという言葉です。
 
 パルスィーアは「王家の訪問」を表現するために使われていた言葉で、ただ来訪するだけでなく、その場に滞在(存在)するという意味があります。
 
 ですからパルスィーアという言葉が聖書で使われる場合、キリストが来臨してそのまま地上に滞在することを意味すると理解すべきです。
 
 そのような意味のあるパルスィーアがマタイ243644に繰り返し使われているので、患難前説で言うところの携挙を表現する箇所としては考えにくいと思います。
 
 以上①~③により、マタイの箇所は患難前携挙説が言うところの携挙の箇所ではなく、地上再臨と患難後携挙説が言うところの携挙を描写している箇所だと思います。
 
 
●応答2
 
 次に、その時代に人々が飲み食いするのは考えにくい、という疑問について述べます。
 
黙示録18:11~14
また、地上の商人たちは彼女のことで泣き悲しみます。もはや彼らの商品を買う者がだれもいないからです。
18:12 商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、香木、さまざまの象牙細工、高価な木や銅や鉄や大理石で造ったあらゆる種類の器具、
18:13 また、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、麦、牛、羊、それに馬、車、奴隷、また人のいのちです。
18:14 また、あなたの心の望みである熟したくだものは、あなたから遠ざかってしまい、あらゆるはでな物、はなやかな物は消えうせて、もはや、決してそれらの物を見いだすことができません。
 
 
 上記は黙示録18章です。
 
 そして直後の黙示録1911以降は、地上再臨の描写です。
 
 つまりこの箇所は、大患難期も押し迫った、再臨直前の描写です。
 
 それでも地上の様子を見ると、12節~13節に述べられているような様々な高級品が売買されていることがわかります。 
 
 14節~15節にも、「あらゆるはでな物、はなやかな物」が生活の中で用いられていたことが書かれています。
 
 もう一人の方のコメントでも同様のことが言われているとおり、再臨直前でも贅沢を謳歌するような一面があることがわかります。
 
 ですから人々が飲み食いしているような状況で再臨が来ることは、むしろ黙示録と整合するわけです。
 
 このことからもマタイ243644は、患難前携挙説が言うところの携挙の描写ではなく、地上再臨と患難後携挙説が言うところの携挙を描写している箇所だと思います。

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