2017年05月12日 お知らせ 最近、今後のテーマに関して模索しているところです。 しかし急ぎの翻訳を頼まれているので、なかなかまとまった時間がとれません。 しばらく新しい投稿はないかもしれませんm(_ _)m ダビデ タグ :#宗教
2017年05月07日 毒麦の譬えと千年王国 毒麦の譬えを理解するには、千年王国の概念が必要だという内容です。 マタイ13:24~30 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。 13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。 13:26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。 13:27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』 13:28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』 13:29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。 13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」 この譬えの最後のところに、「まず、毒麦を集め」と書かれています(30節)。 主の解き明かしによると、「毒麦とは悪い者の子どもたちのことです」(38節)。 そして「収穫とはこの世の終わりのことです」(39節、40節) ちなみに、「世」と訳されているアイオンは「時代」という意味で、 「終わり」と訳されているスンテレレイアは「完了」という意味です。 ですから「この世の終わり」の直訳は、「この時代の完了」ということになります。 集められる順番の話に戻りますが、マタイの他の箇所には、 集められるのは悪い者の子どもたちではなく、選ばれた人々だと書かれています。 例えば次の箇所です。 マタイ24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。 この箇所は、同24:3で弟子たちが「世の終わり」について尋ねた質問への答えです。 マタイ24:3 「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」 弟子たちが「世の終わり」について尋ね、 その答えの中でイエスは、「選びの民を集める」と言っています。 一見すると、毒麦の譬えと集める順番が逆に説明されているか、 世の終わりが2種類あるかのどちらかのように思えます。 これは、どのように考えればいいのでしょうか? ●千年王国の描写 この疑問を解決するために、毒麦の譬えの後半と黙示録20章を比較します。 マタイ13:40~42 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。 黙示録20:11~15 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。 13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。 14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。 15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。 マタイ13:42に、毒麦が「火の燃える炉」に投げ込まれることが書かれています。 一方、黙示録では、20:14と15で、非キリスト教徒が「火の池」に投げ込まれます。 ですから、毒麦を集める部分は、黙示録20:11~13ということになります。 この時には、「毒麦」だった人たちは死んでいます。 黙20:12を見ると、死者が神の前に引き出されています。 この部分が、マタイ13:30の「まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい」や、 同13:41の「御国から取り集めて」に相当する部分です。 要するに、毒麦の譬えにおける「世の終わり」は、 他の箇所の「世の終わり」の1000年後だということです。 ●結論 このように、毒麦の譬えは、黙示録20章を字義通りに解釈し、 千年王国の存在を認めない限り、正しく解釈することはできません。 無千年王国説では、毒麦の譬えは解釈できないということです。 これは、マタイの福音書の段階では啓示されていなかった千年王国が、 黙示録においては漸進的に啓示されたと理解するか、 千年一日説を適用して、「世の終わり」という特定の時期が、 一日でもあり千年でもあると理解するかのどちらかになります。 おわり タグ :#宗教
2017年05月03日 患難前携挙説は警戒すべき教え 岡山英雄氏が、著書「小羊の王国」で興味深いことを書いているのでご紹介します。 岡山氏はP61~P62で、「終末のラッパ」について論じています。 1テサ4:16の「神のラッパの響き」、マタイ24:31の「大きなラッパの響き」、 黙示録11:15の「第7の御使いが吹き鳴らすラッパ」は主の来臨を示している。 その際に信者は「朽ちない」体を受け取るが、 1コリ15:52は、そのとき「終わりのラッパ」が鳴ると述べている。 イエスはマタイ24章で、終末に起こる事件を次のように預言している。 ①終末的苦難 マタイ24:4~28 ②天変地異 同24:29 ③キリストの来臨 同24:30 ④ラッパによる神の民の招集 同24:31 それゆえ「空中への引き上げ」は、終末的苦難の時代の後である。 すなわち神の民は、「産みの苦しみ」としての終末的苦難を地上において受け、 その後、「雲の中に引き上げられ」(1テサ4:17)、来臨の主と「会う」。 そして地上に戻ってくる。 この「会う」(アパンテーシス)は、迎えに行って戻って来ることを意味する。 (引用終わり) ●アパンテーシスの意味 1テサロニケ4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。 岡山氏が述べている、アパンテーシスについて調べてみました。 アパンテーシスは「新任の役人を出迎えることを意味する専門用語」です。 また「主と会う」と訳されている部分を原文で見ると、次のように書かれています。 Ἁρπαγησόμεθα ἐν νεφέλαις 私たちは引き上げられる ~の中に 雲 εἰς ἀπάντησιν τοῦ κυρίου ~のために 出迎え 主の 直訳:主の出迎えのために、私たちは雲の中に引き上げられる Vine's Expository Dictionary of NT Wordsには、次のような説明があります。 アパンテーシスはパピルスの中で、新任の行政長官の到着に関して使われている。 「この言葉の特殊な概念は、新たに到着した高官を公式に歓迎することだったようだ。」 (Moulton, Greek Test. Gram. Vol. I, p. 14). アパンテーシスは、聖書中で3回しか使われていません。以下が残りの2箇所です。 マタイ25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。 使徒28:15 私たちのことを聞いた兄弟たちは、ローマからアピオ・ポロとトレス・タベルネまで出迎えに来てくれた。パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた。 以上のことから、アパンテーシスの意味が「出迎え」であることが明らかです。 つまり岡山氏の言うとおり、主が来臨されたとき、 信者たちは空中で主を出迎え、再び地上に戻るのです。 実際、文語訳は「空中にて主を迎える」と訳しています。 文語訳 後に生きて存れる我らは、彼らと共に雲のうちに取り去られ、空中にて主を迎へ、斯くていつまでも主と偕に居るべし。 ●あとがき 患難前携挙説では、空中に引き上げられた信者は、そのまま天国に行き、 7年間の患難期を天で過ごすことになっています。 しかし1テサ4:16~17で、パウロが実際に言っていることは、 「主の出迎えのために、私たちは雲の中に引き上げられる」ということです。 つまり、出迎えた直後に、地上に戻ることが前提になっているのです。 天に連れて行かれるのではありません。 聖書を調べれば調べるほど、 患難前携挙説は、聖書の曲解に基づいていることがわかってきます。 岡山氏は、こう述べています。 「もし患難期前携挙説がただしいのなら、聖書における終末の苦難に対する数々の警告、 黙示録の幻による警告はすべて、教会とは無関係なものになってしまう。」(同書P64) 言い換えると、患難前携挙説は、 終末の警告の意味を、聖書から奪い去ってしまう教えであるということです。 そのような教えは、警戒すべきですね。 関連記事「携挙のラッパが鳴るのは患難期の前ではない」 タグ :#宗教
2017年05月02日 終末のイスラエルの民族性と歴史的前千年王国説の不備 ジョージ・エルドン・ラッドは、「終末論」の著者として日本でも知られています。 また「The Meaning of the Millennium: Four Views」の中で、 歴史的前千年王国説の執筆も担当しています。 しかしラッドは、新約聖書のみから終末のイスラエルを論じているため、 ある間違いを犯しています。 この記事では、それを指摘しようと思います。 ●ジョージ・E・ラッドの思い違い へブル8:13 神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。 ラッドはThe Meaning of the Millennium: Four Viewsの中で、 ディスペンセーション的千年王国説における旧約聖書の字義的解釈を批判し、 次のように述べています(P26~P27)。 旧約預言の字義的解釈に基づくディスペンセーション的前千年王国説の中心的主張の一つは、エゼキエル40章~48章の預言に基づき、千年王国においてユダヤ教の神殿が再建されて、生贄制度が全面的に再び導入されるというものである。… 旧約的生贄制度が回復するという概念は、それが記念としてであろうとなかろうと、へブル8:13に真っ向から反している。この箇所は、古い契約が古びて、過ぎ去って行こうとしていることを露骨に肯定している。 それゆえへブル8:8~13は、ディスペンセーション神学を2つの点で否定している。この箇所は、旧約聖書ではイスラエルと呼ばれている、キリスト教会に対して預言を適用している。また、キリストにある新しい契約が古い契約に取って代わったため、古い契約は過ぎ去ってゆく定めにあることを肯定している。 (引用終わり) ここでラッドが主張しているのは、 旧約聖書の預言は教会に成就したので、イスラエルには成就しないということです。 しかし救いの契約が更新されたからといって、 旧約聖書の預言や、その他の記述がすべて無効になったわけではありません。 事実、新約聖書の筆者は、旧約の預言、その他の記述を頻繁に引用し、 それを土台にして新約の教えを構築しています。 この原則は、終末論も例外ではありません。 例えばパウロは、ローマ11章でイスラエルの民の終末論的救いを論じています。 その中で、以下に挙げる旧約の聖書箇所から引用しています。 11:3 1列王記19:10 11:4 1列王記19:18 11:8 イザヤ6:10 11:9、10 詩篇69:22、23 11:26、27 イザヤ59:20、21 特にローマ11:26でパウロは、「こうして、イスラエルはみな救われる」と述べ、 イスラエル民族が終末に救われると結論づけています。 この結論は、以下のイザヤの預言に基づいています。 イザヤ59:20~21 「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」――主の御告げ。――「これは、彼らと結ぶわたしの契約である。」と主は仰せられる。「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。」と主は仰せられる。 この箇所によれば、終末に神がイスラエルを訪れ、永遠の「契約」を結びます。 以下がその契約です。 「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。」 この部分の「あなた」というのは20節の「ヤコブ」のことを指しており、 「ヤコブ」はイスラエル民族を指しています。 このことから何がわかるのでしょうか? 終末におけるイスラエル民族の救いについては、旧約の預言が鍵になる、 ということです。 これはラッドの主張と矛盾します。 パウロとラッド、どちらが正しいかは言うまでもありません。 終末論を論じる上で、旧約聖書は鍵になるのです。 この点を否定する終末論は、間違いを含むと言わざるを得ません。 ●契約神学における不備 契約神学にも、ラッドと共通する間違いがあります。 契約神学に立つ神学者ヴェルン・ポイスレス氏は、 終末論におけるイスラエルと教会について次のように論じています。 しかしそれはまた私たちを次の結論にも導きます。つまり、イスラエルと教会の間の相違というのは根本的に、救いを完遂すべくキリストが来臨される「前」と「後」における神の民の間の相違であるということです。 それはユダヤの血統の人々の将来についての問いによっても、別の方法でその含意が見い出されるでしょう。こういった人々はどのようにして救われ、そして彼らの相続に与るのでしょうか?今やキリストがご自身の業を成し遂げてくださり、救いはもはや予型や影、予測や予兆といった事柄ではなくなりました。 救いはキリストとの合一によるものであり、それ以外の方法はありません。そしてその救いは、現在であれ千年王国期であれ、ユダヤ人および異邦人をして、キリストの「構成員」と成さしめます。 彼らは新しい人類として公同的にひとつです。それゆえに、キリストというひとつのかしらの下にあるこういった新しい人類を二つに引き裂くということはもはや考えられないという事になります。 引用元: 他者理解/相互理解としてのディスペンセーション主義考究シリーズ㉑ 「キリストにあるイスラエルの成就」(by ヴェルン・ポイスレス/ウェストミンスター神学大 新約学) 上記の論述は、ディスペンセーション主義が主張する、 「神の二つの民」という概念への反論です。 「神の二つの民」という表現は、受け取り方によっては確かに間違っています。 ポイスレス氏が述べておるとおり、イスラエルと教会は「公同的にひとつ」です。 救いの道が一つしかないからです。 しかしパウロはローマ11:23~24で、 1本のオリーブの木が2種類の枝を持つことになる、と言っています。 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。ローマ11:23~24 17節に「枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ」とあるとおり、 野生種のオリーブの枝とは異邦人クリスチャンのことです。 イスラエルという栽培種の枝は、「不信仰によって折られ」ました(20節)。 その代わりに野生種のオリーブの枝がつがれた状態が、現代の教会です。 現在は、幹と根は栽培種のオリーブで、枝は野生種という状態です。 しかしキリストの再臨に伴って、イスラエルの民は悔い改めて主イエスを信じます。 その結果、「栽培種のもの(枝)」が元の栽培種の「台木につがれる」のです。 これによりオリーブの枝は、野生種と栽培種の2種類になります。 オリーブの木の幹や根は一本でも、枝は2種類あるのです。 24節に、野生種の枝が「もとの性質に反して」栽培種の台木につがれたとあるとおり、 性質の異なる枝が2種類あるのです。 ここで「性質」と訳されているギリシャ語はフーシスと言い、 「自然の秩序、自然の原則」という意味です。 次のような箇所で使われています。 ローマ1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、 ヤコブ3:7 どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。 このフーシスは、神が万物創生の際に定めた「自然の秩序であり原則」ですから、 万物が更新されるまでフーシスは不変です。 イスラエル民族のフーシスが保たれることを、パウロはこう表現しています。 神の賜物と召命とは変わることがありません。ローマ11:29 こういうわけで、枝(民族の性質)という視点で見れば、2つの神の民が存在します。 この点でディスペンセーション神学は間違っていません。 にもかかわらず契約神学は、 枝という視点から見た「二つの神の民」という概念を認めようとしません。 この点で間違っているのです。 これはラッドと共通する間違いです。 聖書の一部分だけから解釈すると、このような不備が生じます。 パウロは預言書や他の旧約の箇所に基づいて、終末のイスラエルを論じています。 終末を論じるときは、包括的に聖書を見る必要があるのです。 タグ :#宗教
2017年05月01日 イスラエルの民族性 イスラエル民族に関する終末論的解釈は、見解が分かれています。 同じプレミレであっても、ディスペンセーション的プレミレと歴史的プレミレでは、 イスラエル民族に関する見解が異なります。 この問題について岡山英雄氏が著書「小羊の王国」の中で論じているので、 以下に引用します。 終末論において「イスラエル」は、民族としての独自性を持つ。それゆえイスラエル民族の特殊性を認めず、新約の教会によってその役割が置き換わったとする「置換神学」には問題がある。歴史の終末的完成において、イスラエルは何らかの重要な役割を果たすものと思われる。 なぜならローマ9~11章において、パウロはイスラエル民族についての神の計画について述べ、その結論として11章で終末的完成としての「イスラエル」の救いについて語っているからである。 イスラエル人の拒絶によって福音は異邦人にもたらされたが、「異邦人の完成のなる時」(同11・25)が来たなら、その結果「イスラエルはみな救われる」(同11・26)というイスラエルの終末的な救い、その「奥義」についてパウロは述べる。 「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」(同11・25~26) この「イスラエル」の解釈については意見が分かれるが、民族的イスラエルとは無関係な「新約の教会」(カルヴァン)とするのは説得力を欠く。 なぜならパウロは、この主題を扱う始めの部分で、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」(同9・3)と述べ、イスラエル人として、同国人の救いを熱心に願っているからである。… むしろこの箇所が何らかの意味での「終末におけるイスラエル民族の回心」(G・ヴォス、J・マーレイ、C・ホッジ、G・E・ラッド、R・H・ガンドリー、F・F・ブルース、T・E・マコミスキイ)について述べていると考える方が自然である。… イエスは「御民イスラエルの光栄」(ルカ2・32)として地上に来られ、福音はまず「イスラエルの家の失われた羊」に宣べ伝えられた(マタイ10・6、15・24)。 そして十二使徒には、「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」(同19・28)との約束が与えられた。 またイスラエル民族に対する「神の賜物と召命」とは変わることがない(ローマ11・29)。それゆえ終末において、イスラエル民族には何らかの重要な役割が与えられていると考えられる。 改訂版「小羊の王国」(いのちのことば社)、「イスラエルの民族性」(P226~P228) ●あとがき イスラエル民族について、私は上記の岡山英雄氏の見解に賛成です。 確かに都は一つであり、神はお一人であり、救いは一つです。 イスラエルと異邦人信者は、キリストにおいて「新しいひとりの人」となり、 「両者を一つのからだ」とされました(エペソ2:15~16)。 しかし黙示録21章を見ると、新天新地の都は「新しいエルサレム」と命名されおり、 それはイスラエルという国、あるいは民族を象徴しています(2節)。 また都の門には「イスラエルの子らの十二部族の名」が書かれ、 それが未来永劫にわたり残ります(同12節)。 これらのことは、イスラエルという民族が神の目にユニークな存在であり、 その民族の特殊性が永遠に保たれることを意味しているのではないでしょうか。 イスラエルの民族性を過小評価する終末論は、聖書と合致しいないように思えます。 タグ :#宗教