ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2017年07月

 
 今回はマタイの福音書と使徒の働きの「聖書の現象」に関してです。
 
「聖書の現象」とは、キリスト教進歩主義やリベラルが「聖書の矛盾」だと批判する聖書箇所を言います。
 
 
マタイ27:5 
それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。
 
使徒1:17~18 
ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。
ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった
 
 
 マタイの説明では、イスカリオテのユダは首つり自殺したことになっています。

 しかし、ルカの説明では、落下して胴体が裂け、内臓が飛び出したとされています。
 
 どちらが正しいのでしょうか?
 
 よく見られる説明は、

 首を吊ったときに縄が切れ、落下して胴体が裂けて内臓が飛び出したというものです。
 
 しかし、Answers In Genesisは、こう述べています。

「酷い落ち方をしても、通常、体が裂けて内臓が出ることはない。皮膚はとても丈夫で、たとい腹部が切れた場合でも、ふつう内臓は出てこない。」
 
 では、どのようなことが起きたのでしょうか。以下は、アンサーズ・イン・ジェネシスによる説明です。
 

 おぞましい話ではあるが、ユダの死体は暑い日差しの中に吊るされていた。体内のバクテリアが体の組織や細胞を活発に破壊していたはずである。
 
バクテリアの代謝作用による副産物は、往々にしてガスである。ガスによって体圧が上昇し、細胞や組織から体液が流失して、体腔(体壁と内臓の隙間)に溜まっていく。
 
 結果として体は膨張し、組織の腐敗も起きて皮膚の健全性が損なわれる。ユダの体は、ふくらみすぎた風船のようになっていたのだ。
 
(木の枝または縄の破損によって)ユダの体が地面に落ちると、皮膚はたやすく裂けてしまい、内臓が飛び出したのである。
                               (引用終わり)


●あとがき
 
 つまり、ユダは首を吊って死んだということです。
 
 医者であったルカは、その後の様子を加筆したのであって、二つの箇所は矛盾しているわけではないということですね。

 終わり

 
 前回の記事の別バージョンになります。
 
 前回掲載したDefending Inerrancyの解決案(二日連続の宮清め説)に、個人的に納得できなかったため、もっと納得のいく説明を探してみました。
 
 私としては、今回の説明のほうが正しい理解だと思います。
 
 問題の一端は、新改訳聖書の翻訳にもあったので、今回は新共同訳を使います。
 
 
検証
 
マルコ11:1124 
こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」
20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
 

 エルサレム入城は日曜日(パームサンデー)であることがわかっているので、今回は曜日ごとに出来事をまとめした。 
 
マルコ
日曜 エルサレム到着→宮(視察のみ)→ベタニア(1111) 
月曜 ベタニア→イチジクを呪う→宮清め(111216
火曜 イチジクが枯れているのを見る(112021
 

マタイ21:1022
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」
14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
17 それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。
18 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
19 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
20 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
21 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
 

マタイ
日曜 エルサレム到着→宮清め→ベタニア(21:10~17)
月曜 イチジクを呪う→イチジクがたちまち枯れる→宮での教え
 
 
正い理解の鍵
 
 今回、参考にしたChristian Courierによると、「福音書の著者たちは単なる写本写筆者ではなく、独立した著作者であり、各自が独自の技巧を使っていた」とされています(注1)。
 
 マタイの場合、福音書のある部分は時系列的配列で書き、他の部分は主題的配列書いているとのことです。
 
 そして、D.E. ヒーバート(Hiebertによると、マタイ211819は例外的に主題的配列で書かれている箇所であるとのことです(HiebertP138)。
 
 
1
ウィリアム・ヘンドリクセン(William Hendricksen)によるマタイの福音書注解(P773) 


解説

 マタイは、イチジクの木に対する呪いは、宮清めの翌日だとは言っておらず、単に「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた」と書いているだけです(2118
 
 マルコの説明から、朝というのは月曜の朝であることは明白です。
 

☆ ☆ ☆
 
 実は、新改訳聖書の翻訳にはこの点で問題があり、
 
 ギリシャ語原文では「早朝に」を意味するプロイという語が使われているのに、それを「翌朝」と訳しているのです。
 
 ですからここは、新共同訳のように「朝早く」とすべきです。
 
☆ ☆ ☆
 

 次に、マタイは、便宜上、イチジクへの呪いと弟子たちとの対話をまとめて書いています。しかも、呪いと対話が同じ日になされているかのように描写しています。
 
 D.A.カーソンは、マタイのこの書き方について、こう述べています。
 
マタイは、典型的な主題的配列で、二つの部分を単につなげているのだ」(P444)。
 
 
 
●まとめ
 
 というわけで、マタイは文学的な技巧として、時系列的には別の日に起きた事柄を続けて書いているということです。
 
 そうすることによって、読者に伝えたい主題をわかりやすく表現しているわけです。
 
 ですから、時系列的な頭で主題的に書かれている箇所を読んでしまうと、あたかも「間違っている」とか「矛盾している」ように思えるわけです。
 
 しかし、主題の理解のしやすさという点では、マタイのほうがわかりやすいのかもしれません。
 
 そういうわけで、これらの箇所を読む際は、マルコは時系列的配列で書いており、マタイは主題的配列で書いているという理解を持って読みましょう。
 
 終わり

 
 引き続き、新約聖書における「聖書の現象」に関する記事です。
 
 今回は、宮清めとイチジクの木が枯れたエピソードに絡む食い違いについてです。
 
 宮清めが公生涯で二度行われたことについては、日本でもいくつか記事が見られますので省こうと思います(記事1)。

 米国で問題にされているのは、宮清めとイチジクを呪った順番です。

 マタイによると、主イエスがイチジクを呪うのは宮清めの後ですが、マルコによると宮清めの前です。

 この食い違いをどう考えればよいのでしょうか?
 
 
*「聖書の現象」とは、キリスト教進歩主義やリベラルが「聖書の矛盾」だと批判する聖書箇所を言います。
 
 
検証
 
マタイ21:1019、23
10 こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。
11 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。 
12 それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
14 また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。
15 ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。
16 そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」
17 イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。
18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
23 それから、イエスが宮に入って、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」
 
 
マタイ
Day 1 エルサレム到着→宮清め→ベタニア(21:10~17)
Day 2 イチジクを呪う→イチジクがたちまち枯れる→宮での教え
 
 このように、マタイによると、宮清めはエルサレム滞在の一日目で、イチジクを呪ったのはエルサレム滞在の二日目です。
 
 
マルコ11:11~21 
こうして、イエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。
12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。
14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、
16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。
20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
 
 
マルコ
Day 1 エルサレム到着→宮→ベタニア(1111) 
Day 2 ベタニア→イチジクを呪う→宮清め(111216
Day 3 イチジクが枯れているのを見る(112021
 
 マルコによると、イエスがイチジクを呪ったのは、やはりエルサレム訪問の二日目でマタイと一致していますが、宮清めは二日目と説明されています。
 
 マタイとマルコの説明でわかるのは、主イエスが宮を二度訪問していることです(マタイ211223、マルコ111115)。
 
 マルコの場合、一度目の訪問では宮を見回っただけで、清めはしていないように書かれています。
 
 一方、マタイは、一度目の訪問で宮清めをして、二度目は教えをしただけのように書いています。
 
 マタイとマルコを調和させるには、宮清めが二度行われたと考えるしかありません。
 
 念のため、ルカの説明を見てみましょう。
 
 
ルカ19:41~46
エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
45 宮にはいられたイエスは、商売人たちを追い出し始め、
46 こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」
 
 
ルカ
Day 1 エルサレム到着→宮清め(194546
 
 ルカの説明によると、主イエスはエルサレムに到着した当日に宮に入り、そのまま宮を清めています。
 
 この点で、マタイとルカの説明は一致しています。
 
 
解決案
 
 Defending Inerrancyは、こう述べています。
 
 マルコは、イエスがイチジクの木を呪ったのは宮に向かう途中だと言っているが、だからといって、マタイの説明が間違っていることにはならない。
 
 キリストは宮を二度訪れており、二度目の訪問の途中にイチジクを呪ったのである。
 
 マルコ1111を見ると、エルサレム入城の日にキリストが宮に入ったと書かれている。 マルコは、キリストが悪行に対して何らかの叱責をしたとは書いていない。
 
 12節には「翌日」とあり、イチジクの木を訪れたのが二日目に宮に行く道すがらであったことが述べられている。
 
 この日、キリストは、売り買いしている者たちを宮から追い出した。だがマタイは、二度行われた宮への訪問をあたかも一度であるかのように描いているのだ。
 
 このことから受ける印象は、キリストは一日目にも宮に入り、商売人たちを追い出したということだ。
 
 マルコの説明は、二つの出来事をより詳しく描写しており、宮への訪問が実際は二度であったことを明らかにしている。
 
 このように考えるなら、食い違いがあると考える理由はまったくない。
 
 
 終わり
  

追記:上記の説明に納得がいかない方は、別バージョンがあります。
 

Defending Inerrancyは、ノーマン・ガイスラー博士が編集主幹を務める聖書の無誤性を主張する団体です。ガイスラー博士は「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」の中心的編集者でもありました。


 引き続き、新約聖書における「聖書の現象」に関する記事を書きます。
 
「聖書の現象」というのは、キリスト教進歩主義やリベラルから「聖書の矛盾」として批判される聖書箇所のことを言います。

 
マタイ20:29~34 
彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。30 すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」31 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」33 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」34 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。
 
マルコ10:46~52 
彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。
 
ルカ18:35~43
イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。36 群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。37 ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、38 彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。39 彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。40 イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。41 彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。42 イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、43 彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。
 
 
二つの相違点
 
①盲人の人数
 
 マタイの箇所では、「ふたりの盲人」が癒やされたと書かれていますが、マルコとルカのほうでは一人だと書かれています。
 
 盲人は一人なのでしょうか、それとも二人なのでしょうか?
 
 
癒しが起きた場所
 
 また、マタイの箇所では、主イエスの一行が「エリコを出て行くと」盲人たちがいて、癒されたと書かれていますが、
 
 ルカの箇所では、「イエスがエリコに近づかれたころ」、盲人が物乞いをしていたと書かれています。
 
 癒やしが起きた場所は、エリコから出たところだったのでしょうか、それともエリコに入るところだったのでしょうか?
 
 
解決案
 
  Defending Inerrancyでは、盲人の人数について次のように説明されています。
 
 
 マルコは癒やされたのが一人であるかのように記録しているが、マタイが述べているように、癒された者が二人いたことを否定しているわけではない。
 
 まず第一に、マルコは、癒やされた盲人が一人だけだと言明しているわけではない。
 
 一方、マタイは二人いたと述べていおり、二人いるなら必ず一人はいることになる。必ずである!
 
 マタイは、8章でも悪霊憑きが二人いたと言っている。一方、マルコとルカは一人だと言っている(マタイ82834)。
 
 今回の箇所でもマタイは、マルコとルカが一人だと言っている盲人を二人だと言っている。
 
 更にマルコは、盲人の名前がバルテマイで、父親の名前がテマイだとも言っている(マルコ1046)。
 
 このことからわかるのは、マルコが個人的に知っていた人物を話題の中心にしているということだ。
 
 仮に、二人の人が合衆国大統領から褒賞のメダルを授与されることになったとしよう。
 
 二人のうちの一人があなたの友人だったら、あなたがそのことを話題にするとき、自分が知っている者のことだけを話したとしても、それは理解できることである。
 
 
 癒しが起きた場所については、こう説明されています(Defending Inerrancy)
 
  
 これらの箇所は、2つの出来事を描写しているのはないかとする見解がある。
 
 マタイとマルコは、癒やしが起きたのは、イエスがエリコを出てからだと言明している(マタイ2029、マルコ1046)。
 
 一方、ルカは、イエスがエリコに入るときに一人の盲人が癒されたと書いている。
 
 これは、通常のサイズの「群衆」がそこを通ったとルカが書いていることから、妥当性がある(1836)。
 
 他方、マタイ(2029)とマルコ(1046)は、「大ぜいの群衆」「多くの群衆」がイエスと一緒にいたと述べている。
 
 エリコに入る際に起きた癒しの噂が広まったと考えるなら、イエスがエリコを去るときまでには群衆の人数が増えていたことになるので、この説明には合点がいく。
 
 二つの癒しが起きたと考えた場合、二人の盲人が反対側の出口でイエスに癒しを求めたことにも説明がつく。
 
 恐らく、最初に癒された盲人が、素早く別の盲人のところに行って、自分が癒されたことを伝えたのだろう。
 
 あるいは、反対側の出口でまったく別の盲人たちがいつも通り物乞いをしていて、イエスの一行に出会ったのかもしれない。
 
 いずれにしても、この箇所には解決できない問題点は存在しない。二つの説明は、まったく矛盾することなく理解できる。
 

 終わり

 
Defending Inerrancyは、ノーマン・ガイスラー博士が編集主幹を務める聖書の無誤性を主張する団体です。ガイスラー博士は「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」の中心的編集者でもありました。

 
 前回から新約聖書における聖書の現象」に関する記事を書きはじめました。
 
「聖書の現象」というのは、キリスト教進歩主義やリベラルから「聖書の矛盾」として批判される聖書箇所のことを言います。
 
 
マタイ8:28 
それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。
 
マルコ5:2 
イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。
 
ルカ8:27 
イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。
 
 
 さて、今回の箇所は、しばしば取り沙汰される箇所だと思います。
 
 マタイの箇所では悪霊憑きの男性が「ふたり」出て来たと書かれていますが、
 
 マルコとルカの箇所では、「ひとり」という言葉は書かれていないものの、ひとりであることがわかります。
 
 英語の場合、名詞にかかる不定冠詞の有無がありますし、単語の綴りも変わりますので違いが鮮明になります。
 
 
ESV・マタイ8:28
And when he came to the other side, to the country of the Gadarenes, two demon-possessed men met him, coming out of the tombs, so fierce that no one could pass that way.
 
ESV・マルコ5:2
And when Jesus had stepped out of the boat, immediately there met him out of the tombs a man with an unclean spirit.
 
 
 ギリシャ語の場合も、名詞の語尾変化によってその単語が単数か複数かがわかるようになっていますし、マタイの箇所には「2つの」を意味する「δύο/ドゥオ」という言葉がついています。
 
 この違いをどう理解すればよいのでしょうか?
 
 
解決案
 
 Defending Inerrancyは、次のように説明しています。

 
 まず、極めて基本的な数学上の原則があります。その原則によって、このあからさまな矛盾は調和してしまいます。
 
 つまり、二人の人がそこにいるということは、必ず一人はいるということです。この原則に例外はありません。
 
 実際は、イエスのところにやって来た悪霊憑きは二人いたのです。
 
 マルコとルカが一人だと言っているのは、恐らくその一人が、もう一人のほうよりも何らかの理由で目立っていたからでしょう。
 
 しかし、マルコとルカが一人についてだけ述べているからといって、二人いたとするマタイの証言が否定されることにはなりません。
 
 なぜなら、二人いるところには、必ず一人はいるからです。このことに間違はありません。
 
 仮にマルコとルカが、一人だけしかいなかったと言ったのなら矛盾になります。しかし、「だけ」という言葉は本文に書かれていません。
 
 つまり、本文を変更しない限り、この箇所が矛盾しているとは言えないのです。
 
 
Defending Inerrancyは、ノーマン・ガイスラー博士が編集主幹を務める聖書の無誤性を主張する団体です。ガイスラー博士は「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」の中心的編集者でもありました。
 
 
 次のサイトでも、上記と同じような説明がされています。
 
ゴット・クエスチョン・ミニストリーズ「Why are there two demon-possessed men in the Gerasene tombs in Matthew, but only one in Mark and Luke?」
 
 終わり

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