この記事では、前回とは少し違う視点でその問題点を指摘します。
●2000年は「すぐに」ではない
黙示録22:7、12、20
「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、…
「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
しかし、黙示録が書かれてから既に2000年近く経過していますが、キリストの再臨はまだ起きていません。
この事実が示すことは、黙示録における「すぐに」という概念は、私たちが普通に考える「すぐに」とは違うということです。
つまり、黙示録の「すぐに」を理解するには、より深い洞察が必要だということです。
●学者らの見解に基づく考察
黙示録1:1
イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。黙示録1:1a
では、黙示録の「すぐに」という表現を、どうのように理解すべきなのでしょうか?
1900年余りの教会史が経過しているにもかかわらず、終末が未だに来ていないということは、一部の者たちに問題を提起している。
一つの解決案は、「すぐに」という表現を突然に(suddenly)という意味で理解するか、あるいは、聖定された時が遅延なしに到来するという意味に理解することである。
もう一つのアプローチは、問題となる出来事の確実性(certainty)と解釈することである。
多少の助けとしては、ヨハネが2ペテロ3:8の原則(主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のよう)を採用しているという提案がある。…
最も満足のいく解決案は、預言的展望の中では、終末は常に差し迫っている(imminent)ことを念頭に置きつつ、この言葉(「すぐに」)を率直な意味でとることである。
(強調はブログ主)
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「すぐに起こるはずの事」という表現は、黙示録が将来の出来事をテーマにしていることを示している。
しかし、どのような意味でそういった出来事が「すぐに」起こると理解することが可能なのだろうか。…
終末論や黙示文学における未来というのは、時間の介入を必要としておらず、常に差し迫ったものとして見られている(ルカ18:8)。
言い換えるなら、「すぐに」というのは、黙示録そのものが暗示しているように、遅延や別の出来事の介入を排除しないのである。
(強調はブログ主)
これらの見解から、何がわかるのでしょうか?
一つには、聖書の預言においては、終末全体が「差し迫った/imminent」ものとして描かれているということです。
学者らは、黙示録の「すぐに」の意味を説明するに当たり、「預言的展望」「終末論や黙示文学」という言葉を使っています。
このことからわかるのは、聖書における「すぐに」という表現は、普通に理解するべきではなく、
聖書が将来の事柄を述べる際の特徴を理解する必要がある、ということです。
この点の理解については、ペテロの手紙が助けになります。
2ペテロ3:4には、「あざける者ども」が次のように言うと書かれています。
「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
これに対してペテロは、次のように説明します。
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。2ペテロ3:8
ここでペテロは、再臨について考える場合は、神の時間的尺度を理解する必要があることを教えています。
「一日は千年のよう」という説明は、神の時間的尺度は人間のそれよりも長い、あるいは人間の時間的概念を超越している、ということです。
2000年経っても起きていない現実を説明するには、そう理解するしかありません。
また、そのような理解こそが、使徒的理解だということです。
つまり、黙示録の「すぐに」というのは、神の時間的尺度における「すぐに」であって、
人間の時間的尺度における「すぐに」ではないということです。
一方、患難前携挙説の言う「切迫性」は、人間の時間尺度に基づいています。
携挙に先行する出来事はない、だから「今すぐにでも起こり得る」というのは、人間の時間的尺度です。
このことからわかるのは、黙示録の表現を引き合いに出して、患難前携挙説の言う「切迫性」を肯定することは誤りだということです。
前者と後者とでは、時間の尺度が異なっているからです。
もう一つ理解しておくべきことは、黙示録における「すぐに」という概念には、「遅延や別の出来事の介入」があり得るということです。
2テサロニケ2:1~4
さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。…
なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
1テサロニケ4:15~17
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、… 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。
2テサロニケ2:1の「キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められること」というのは、
1テサロニケ4:15~17の「主が再び来られるとき」と「私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会う」ことを指しています。
しかしパウロは、この出来事が起こる前に、「不法の人、すなわち滅びの子」が「すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言」すると言っています。
言うまでもなく、携挙/再臨の前に反キリストが台頭する、と言っているわけです。
つまり、携挙/再臨は「今すぐにでも起こり得る」出来事ではなく、それに先行する別の出来事があるということです。
これが意味することは、患難前携挙説が言うところの、「今すぐにでも起こり得る」という意味の「切迫性」は間違いだということです。
患難前携挙説は、携挙に先行する出来事があることを否定しているからです。
●まとめ
黙示録(聖書)の「切迫性」は神の時間的概念における「切迫性」である一方、
患難前携挙説が言う「切迫性」は、人間の時間的尺度における「切迫性」です。
聖書の記述によれば、携挙/再臨には、先行する別の出来事があるにもかかわらず、
患難前携挙説の言う「切迫性」には、先行する別の出来事は存在しません。
ゆえに、患難前携挙説の言う「切迫性」は誤りです。 終わり