ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2018年03月


 久しぶりに、渡辺明日香さんのブログを見ました。
 
 この記事では、渡辺さんの携挙論が正しいか否かを考えたいと思います。
 

●検証1

 渡辺さんは次のように言っています。 

Ⅰテサロニケ4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

 18節を見れば、携挙があることで慰め合いなさい、と書いてあります。もし患難の中で、あるいはその後で携挙があるとしたら、それが慰めになりえるでしょうか。
 
 
 
もし患難の中で、あるいはその後で携挙があるとしたら、それが慰めになりえるでしょうか 
 
 このような疑問は、患難前携挙説が前提になっているために出てくるものです。
 
 この手紙におけるパウロの主張を理解していれば、たとい教会が患難を通過するとしても、携挙/再臨が慰めになることがはっきりとわかります。
 
 3章を見ると、パウロは繰り返し「苦難」や「患難」という言葉を使っています。
 
 3節では、「私たちはこのような苦難に会うように定められている」と述べています。
 
 ですから、パウロの考えでは、苦難や患難は回避できないものなのです。
 
 それが証拠に、4節では「私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいた」と述べています。
 
 ちなみに、3節の「苦難」という言葉は、マタイ24章の「苦難」と同じスリプシスというギリシャ語です。
 
 
マタイ24:21
そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
 
 
 また7節でパウロは、「私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも…慰めを受けました」と言っています。
 
 この箇所で「患難」と訳されているのもスリプシスです。
 
 つまり、患難の中にあっても慰めを受けられる、というのがパウロの神学なのです。
 
 このことからわかるのは、渡辺さん神学が聖書と真逆であるということです。
 
 
●検証2
 
 次に渡辺さんは、以下のように言います。
 
Ⅰテサロニケ5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。

 このみことばを素直に読むなら、患難が私達を盗人のように襲う事はないと信じることができます。(強調はダビデ)
 
 

このみことばを素直に読むなら、患難が私達を盗人のように襲う事はないと信じることができます
 
 この解釈の問題点は、パウロが「その日」と言っているにもかかわらず、渡辺さんはそれを「患難」に言い替えていることです。
 
 つまり、渡辺さんは「みことばを素直に」読んでいないのです。
 
「その日」とは、1テサ5:2節の「主の日」のことを指しています。
 
 そして「主の日」とは、キリストの地上再臨によってはじまる千年王国のことです。

 患難期のことではありません。
 
 それは、次の箇所から明らかです。
 
 
ゼカリヤ14:14
見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。
主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ
 
 
●まとめ
 
 このように、渡辺さんは、聖書を素直に読んでいません。

 かえって、患難前携挙説の眼鏡で読んでいます

 そのために、渡辺さんの携挙論は、聖書と大きく食い違っています。
 
 終わり

 
6 盲人の癒し
 
ヨハネ9:17
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして1、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
 
1 バイブル・バックグラウンド・コメンタリー(p288)によると、当時の異邦人社会には、癒しのために「つばき」を使う風習があったという。主は「つばき」を使うことで、これから癒しを行うことを盲人に知らせた可能性がある。
 
 
わたしは世の光です」 これは間違いなくキーフレーズ。
 
 というのは、同じフレーズがヨハネ8:12にもあるから。
 
 盲人の癒しの奇跡の背景にも、このフレーズがある。
 
 主が云いたいのは、ご自分が「世の光」だということ。
 
 NETバイブルのスタディー・ノートによると、「光」という表現はメタファーではなく、
 
 この世における主の影響(effect)だという(ヨハネ3:1921)。
 
 人は福音に触れることで、光(イエス・キリスト)に来るか、闇(イエスのいない人生)にとどまるかを選ぶことになる。
 
 
ヨハネ3:1921
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
 
 
7 ラザロのよみがえり
 
ヨハネ11:32~44
32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤り1を覚え、心の動揺を感じて、
34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35 イエスは涙を流された。
36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。
38 そこでイエスは、またも心のうちに憤り2を覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
 
12 「憤り」(ギ:タラソー)の原義は「感情的動揺/emotional agitation」。事例の一部に次の箇所がある。
 
マタイ2:3
それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
 
ルカ24:3638
これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。
彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
 
使徒17:78・新共同訳
ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した
 
 
 ラザロのよみがえりにあるメッセージはこれ。
 
 
ヨハネ11:25
わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
 
1コリント15:5557
 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
 
 
 終わり 

 
5 水上歩行
 
ヨハネ6:1621
夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。
そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。
こうして、四、五キロメートル1ほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。
しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく2目的3地に着いた。
 
1「四、五キロメートル」:原文には「25か30スタディオン」と書かれている。1スタディオンは約185m。なので、弟子たちは「4.5~5.5キロメートル」こぎ出していたことになる。NETバイブルのスタディー・ノートによると、ガリラヤ湖の最大部分の直径は11.6キロ。つまり弟子たちは、湖のほぼ中心部にいたことになる。
2「ほどなく」(ギ:エウセオス)の直訳は「すぐに、間もなく」。イエスが舟に乗り、風が収まった後、短時間で対岸に着いたことがわかる。
3「目的の」は「行く」を意味する動詞の未完了過去形。ゆえに直訳は「(彼らが)行こうとしていた」となる。
 
 

イエスが湖の上を歩いて」の「上を」には、エピepiという前置詞が使われている。 
 
 エピは下の図をご覧いただくとわかるとおり、水と接することを示す言葉。
 
(水面から離れて浮いていたのではない。その場合、前置詞はフペール/huperになる)
 
 
イメージ 1
 
 このことから、主イエスの足の裏が文字通り、水面上にあったことがわかる。 
 
 私たちの主が、超自然的能力を持つことは明らか。
 
 ならば、私たちも主のその能力に信頼する必要がある。
 
 
マタイ14:29・新共同訳
イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上(エピ)を歩き、イエスの方へ進んだ。
 

 
 ベテスダの池での癒し
 
ヨハネ5:19
その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。
 
 
 癒された男性は、38年の間、独力でよくなろうと試みていた。
 
 しかし、彼の努力は徒労に終わっていた。
 
 人は律法の行いや善行では救いを得られない。
 
 しかし、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」という主の一言で男性は癒された。
 
 これは、恵みによる無条件の救いを象徴している。
 
 人が真に必要としているのは、恵みによる救いとそれを提供する救い主である。
 
 
4 五千人の給食
 
ヨハネ6:1~13
1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。
2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。
3 イエスは1に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。
4 さて、ユダヤ人の祭りである過越2が間近になっていた。
イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
 
1 NETバイブルのスタディー・ノートによると、3節の「山」というのはゴラン高原
2 5:1の「ユダヤ人の祭り」がAD31年のペンテコステのため、4節の「過越」はAD32年の過越で十字架刑の1年前。
 
 
 ちなみに、並行記事のマルコ6:41を原文で見てみると、パンがどの時点で増えたかがわかる書き方をされている。
 
 
マルコ6:41
するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。
 
 
「与えられた」と訳されているギリシャ語が、未完了過去形という形式で書かれている。
 
 未完了過去形とは、次のような意味。
 

ギリシャ語の未完了形は、過去の動作の継続、または反復を意味します。意味としては「(いつも)~していた」です。(強調はダビデ)
 
 
 
 このことからわかるのは、イエスさまがパンを裂いて、繰り返し弟子たちに与えていたということ。
 
 つまり、パンが増えたのは、イエスさまの手の中にあったときだということ。
 
 このように、五千人の給食は、主を求める者のために主が超自然的に必要を満たしてくださることを象徴している。

 
1 カナの婚礼
 
ヨハネ2:111
それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう1。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
イエスはこのことを最初のしるし2としてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。
 
1「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう」:ヘブル語のイディオムがそのままギリシャ語に訳されている。
 このイディオムの意味は2通りある。①一方が、いわれのないことで相手を煩わせた場合の応答として:
「私が何をしたというのでしょうか。あなたがこのようなことをするとは」という意味。事例:士師記11:12、2歴代誌35:21、1列王記17:18。②自分に無関係のことに関わるよう頼まれた場合の応答として:「それはあなたの問題で、私には関係のないことです」という意味。事例:2列王記3:13、ホセア14:8。ヨハネ2章の場合は②。
2「しるし」(ギ:セメイオン):神が遣わしたことを証明する奇跡や不思議
 
 
 6つの石の瓶は、きよめのために使われたことから律法(古い契約)を象徴している。
 
 一方、ぶどう酒は、新しい契約とその実現のために流されたイエスの血を象徴している。
 
 さらに、背景となっている婚礼(結婚)の祝宴は、イエスとの喜びに満ちた関係を象徴している。
 
 
2 役人の息子の癒し
 
ヨハネ4:46~54
さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。
この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。
そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」
その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」
イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています1。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。
彼が下って行く途中2、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。
そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、七時に熱がひきました。」と言った。
それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている。」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。
イエスはユダヤを去ってガリラヤにはいられてから、またこのことを第二のしるしとして行なわれたのである。
 
1「直っています」(ギ:ザオー、生きる)…直訳:「あなたの息子は生きています」
2「下って行く途中」:カナからカペナウムに行くには、ガリラヤの丘陵を横切ってガリラヤ湖に出ることになる。
 約33キロの道のりを1日で帰るのは無理。福音書の著者はイスラエルの地理に詳しかったと見られる。
 
 
 役人に関する詳細は知らされていない。
 
 とにかく彼は、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っていますというイエスの言葉をそのまま信じて帰途につく。
 
 のちに、その言葉が語られた時刻に息子が癒されていたことを知ることになる。
 
 この奇跡により、役人と「家の者」(ギ:オイキア…雇人も含む家族全員)がイエスを信じた。
 
 このことは、信仰のみによる恵みの救いを象徴している。
 

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