ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2019年05月


 
 今回のご質問は以下のとおりです。
 
 救いに選ばれていない者が、私が貴方にした質問のような悩みをすることもあるのでしょうか?
 
 まったくないとは言えません。
 
 しかし、自分が救いに選ばれているか否かと悩む未信者は少ないと思います。
 
 特に日本では。
 
 なぜかと言いますと、信じることが救いの条件であることを示す聖句が聖書には数多く書かれているからです。
 
 
ヨハネ3:15
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
 
ヨハネ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 
使徒16:31
ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
 
ローマ10:9
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
 
 
 これらの聖句は、人の意思で信じることが救いの条件であることを示しています。
 
 意思を働かせるのは自分自身ですから、信じるか否かを決めるのも自分自身です。
 
 これらの聖句からは、選ばれた者が救われるという概念は見出せません。
 
 しかし、まったくの未信者ではなく、求道者のような方が教会などで選びによる救いの知識を得て、悩むことはあるかもしれません。
 
 改革派や長老派の教会では選びによる救いの教理が強調される可能性がありますから、求道者の方はそういった話を聞くことになるのではないかと思います。

 中には、自分は神に選ばれているだろうかと悩む人がいるかもしれません。
 
 もし読者の方の中で、そういう実話をご存知の方がおられましたらコメントしていただけると感謝です。
 

最後のご質問無条件的選びというのは神がサイコロを振って選民を決めるのに近いものなのでしょうか?
 
 
 それは違うと思います。
 
 以下に理由を示します。
 

エペソ1:5・新改訳 
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
 
エペソ1:4・新共同訳 
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
 
 
 上記で「愛をもって/愛して」と訳されているのは、「エン アガペー」というフレーズです。
 
  原文ではこのフレーズが4節と5節の境目にあるため、新改訳のように5節の一部として訳す場合もあれば、新共同訳のように4節の一部として訳すこともあります。
 
 いずれにしても、神が私たちを選んだ動機が愛であることに変わりはありません。
 
 私たちが選ばれたことはサイコロのように偶然の結果ではなく、愛による選びです。
 
 ただし、私たちが神に愛され、選ばれた理由(要因)は不明です。
 
 言い換えると、私たちの側に愛される理由があった訳ではないということです。
 
                * * *
 
 サイコロを振って決めることは偶然だと言いましたが、箴言によれば偶然ではありません。
 
 
箴言16:33
くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。
 
箴言16:33・口語訳 
人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。
 
 
「くじ」と訳されたヘブル語ゴラルは、投げるくじです。
 
 ですから、サイコロの使い方と似ていると思います。
 
 しかし聖書は、ゴラルの結果は神による決定であると教えています。
 
 つまり、神の前に偶然はないということでしょう。
 
 だとすれば、私たちが救いに選ばれたことも偶然ではないのです。
 
 神の意思のうちには、何らかの必然があったのでしょう。
 
 しかしそれは、私たちには絶対にわかりません。
 
 ただひたすら、恵みによって選ばれたとしか言いようがありません。

 使徒パウロも、テモテにそのように教えました。
 

2テモテ1:9
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。



 おわり


 
 今回のご質問は、「創造から終末まで6000年説が正しければ、すでに終末が到来してる気がするのですが、(ブログ主さんはどう思いますか?)」というものです。
 
 これは、至極もっともな疑問だと思います。
 
 しかし厳密な話をいたしますと、過去記事に引用した「神の7000年計画」の図説(↓)にありますとおり、
 
 6000年は天地創造からカウントするのではなく、「アダムの堕落」(ローマ5:12)からカウントすることになっています。
 

イメージ 1
 

ローマ5:12
そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
 
 
 この聖句によれば、「アダムの堕落」=「全人類が罪を犯した」時です。
 
 神による人類の贖いの本質は、罪からの贖いです
 
 それゆえ、キリストの再臨(=神の贖いの完成)までの6000年は、人類の堕落を起点としてカウントしなければなりません。
 
「では、アダムの堕落はいつなのか?」という疑問が出てきます。
 
 しかし聖書は、アダムが罪を犯した時期について明確な啓示をしていません。
 
 ただし、創世記3章によれば、アダムとエバが罪を犯した際、二人には子供がいませんでした。
 
 そこで、以下の聖句が多少のヒントを与えてくれます。
 
 
創世記5:3
アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。
  
 
 この箇所によりますと、アダムとエバの第一子セツが生まれるまでの130年間に、人類の堕落が起きたことがわかります。
 
 ですから、6000年に約130年を加えた人類暦6130年までに再臨が起こると考えられます。
 
 逆に言いますと、それまでの期間は、再臨が起こるかもしれないし、起こらないかもしれない期間であるということになります。

 これで答えになったでしょうか?
 
 つづく



 先日、質問者Mさんから新たなご質問をいただきました。
 
 Mさんの真摯な姿勢を嬉しく思います。
 
 今回の初めのご質問は以下のとおりです。
 

私は理学部生物学科の学生なのですが、進化論等を学修の中でどう扱えば良いでしょうか? また進化論についてですが、神が進化したように見えるように創造したという可能性はないでしょうか?(進化論には圧倒的な証拠があるようなのです。)
 
 
 この質問に詳しく答えた場合、膨大な回答になると思います。
 
 それゆえ、オンライン上に存在する福音主義的創造科学サイトをご紹介することにさせていただきたいと思います。
 
 
 
 このサイトにある「AUDEOVIDEOを開きますと、例えば「進化論の偽りと主の創造」と題された安藤先生の講演の音源が張り付けてあります。
 
 それに加えて、講演のレジメがPDF見られるようになっています。
 
 上記の講演の中で安藤先生は、こうおっしゃっています。

自然法則を主が定められました。法則が(初めに)あって、主が法則に従われたのではないんです!」(2150~)

 科学と信仰の関係を考える上で、この原則に立つことは重要だと思います。
 
 この他にも、以下のように様々な音源や動画がありますので、直接ご覧いただければと思います。
 
 いのち
 
 進化論一考
 
 創世記
 
 キリスト信仰と科学
 
「創造と福音」シリーズ
 
 
動画
 
 いのち
 
 天地万物の創造
 
 ノアの大洪水
 
 進化論一考
 
 キリスト信仰と科学
 
 
 
 
中高生向け
 
その他
 
 
その他の福音主義的創造科学サイト
 
 
 一例:NL34「場違いな化石」http://genesisjapan.com/NL31-40/NL34/news34.htm
 
 

 米国の福音主義創造科学ミニストリーAnswers In Genesisの日本語版です。  
 
 トップページには次のように書かれています。
 
クリスチャンが自分の信仰を弁明できるように、また、イエス・キリストの福音を効果的に宣べ伝えることができるように、特に聖書の創世記の書に対して投げかけられる疑問・質問に対して答えを提供することに焦点を当てています。
 
 
 つづく

 
今回のご質問聖化によって行い、思いが清くなるのにどれくらいの時間がかかりますか?それは洗礼を受けてなくても起こりますか?
 
 
 まず、前半の質問に対する答えは、「人それぞれです」と言うしかありません。
 
 ある人は救われた時に劇的な聖めを体験しますし、他の人は少しずつ変えられていきます。
 
 次に、洗礼を受けてなくても聖化が起こるかというご質問ですが、
 
 真に救われているにもかかわらず、長期的に洗礼を受けていないなら、それ自体にかなり問題があると思います。
 
 それは、かなりの不信仰か不従順ではないでしょうか。
 
 聖化うんぬん言う前に、洗礼を受けたほうがいいと思います。
 
 ある人は、洗礼をイエスさまとの結婚式に例えます。
 
 つまり、生涯を共にする決意の表明であり、愛の証だということです。
 
 愛がないのに聖化うんぬん言う人は、キリスト教を単なる宗教としてしか考えていないのではないでしょうか。
 
 
最後のご質問聖書を原典から読みたいのですが、おすすめの参考書などを教えてください。ヘブライ語、ギリシャ語、アラム語の知識はゼロです。
 
 
ギリシャ語の学びについて
 
 日本語で行くならコチラYouTube動画)はいかかでしょうか。
 

 講師:ランドル・ショート(日本語ペラペラです)
    東京基督神学校、ハーバード大学神学大学院神学博士(Th.D.,旧約学)
 
 テキスト:エレメンツ ジェレミー・ダフ著 浅野淳博訳
 
 
 英語で行くなら:ビル・マウンスの無料YOUTUBE動画
      
 以下の動画は、コイネーギリシャ語のアルファベット

 

 テキスト:ビル・マウンスのBasics of Biblical Greek
     
 深めたい人向け:ダニエル・ウォレスのThe Basics of New Testament Syntax
 
 
*一応、日本語の「新約聖書ギリシア語入門」大貫隆著も持ってはいるのですが、著者の信仰がリベラルなので途中で使わなくなりました。
 
 とても他人にお勧めできる代物ではありません。
 
 
ヘブル語の学びについて
 
 一応、神学校で学んだのですが、文法がややこしすぎて相手にできませんでした(>_<)
 
 でも、英語がわかる人は、バイブル・ハブのオンライン・インターリニア聖書が原典理解の大きな助けになると思います。

 こちらは日本語のオンライン逐語訳
 
 例えば、創世記1章はこんな感じhttp://wordbyword.holy.jp/li-genesis01.html#SubAdrR22C1
 

 以上ですが、意味不明なところがあれば遠慮なくお知らせください。

 おわり


 
 2番目の質問に対する答えの中心は、神や主イエスを体験的に知ることにありました。
 
 救われるということは、神と主イエスを体験的に知ることに他ならないからです。
 
 3つ目の質問の答えも、これに関連します。

 
3つ目のご質問自分が信じているか信じた気になってるだけか知る事は出来ますか?
 
 
 これは、とても良い質問だと思います。
 
 この質問を言い換えると、こういう事だと思います。
 
 自分は本当に救われているのだろうか、それとも、救われていると思い込んでいるだけなのだろうか?
 
 それを知るにはどうすればよいのだろうか?… 

             * * *
 
 前回も述べたとおり、キリストを真に信じたのであれば、それは福音を知的に承認したという精神的行為を超越した出来事です。
 
 その人はすべての罪が赦され、あらゆる穢れから清められ、永遠のいのちが与えられ、天の国籍を手に入れました。
 
 聖霊によって神やキリストと一体になり、神の子どもとなり、神やキリストと個人的な関係を構築したのです。

 キリストの体である教会の一員にもなりました。

 将来的には、復活による栄光の体を受けることになります。
 
 これらを示す聖句や聖書箇所は膨大にありますが、この記事で取り上げたいのは次の2箇所です。
 
 
ヨハネ10:14
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています
 
ヨハネ10:27  
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
 
 
 さて、14節の「わたしのものは、わたしを知っています」の「知っています」も、前回取り上げたギノスコー(体験的に知る)です。
 
 ですから、わたしのものは、わたしを知っています」と主が言われたとき、それは真のクリスチャンは「わたし(=キリスト)を体験的に知っています」と言われたのです。
 
 同様に、14節のわたしはわたしのものを知っています」と27節の「わたしは彼らを知っています」もギノスコーです。
 
 つまり、羊飼いのイエスさまと羊である私たちクリスチャンは、互いに互いを体験的に知り合っているということです。
 
 単なる知的認識だけではなく、それを超えた関係的(relationalな知識によって互いを認識しているのです。
 
 この体験的認識には、霊的な交わり(交流)が含まれます。
 
 具体的には、日々の祈りやそれに対する答え、聖書や聖霊を通しての語り掛けなどです。
 
 こういった霊的交流がキリストや神と信者の間に頻繁にあるなら、それがその人にとって火を見るより明らかな救いの証明になるはずです。
 
 なぜなら、繰り返し述べてきたとおり、永遠のいのちとは神やキリストを体験的に知ることだからです。
 
 逆に、頭で神やキリストを知っているだけなら、それは好ましい状態とは言えません(救われていない不信者でも牧師や神学者になることは可能です)。
 
 なぜなら、知的な認識だけでは聖書的ではないからです。
 
 聖書的な認識の在り方には、体験的なものが含まれていなければなりません。
 
 キリスト教は宗教ではなく、神(キリスト)との関係だとよく言われますが、その理由は関係的(relational)で体験的な側面が強いからだと思います。 
 
 よって、質問に対する答えとしては、神との交流や霊的な体験があるか否かでご自分が真に信じているか否かを判断できるということだと思います。
 
 つづく

↑このページのトップヘ