ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

2019年08月

 

 使徒9:31をギリシャ語本文で見みますと、邦語訳の意味と若干違っていることに気づきます。

 

 ギリシャ語本文は教会が増殖したと述べていますが、邦語訳は「信者の数が増えた」と訳しています。 

 

新改訳  

こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。

 

新共同訳

こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

 

 

 ご覧のとおり、邦語訳では前半の主語は「教会」ですが、後半は「信者の数」が主語になっています。

 

 それでは、ギリシャ語本文ではどう書かれているのでしょうか? 

 

μν ον κκλησα καθ’ λης τς ουδαας καΓαλιλαας καΣαμαρεας εχεν ερνην οκοδομουμνη καπορευομνη τφβτοκυρου κατπαρακλσει τοῦ ἁγου πνεματος πληθνετο.

                                           出典:NA28

  

 前半の主語はκκλησα(エクレシア/教会)の単数形です。

 

 問題となる後半の主語ですが、πληθνετο(増えた、増殖した)という動詞の語形から、主語は「それ」(代名詞の単数形)であることがわかります。

 

 つまり、ギリシャ語本文では、後半の主語も「エクレシア/教会」(単数形)なのです。

 

 岩波翻訳委員会訳や英語訳聖書は正確に訳しています。 

 

岩波翻訳委員会訳

こうして教会は、エルサレム、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方にわたって平和を保ち、主〔へ〕の恐れと聖霊の慰めにあって、その基礎が固まり、発展し、そのを増していった。

 

*「その」は文頭の「教会」を指しています。

  

ESV

So the church throughout all Judea and Galilee and Samaria had peace and was being built up. And walking in the fear of the Lord and in the comfort of the Holy Spirit, it multiplied.

 

*「it」は文頭の「the church」を指しています。

 

 

教会増殖

 

 ほとんどの邦語訳の場合、後半は「信者の数が増えた」と訳されています。

 

 しかし、実際にルカが伝えているのは、教会の数が増えたということです。

 

 もちろん、信者の数も増えたでしょうが、教会の所在地が地理的に拡大したですから、地域教会そのものの数が増えていなければなりません。

 

 このように、「信者の数が増えた」という訳語は、文法的にも文脈的にも適切ではありません。

 

 原文どおり、「教会が増えていった」と訳すべきです。

 

 

教会増殖の要因

 

 上記の結論を踏まえ、使徒9:31からわかることがあります。

 

 教会が増えるためには、次の要因が必要だということです。

 

エイレネー(平和、静けさ、安息)があること
オイコドメオー(家や人を建て上げる)⇒信者の建て上げ

③継続的な主へのフォボス(恐れ、畏敬の念)があること

④聖霊によるパラクレシス(慰め、励まし)があること 

 おわり

 

 ヨハネの福音書や手紙の中に、イエス・キリストの「御名を信じる」というフレーズが出てきます。

 

 これは、イエス・キリストご自身を信じることと違うのでしょうか?

 

 違うとすれば、どう違うのでしょうか。


 

不十分な信仰?

 

ヨハネ2:23~25・新改訳

イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた24しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。

 

 この箇所を見ますと、23節に主イエスの「御名を信じた」人たちが登場します。

 

 しかし主イエスはご自身を彼らにお任せになりませんでした(24節)。

 

 理由は、人間の内側の状況をご存知だったからです(25節)。

 

 かのオリゲネスは、「御名を信じる」人は、主ご自身を信じる人に劣ると説きました

 

*参考サイト:The Difference Between Believing in the Name of Jesus and Believing in Jesus Himself

 
  

神の子どもとなる条件

 

ヨハネ1:1213

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 

 

 しかし、この箇所を見ていきますと、主イエスの「名を信じた人々」の信仰が本物であることがわかります。

 

その名を信じた人々」とは「この方を受け入れた人々」であり、「神の子ども」だからです(12節)

 

 13節を見ますと、この人たちが「神によって生まれた」ことがわかります。

 つまり、御名を信じた人たちの信仰は人間的なものではなく、見せ掛けでもなく、救いに至る真の信仰なのです。

 

 このように、ヨハネにおける「御名を信じる」というフレーズは、真の救いに至る信仰を表現しています。

 

 

ヨハネから見たナザレのイエス

 

 ヨハネ文書には、「御名を信じる」というフレーズが全部で5カ所あります。

 

ヨハネ3:18

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 

1ヨハネ5:13

私が神の御子名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

 

 上記の2カ所からは、ヨハネが「(神の)御子」(直訳:神の息子)としてナザレのイエスを見ていたことがわかります。

 

 ヨハネ3:18でヨハネは、イエスの「御名を信じる」者は、神の裁きを免れると教えています。

 

 また、1ヨハネ5:13からは、「神の御子の名を信じている」者は永遠のいのちを持つことがわかります。


 これらの箇所からも、「御名を信じる」信仰が本物であることが裏付けられます。

 

 

1ヨハネ3:23

神の命令とは、私たちが御子イエス・キリスト御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

 

 さらに、この箇所を調べてみますと、ヨハネにとってナザレのイエスは①「(神の)御子」であり、②「キリスト」(油注がれた者=救い主)であることがわかります。

 

 これは、次の箇所に書かれていることと一致します。

 

ヨハネ20:31

しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。


 

 この箇所によると、ヨハネの福音書が書かれた目的は2つあります。

 

 一つめは、イエスが「神の子」(神の息子)であると共に「キリスト」であるという2点を読者が信じることです(31前半)。

 

 もう一つの目的は、「イエスの御名(を信じること)によっていのちを得る」ことです(31節後半)。

 

●結論

 これら5カ所からわかることを総括しますと、「御名を信じる」とは次のような結論になります。

 

 御名を信じる=①イエスが「神の息子」であることを信じる 

        ②イエスが「キリスト」であることを信じる

 

 

あとがき

 

 上記からわかりますように、御名を信じた人々は本物のクリスチャンです。

 

 それでも主イエスは、彼らにご自身を任せませんでした。

 

 つまり、私たち人間は、それほど罪深いということです。

 

 おわり 

 

 本日、とても嬉しいお知らせをいただきました。

 

 カルト集団RAPTの脱会者で当ブログの読者の方が来月、紹介先の教会で受洗することになりました。

 

 ハレルヤ! 主よ、感謝します!

 

 ごく小さなお手伝いでしたが、当ブログが関われたことを心から主に感謝します。

 

 その方の信仰の歩みの上に、主の豊かな祝福がありますように!

 

 また、RAPTに騙されている方々が一人でも多く解放され、真の救いにあずかることが出来ますように。

 

 おわり

 

 クリスチャントゥデイにヒルソングのワーシップリーダーの記事が掲載されました。

 

ヒルソングのワーシップリーダーがSNSに「信仰を失いつつある」と投稿 初期メンバーで作詞曲多数

 

 マーティー・サンプソン氏も前回取り上げたハリス氏のように、信仰を失いつつあるとのこと。

 

 サンプソン氏は、インスタグラムの投稿の中で次のように述べています。

 

「本当に自分の信仰を失いつつある。それで自分が困るようなことはない。…この時点においてキリスト教は私にとって単なる他の宗教のようだ」

 

 サンプソン氏はもとより、ハリス氏の声明にも「イエス・キリスト」や「父なる神」「聖霊」といった言葉は見られません。

 

 唯一見られるのは「神」という言葉ですが、神と自分の個人的な関係には触れていません。

 

 この両名の場合、主なる神との人格的な絆に言及していないという共通点があります。

 

 次の質問をサンプソン氏に尋ねたら、彼はどう答えるのでしょうか?

 

「信仰を失いつつあるとのことですが、イエスさまや父なる神、聖霊との個人的な関係はどうなのですか?」

 

「信仰を失っても困ることはないとのことですが、イエスさまや父なる神との関係を失っても平気なのですか?」

 

「あなたにとって、主なる神の存在はリアルでもなければ、大切でもないのでしょうか?」

 

「キリスト教が一つの宗教にすぎないとのことですが、あなたにとって主なる神との関係は何だったのでしょうか?」

 

 

私の感想

 

 聖書には次のように書かれています。

 

1ヨハネ 1:3後半

私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 

 

 つまり、クリスチャンであることとは、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」を持つことなのです。

 
 それを考慮すると、
サンプソン氏の場合、主なる神との関係がもともと構築されていなかった可能性が否定できません。

 

 この方にとって、はじめからキリスト教は単なる宗教的な原則でしかなかったことが疑われます。

 

 自分の心の中から宗教的な原則を取り除くのは比較的容易だと思います。

 

 しかし、イエスさまや父なる神、聖霊との個人的な関係を取り除くことは容易ではありません。

 

 主の存在や主との関係、また主にある数々の体験は余りにもリアルで、否定のしようがないものだからからです。

  

 サンプソン氏にとって、神との関係は何だったのでしょうか?

 

 皆さんは、どう思われますか。

 

 おわり

 

 みなさんは、クリスチャンが救いを失うことがあり得ると思いますか?

 

 クリスチャントゥデイに、米国人の元牧師が「棄教」したという記事が載りました

 

 その方は、キリスト教書籍のベストセラー作家でもあるそうです。

 

 このような場合、教理的に2つの可能性が考えられると思います。

 

 一つは、以下の引用のように、ジョシュアさんがはじめから救われていなかったとする考え方です。

 

イエス様は君のような人について語っておられる。最後の審判で、イエス様はこのように言われる。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」(新共同訳、マタイ7:23)

 

君も分かっていると思うが、これはこの人たちが実際は主を知らなかったことを意味している。君はキリスト教文化に浸り、牧師の仕事をしていたにもかかわらず、実のところ、まったくイエス様を知らなかったのだ。

                        出典:ジョシュア・ハリスへの手紙

 

 

 一方、もう一つは、ジョシュアさん自身が考えておられるように、以前は救われていたが、「もはやクリスチャンではない」とする考え方です(一つ目の記事参照)。

 

 記事中でも「堕落」という言葉がへブル書から引用されているとおり、後者の根拠となる聖書箇所はヘブル6:4~6だと思います。

 

 

へブル6:46

一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、5 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、6 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

 

 

 この箇所は、一度救われた人が救いを失い得ると解釈することが可能です。

 

 この箇所を詳細に説明すると長くなりますので、「聖霊にあずかる者」と「堕落する」という部分に絞って考えてみたいと思います。

 

聖霊を共有する者

 

「聖霊にあずかる者」という訳語には、メトコスというギリシャ語が使われています。

 

 織田昭著「新約聖書ギリシア語小辞典」によると、メトコスの意味は「共に与る者、関与者、パートナー、仲間」です(P371

 

 みなさんはどうかわかりませんが、私にとって「~にあずかる者」という日本語は耳慣れない表現で、具体的な意味がわかりにくい面があります。

 

 そこで、メトコスの動詞である「メテコー」をストロングス・コンコーダンスで調べてみました。

 

 すると「have a share ofshare/~を共有する」という定義が書かれていました。

 

 つまり、「聖霊にあずかる」とは、聖霊を共有することなのです。

 

 さて、聖書によれば、真のクリスチャンには聖霊が内住しています(ローマ8:9参照)。

 

 

ローマ8:9

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません

 

 

 上記のとおり、聖霊の内住はその人が救われていることの証明です。

 

 この聖霊の内住は、聖霊が無数のクリスチャンに分割されて、小さな聖霊が一人ひとりのクリスチャンに所有されるということではありません。

 

 聖霊はあくまでもお一人ですから、無数のクリスチャンがお一人の聖霊を共有しているのです。

 

 この聖霊の共有が、へブル書で言うところの「聖霊にあずかる」ことなのです。

 

 つまり、「聖霊にあずかる」ということは、その人に聖霊が内住していることであり、ゆえにその人が「キリストのもの」になっており、救われていることを意味します。

 

 ですから、へブル6:4の「聖霊にあずかる者」という表現は、救われているクリスチャンを描写したものだということです。

 

 

堕落する=棄教する

 

 それでは一度救われた上で、「しかも堕落してしまう」(6節)というのは、どういうことなのでしょうか?

 

「堕落する」と訳されているのは、パラピプトーというギリシャ語です。

 

「新約聖書ギリシア語小辞典」によると、パラピプトーの意味は「側へ落ちてしまう、後へ落ちる、(もとの不信仰や不敬虔へ)堕落する、棄教する」となっています(P440)。

 

 つまりへブル書の著者は、救われた人が棄教してしまうことについて述べているわけです。

 

 聖書は、そういうことがあることを明確に認めています。

 

 そしてへブル書の著者は、一度救われたにもかかわらず、棄教してしまうことはキリストに「恥辱を与える」ことだと述べています。

 

 これと同じようなことが、へブル10章にも書かれています。

 

へブル10:2627

もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。27 ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。

 

 

 こちらの場合、「堕落してしまう」に相当する部分が「ことさらに罪を犯し続ける」と書かれています。

 

「ことさらに」に相当するギリシャ語ヘコウシオスは、「自発的に、自ら進んで、喜んで;故意に、わざわざ」という意味です(同P172)。

 

 ですから、この箇所の意味は、たとい一度は救われたとしても、故意に罪を犯し続けるなら、「焼き尽くす激しい火」によって裁かれてしまう、つまり、天国には入れないということです。

 

 さて、26節と27節は文脈上、29節と呼応しています。

 

へブル10:29

まして、神の御子を踏みつけ、自分をきよめた契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

 

 

「自分をきよめた契約の血」という部分は、アオリスト形で書かれています。

 

 つまり、へブル書の著者が述べているのは、過去のある時点において十字架の血によってきよめられた信者についてであるとわかります。

 

 このように、救われた信者でも、ことさらに罪を犯し続けるなら、火による裁きに遭うことになるのです。

 

 つまり、こちらの箇所からも救いは失い得ることを伺い知ることができます。

 

 

●まとめ

 

 マイケル・ファリス氏が述べておられるとおり、ジョシュア・ハリス氏がはじめから救われていなかった可能性は否定できません。

 

 けれども、もう一つの見方として、救われていた期間があったにもかかわらず、信仰を捨てると共に、救いも失ったと考えることができます。

 

 私は個人的にこの人物のことを知りませんので、どちらが正しいと決めることはできません。

 

 しかし、こうしたケースには2つの可能性があることを知っておくべきだと思います。

 

 おわり

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