ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

カテゴリ: 選ばれた人々


 
 今回のご質問は以下のとおりです。
 
 救いに選ばれていない者が、私が貴方にした質問のような悩みをすることもあるのでしょうか?
 
 まったくないとは言えません。
 
 しかし、自分が救いに選ばれているか否かと悩む未信者は少ないと思います。
 
 特に日本では。
 
 なぜかと言いますと、信じることが救いの条件であることを示す聖句が聖書には数多く書かれているからです。
 
 
ヨハネ3:15
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
 
ヨハネ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 
使徒16:31
ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
 
ローマ10:9
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
 
 
 これらの聖句は、人の意思で信じることが救いの条件であることを示しています。
 
 意思を働かせるのは自分自身ですから、信じるか否かを決めるのも自分自身です。
 
 これらの聖句からは、選ばれた者が救われるという概念は見出せません。
 
 しかし、まったくの未信者ではなく、求道者のような方が教会などで選びによる救いの知識を得て、悩むことはあるかもしれません。
 
 改革派や長老派の教会では選びによる救いの教理が強調される可能性がありますから、求道者の方はそういった話を聞くことになるのではないかと思います。

 中には、自分は神に選ばれているだろうかと悩む人がいるかもしれません。
 
 もし読者の方の中で、そういう実話をご存知の方がおられましたらコメントしていただけると感謝です。
 

最後のご質問無条件的選びというのは神がサイコロを振って選民を決めるのに近いものなのでしょうか?
 
 
 それは違うと思います。
 
 以下に理由を示します。
 

エペソ1:5・新改訳 
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
 
エペソ1:4・新共同訳 
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
 
 
 上記で「愛をもって/愛して」と訳されているのは、「エン アガペー」というフレーズです。
 
  原文ではこのフレーズが4節と5節の境目にあるため、新改訳のように5節の一部として訳す場合もあれば、新共同訳のように4節の一部として訳すこともあります。
 
 いずれにしても、神が私たちを選んだ動機が愛であることに変わりはありません。
 
 私たちが選ばれたことはサイコロのように偶然の結果ではなく、愛による選びです。
 
 ただし、私たちが神に愛され、選ばれた理由(要因)は不明です。
 
 言い換えると、私たちの側に愛される理由があった訳ではないということです。
 
                * * *
 
 サイコロを振って決めることは偶然だと言いましたが、箴言によれば偶然ではありません。
 
 
箴言16:33
くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。
 
箴言16:33・口語訳 
人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。
 
 
「くじ」と訳されたヘブル語ゴラルは、投げるくじです。
 
 ですから、サイコロの使い方と似ていると思います。
 
 しかし聖書は、ゴラルの結果は神による決定であると教えています。
 
 つまり、神の前に偶然はないということでしょう。
 
 だとすれば、私たちが救いに選ばれたことも偶然ではないのです。
 
 神の意思のうちには、何らかの必然があったのでしょう。
 
 しかしそれは、私たちには絶対にわかりません。
 
 ただひたすら、恵みによって選ばれたとしか言いようがありません。

 使徒パウロも、テモテにそのように教えました。
 

2テモテ1:9
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。



 おわり

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」  ヨハネ1:18

最近、自教会で「ヨハネの福音書」を学んでいます。

単発になるかもしれませんが、その準備の中で学んだことを分かち合おうと思います。

●「見た」

ヨハネ1:18に使われている「見る」という動詞はhorao/ホラオーというギリシャ語で、次の3つの意味を持っています。

1 目で見る/to see with the eyes

2 心で見る、すなわち知覚する、知る/ to see with the mind, to perceive, to know
 
3 体験によって理解する/to see by experience

●「ふところにおられる」

この表現はイディオム(慣用句)で、親しい交わりや関係にあることを意味します。

例えばヨハネ13:23の「イエスの右側で」は、
 
原典では「イエスのふところで」と書かれており、イエスとヨハネが親しい関係にあったことを示しています。

ルカ16:22の「アブラハムのふところに」にも、同じイディオムが使われています。

「アブラハムのふところ」という霊的な場所が存在するという意味ではなく、
 
ラザロとアブラハムが天国で親しい人間関係にあることを示しています。

つまり18節は、イエスが永遠の昔から三位一体の関係の中で、
 
父なる神と親しい交わりを持っていることを指しているのです。

このことからも、「見た」という言葉は、単にイエスが父なる神を目視したという薄っぺらな意味ではなく、

三位一体の関係を土台として、知的にも体験的にも、
 
父なる神がどのようなお方であるかを知っていたという意味を表しています。

●「ひとり子」

この言葉にも重要な意味があります。

「ひとり子」はモノゲネス/monogenesという形容詞の訳です。

monoは「単一の」という意味で、 ゲネスはギノマイ(存在するようになる)が変化したものです。

ですから 「ひとり子」という表現は、「唯一の存在」という意味で理解すべきです。
 
英語の聖書では、the only one(NETバイブル)、 God the One and Only(NIV)、
 
the unique One(新字義訳)などと訳されています。

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注:ヨハネの福音書の写本の中には、「子」(息子)という名詞が書かれているものと、書かれていないものがあります。

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要するに、イエスは人類に神を説き明かしたただ一人の存在、唯一の仲介者であるということです。

イエス以外には、神と人をつなげる存在はないのです。

●更に掘り下げると

通常、聖書注解はここまでしか説明しませんが、掘り下げて考えていくと面白い事実がわかってきます。

1:18は、神を知っているのはイエスだけであり、神と人を仲介するのもイエスだけだと述べています。

ですから人間は、イエスによらなければ神を知ることができず、救いを得ることができません(ヨハネ14:6)。

ところがヨハネ6:44でイエスご自身が、
 
「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」
 
と述べておられます。

ということは、神は基本的にまったくご自分を人間から隠しておられるということです(マタイ11:27)。

マタイ11:27後半で、
 
「子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません」と主イエスが述べているとおり、

神側からのアプローチがない限り、人間は仲介者であるイエスを知ることも、また神を知ることもできないのです。

神を知るイニシャチブ(主導権)は、人にはありません。

人が望んだからイエスや神を知ることができるのではなく、
 
神が恵みによって私たちにイエスを信じさせてくださるからこそ、私たちは神を知ることができるということです。

基本的に人間側には、救いに関して打つ手がないのです。

神側の一方的なアプローチを受ける以外に、救いを得ることはできないのです。

もしイエスを信じたいと願う人がいるとするなら、その願い自体が神から与えられたものだということです。

これを読んでいるあなたがクリスチャンであるとするなら、
 
あなたは自分でイエスを信じたのではなく、神の恵みによるアプローチによって救われたのです。

このことは、ヨハネ1:13と一致します。

「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

●神の選び

だとすると、この世界に救われる人と救われない人がいるという現実、

イエスを信じる人と信じない人がいるという事実は何を意味するのでしょうか。

人が自由意志によって信じるか拒否するかを決めているからだという説明は、もはや通用しません。

聖書は、そのようには述べていないのです。

人間は全員、救いに関してお手上げの状態なのです。

この無力さにおいては、すべての人が例外なく同等です。

上記の疑問には、神が救う人と救わない人を決めていると答えるしかありません。

神による一方的な選び以外に、救いを受けられるか否かの違いをもたらす要因が存在しないからです。

この答えは、
 
使徒13:48、エペソ1:4~6、エペソ2:8、ローマ9:16、Ⅱテモテ1:9、黙示録21:27などと一致します。

また、マタイ7:13~14のイエスの言葉とも整合します。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
 
そして、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」 

誰もが平等に、救われる可能性を持っているわけではないということです。

地上に生きる70億人全員に救いを得られる可能性があるという考えは、神の側にはないということです。

●恵み

あなたがもしクリスチャンであるなら、神があなたを選んでくださったがゆえに、あなたは救われたのです。

私たちよりも優れた人々が数え切れないほどいるにもかかわらず、
 
神は恵みによってあなたや私を選び、ご自分を現してくださったのです。

なんという恵みでしょうか!

「私たちは・・・恵みの上にさらに恵みを受けた」と書かれているとおりです(ヨハネ1:16)。

ありがたいですね。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」ヨハネ1:9

みなさん、お久しぶりですm(_  _)m
 
恐らく単発になりますが、記事を書きましたので掲載します。

●ジョン・ウエスレーの神学

を信奉する方々は、上記の聖句を次のように解釈しているそうです。

「イエス・キリストの来臨は、人類に光をもたらした。

その結果、すべての人は、福音を受け入れるか拒絶するかを選択することができるようになった。

この『光』とは、アダムの罪によって人の心を支配するようになった『やみ』を打ち破る恵み(先行的恩寵)である。

この『光』は救いを保証するものではないが、救いを選び取ることができる可能性をすべての人にもたらした。」

●現代の福音宣教

は、実にウエスレーと同じ聖書理解の上に成り立っていると思います。

こんにちの多くの牧師、伝道者、宣教師たちは、ウエスレーと同じ考え方をしているはずです。

ゆえに彼らの教えを受けてきた多くのクリスチャンたちも、おのずと同じ聖書理解に立っていることでしょう。

キャンパス・クルセード出身の私自身も、長年にわたりこのように信じてきました。

●しかし

聖書というものは正直言って正しい解釈をするがなかなか難しいもので、現代人の私たちにはそう容易く理解できる代物ではないようです。

自分が信じてきた聖書理解が崩されるとき、一旦、自分の思考の中に動揺や混乱が生じます。

しかしそれを通過して初めて、本来の聖書理解が得られます。

たとえ一時の間、混乱や動揺を感じようとも、間違った土台はなくなったほうが良いのです。

●では

ヨハネ1:9をどのように理解すべきなのでしょうか。

以前から述べていますが、すべての聖句は文脈の中で理解しなければなりません。

これは聖書が、教科書のように体系的にまとめられた文章ではなく、手紙や物語形式で書かれた文書だからです。

ウエスレーの解釈では、9節の「照らす」という言葉は、人間の内面に恵みをもたらすという意味で捉えられています。

しかし10節以降を見ていくと、「照らす」という言葉は、人間の霊的実情を暴露し、

イエスを信じる人と信じない人の相違を明確にするという意味であることがわかります。

個別に見てみますと、10節、「世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」

11節、「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」

12節、「・・・受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、・・・」

13節、「この人々は、・・・人の意欲によってでもなく・・・ただ、神によって生まれたのである。」

このように10節以降では、イエスを信じる者と信じない者のコントラストが述べられています。

この人間にコントラストをもたらすことが「すべての人を照らす」ことであり、「まことの光」の働きなのです。

同じ結論が、ヨハネ3:19~21からも出てきます。
 
19節、「人々は光よりもやみを愛した。」
 
20節、「悪いことをする者は光を憎み、・・・光のほうに来ない。」
 
21節、「真理を行う者は、光のほうに来る。」
 
9節の「照らす」という言葉と、19節の「さばき」という言葉が同じ役割を果たしていることがわかります。

ヨハネは、イエスを信じる人と信じない人が存在することを前提にしており、
 
イエスの来臨には、その2者を分別する働きがあることを教えています。
 
1:9に戻りますと、
 
「すべての人を照らす」という霊的行為は、イエスを信じる人と信じない人を差別化するという意味であって、

ウエスレーが考えたような、先行的恩寵をもたらすことではないことがわかります。

自然界の光が物質を識別するのに役立つのと同じように、

イエスの来臨は、羊と山羊を分別し(ヨハネ10:26~28)、
 
神の子どもと悪魔の子どもを分別するのです(ヨハネ8:44)。

●まとめ

私たちは聖書理解を見直すと共に、こんにちの福音宣教のあり方を見直す必要があります。

もし私たちがウエスレーと同じ考えを持っているならば、それを修正する必要があります。

万民がイエスを信じる可能性を持っている、という考えは誤りです。

伝道集会で、単に多くの決心者が出せればいいという考えは聖書的ではありません。

Ⅱテモテ2:10でパウロが述べているように、
 
神に選ばれた人々が救いを受けられるために、私たちは福音を伝えていく必要があるのです。

「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」使徒17:30

この聖句は、人類(アダムとその子孫)に対する神の契約と関係があります。ホセア6:7に次のように書かれています。

「彼らはアダムのように契約を破り、その時わたしを裏切った。」

ポイントは、創世記2:16~17の言葉は、神の契約だったということです。その箇所を振り返りましょう。

「神である主は人に命じておおせられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」

これは条件付の契約です。「もしあなたが、善悪の知識の木の実さえ食べなければ、永遠に死ぬことはない(=永遠に生きることができる)。」つまり、一つの禁止令さえ守れば、永遠のいのちに至ることができるという契約です。

このように人間は、神に創造された時から、神の命令を守るように定められていました。それはローマ9:20からもわかります。被造物は、単に被造物であるという理由だけで、創造者に従わなければならない定めの下に置かれているのです。

アダムも上記のような条件の命令の下に置かれました。そのような条件付の定めの下で、神は永遠のいのちをアダムとその子孫に提示したのです。しかし知ってのとおりアダムとその子孫はこの神のテストに落第し、契約を破りました。このようにしてアダムと私たち人類は、神に対して罪を犯したのです。

契約を破るなら(罪を犯すなら)、罰が伴います。それはこんにちのこの世の契約と同様です。たとえば、私がどうしても買いたい物があって、銀行から借金をしたとします。しかしお金をたくさん借りすぎて、私の返済能力を超えていてしまいました。よって、私は返済ができません。

では銀行あるいは裁判所は、「はい、わかりました。返さなくていいですよ」と言うでしょうか。とんでもありません。銀行と私の間には契約があり、契約を破れば法にのっとって私は罰を受けなければなりません。返済する能力がたとえなくても、罰は受けなければならないのです。

これと同じことが、神と人間の間にもあります。人間は神の命令に従う能力がありません。アダムが罪を犯したためです。しかし能力がないからといって、神の契約を破ってしまった責任がなくなったわけではないのです。たとえ神の命令に従う能力がなくても(悔い改める能力も含む)、依然として人類には神の命令に従う義務があり、契約を破った罰を受けれなければなりません。

すべての人間は神に罪を犯したのですから、すべての人間が神に悔い改めなければならないのです。この責任は、選ばれている人々かどうかとは関係ありません。ただ一点、アダムの子孫かどうか、すなわち神の被造物かどうかということと関係しているのです。

ですから冒頭の御言葉は、あらゆる人間に対して、例外なく当てはまるものです。イエス・キリスト以外のすべての人間は、神に対して悔い改めなければなりません。もちろん恵みによって救われるから悔い改めもできるのるのですが、たとえ救いに定めれていない人、つまり悔い改めることなどできない人であっても、アダムの子孫であるなら、また神の被造物であるなら、ただそれだけの理由で悔い改めの義務があるのです。

●無知な時代との違い
しかし、疑問が一つ残ります。無知の時代と今の時代は違うとパウロは言っています。この時代の違いとは、どういうことなのでしょうか。その答えは、ローマ3:25にあると思います。

「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。」

またヨハネ14:6にこうあります。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

イエス・キリストが神を知る唯一の方法です。キリスト以外に、神を知る方法は人類に与えられていません。福音を聞く機会があるなしにかかわらず、神がキリスト・イエスを神への唯一の道として公にお示しになったことに変わりはありません。

イエスの十字架を境に、神の悔い改に対する秩序が変わったと考えられます。イエスの公生涯の最初の一言は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」でした(マルコ1:15)。この言葉は、この秩序の更新と深く関連していると思います。

以上の理由から、冒頭の御言葉は、文字通りにすべての人が悔い改めを命じられていると解釈すべできです。ただし命じれてはいても、そうする能力は、恵みによって救いに定めれている人しか与えられません。そこが神の主権の厳しいところですが、ここでもまた、選ばれた私たちクリスチャンは、価しない恵みのゆえに神をほめたたえるわけで、その神への賞賛こそが、全人類の中から一部の人々を選んだ神の理由なのですから(エペソ1:6)、私たちはそれを受け入れなければなりません。

「神は、すべての人々が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」Ⅰテモテ2:4

過去の記事でも述べましたが、21世紀を生きる私たちは、聖句の字面だけを見て表面的な解釈をしないように肝に銘じなければなりません。聖書を解釈するときは、聖書全体を含めた文脈の中で解釈しなければなりません。冒頭に上げたⅠテモテ2章4節も、しばしば解釈において間違えられている箇所です。この聖句を正しく理解するには、2章のはじめから続いている文脈を見なければなりません。

2章1節
「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」

新改訳聖書では、「すべての人のために」と「王」の間に「また」という言葉を入れていますが、この「また」という言葉は、原典には存在しません。そのため口語訳では、このような言葉は訳されていません(注)。しかしこの「また」という言葉が災いして、あたかも「すべての人」とそのうしろの「王とすべての高い地位にある人たち」が別の人々を指しているかのように読めてしまいます。

注:口語訳「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。 」

しかしここでパウロは、「すべての人」の言い換えとして「王とすべての高い地位にある人たち」と続けているのです。つまり、「すべての社会的階層の人」という意味です。「この世には社会的に色々な種類(階層)の人々がいる。王もいれば、その他の高い地位に就いている人々もいる。そのすべての社会的種類(階層)の人々のために祈りなさい」と教えているのです。

4節の「すべての人」も同じことです。「神は、すべての社会的階層の人々が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる」というのがこの聖句の意味です。

もしこの「すべての人」という言葉を表面的に解釈して、世界に生きているすべての人間と解釈するなら、3節の意味はこうなります。「この地球に存在している70億人全員のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。そうすることは、神に喜ばれることなのです。」

しかしヨハネ17章を見るなら、イエス・キリストですらこの世の一部の人々のためにしか祈っていません。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです」(9節)。「わたしは、ただこの人々のためにではなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」(20節)。つまり弟子たちと、彼らの伝道を通して救われた人々です。言い換えれば、イエスは「選ばれた人々」のためにしか祈らなかったのです。

もし神が文字通り「すべての人々が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる」としたら、イエスが9節のような言葉を発することはありえません。また、もし地上に生きるすべての人間のために祈ることが神に喜ばれることであるなら、イエスは必ずそのように祈ったはずです。イエスほど神に忠実なお方はいないからです。

●新約聖書中の「すべての人」
新約聖書中には、上記以外の箇所でも「すべての人」あるいは「すべての人々」と書かれている箇所がいくつもありますが、ほとんどの場合、文字通りの「すべての人」という意味ではありません。

例1)
ローマ5:18に「ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです」とあります。もしこの箇所の「すべての人」を表面的に解釈すると、「ひとり(イエス・キリスト)の義の行為によって、人類が創生されてからこんにちにまでに生まれてきたすべての人間および終末に至るまでに生まれてくるすべての人間が救われる」ことになってしまいます。この考えは「万人救済主義」と呼ばれ、イエスを信じても信じなくても、神は究極的にすべての人を救うのだという危険な教えにつながります。実際、過去においてこのような教えが広まった時代があり、教会は闘わなければなりませんでした。

例2)
Ⅰコリント15:22に「アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」とあります。この2番目の「すべての人」を表面的に解釈するなら、「キリストを信じても信じなくても、地球上に生まれるすべての人間が救われる」という意味なってしまい、例1と同じことになります。ですからこの聖句の2番目の「すべての人」は、「キリストにあるすべての人」と解釈しなければなりません。

実際、原典では「キリストによって」の「よって」という部分は、英語のinにあたるエンというギリシャ語が使われています。ですから、この箇所をギリシャ語に忠実に訳すなら「油注がれた者にあって、すべての人が生かされるからです」となります。事実、新共同訳は「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」と訳しています。つまり、新改訳聖書は、この箇所を誤訳しているということです。

例3)
使徒2:17に「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」とあります。表面的に解釈する人たちは、これを根拠にして終末のリバイバルにおいては、地球上に存在するすべての人間の上に聖霊が注がれると解釈します。しかしこのあとを見ると、「息子」「娘」「青年」「老人」「しもべ」(奴隷)「はしため」(女奴隷)が預言を語ると書かれており、社会的な階層が表現されています。

救われていない人は神にそむき、悪霊に従って生きています(エペ2:2)。また救われていない人は神の怒りを受けており(エペ2:3、ロマ1:18)、神に裁かれています(ヨハ3:18)。そのような霊的状態にある人たち全員に神の聖なる霊が注がれると解釈するのには無理があるばかりか非聖書的でもあります。ですからこの箇所の「すべての人」も「すべての種類の人」「すべての階層の人」と解釈すべきです。

このようにすべての聖句は文脈の中で解釈しなければなりませんし、聖書全体に流れている教理との関連を考慮して解釈しなければなりません。特に「すべて人」という表現には注意が必要なのです。

●テトス2:11
この節の「すべての人を救う神の恵みが現れ」というフレーズも、当然上記の原則にのっとって解釈する必要があります。もしこの箇所が「地球上に生まれてきたすべての人間を救う神の恵みが現れた」と解釈するなら、今までにキリストを拒んで死んでいった人々まで救われなければなりません。しかしそのような解釈は馬鹿げています。ですから、ローマ10:12の「すべての人」と同じように、ユダヤ人と異邦人、つまり「すべての人種」と解釈すべきでしょう。

●ヨハネ12:32
「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のとろに引き寄せます」とイエスが述べています。この節だけを見ると、イエスの十字架によってすべての人間が救われると言っているかのようです。しかし度々説明しているように、「すべての人」を今までにこの地球に生まれてきたすべての人、またこれから生まれてくるすべての人と解釈するなら、地獄に行く人はゼロになってしまいます。ですからこの箇所の「すべての人」も、別の解釈をしなければなりません。

ヒントは12:20にあります。はじめは、イエスと弟子たちの周囲にいたのはユダヤ人だけでした(9節)。しかし20節で、祭りに参加するためにベタニヤに何人かの「ギリシャ人」がやって来ました。イエスは23節で、このギリシャ人たちに向かって話し始めます。その話が32節まで続いているのです。

では、イエスはどのような意味で「すべての人を自分のところに引き寄せます」と言ったのでしょうか。それは、ユダヤ人だけでなく異邦人も救いに導くという意味です。新約聖書では、「ギリシャ人」ということによって異邦人という意味を表しています。ですから32節の「すべての人」とは、ユダヤ人+異邦人で「すべての種類の人」「すべての民族」という意味です。ちなみに、このギリシャ人=異邦人という表現方法は、パウロも何度も使っています(ロマ1:14、同2:9、同10:12、Ⅰコリ1:22~23、ガラ3:28)。。

「すべての民族」と言う解釈は、ガラテヤ3章によっても支持されます。ガラテヤ3章によれば、創世記12:3のアブラハム契約=福音であり(3:8)、ゆえにアブラハムに語られた祝福がイエスの十字架を通して異邦人に及んでいることがわかります(3:14)。創世記12:3で「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と神が言っていますが、この「すべての民族」がヨハネ12:32のイエスの言葉では、「すべての人」と言い換えられているのです。

●2種類の人間
聖書は、霊的な意味で2種類の人間がいることを教えています。創世記3:15に「おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く」とありますが、「おまえの子孫」とはサタンに属しキリストを信じることのない人々のことであり、「女の子孫」とはキリストおよびキリストに属する人々(選ばれた人々)を指しています。前者については、ヨハネ8:44でイエスがこう述べています。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。」

この他にも2種類の人間を描写している箇所はいくつもあります。マタイ25:32~34「羊と山羊」、ヨハネ10:26~27「わたしの羊」と「わたしの羊に属していない」人、Ⅰコリント1:18「滅びに至る人々」と「救いを受ける私たち」(参照:Ⅱテサ2:10の「滅びる人たち」)、マタイ25章の「愚かな娘と賢い娘」、「小羊のいのちの書に名が書いてある者」(黙示録21:27)と「小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書き記されていない者」(黙示録13:8、同17:8)などです。

●神の恵み
このように聖書は、はっきりと「神によって選ばれた人々」とそうでない人々がいることを教えています。すべての人に救われる可能性があるとは、まったく述べていません。

パウロはエペソ1:6において、一部の人々だけが神から選ばれ救いに定められている理由は、「恵み
の栄光が、ほめたたえられるため」だと教えています。

またローマ9:11~13では、神が「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」のは、その二人が「まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの確かさが、行いにはよらず、召してくださる方による」ためであるとパウロが説明しています。

私たちは、このような方法で恵みを表すと定めている神をありのままで受け入れ、信じ、愛する必要があります。神を人間中心主義の枠にはめ込むべきではありません。神の恵みをぼやかしてはならないのです。

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