ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

カテゴリ: 契約

前回に続き、クリスチャンが十戒を守る必要がないことを、聖書から更に説明したいと思います。

前回も述べましたが、十戒を守る必要がないという意味は、クリスチャンはどんな罪を犯しても良いという意味ではありません。

十戒には有効期限があり、こんにちそれがすでに切れているため、神は十戒を守るようクリスチャンに語っていないという意味です。

石の板に刻まれた文字を守るのではなく、人の心に与えられた御霊に従うようにクリスチャンは召されています(Ⅱコリント3章)。

●安息日
さて、十戒の第4戒に「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」とあります(出エジプト記20:8、申命記5:12)。

「安息日」とは、金曜日の日没から土曜日の日没までの一日のことです。

もしクリスチャンが十戒を守るよう神から命じられているとしたら、セブンスデイ・アドベンティストのように、土曜日に礼拝を行わなければなりません。

彼らは安息日が土曜日であり、十戒に安息日を守るよう書かれているので、それに従う目的で土曜日に礼拝を行っています。

けれども彼ら以外のクリスチャンは、そのようにしません。

教会でも、そうするように教えません。

なぜでしょうか。

ある方々は、イエスが日曜日に復活したから日曜日が土曜日と入れ替わり、クリスチャンにとっては日曜日が安息日になったと考えます。

しかし聖書には、そのように書かれていません。

聖書は日曜日を安息日と呼ばず、「週の初めの日」と呼んでいます(使徒20:7、Ⅰコリント16:2)。

ですから、日曜日が安息日になったわけではありません。

イエスが週の初めの日(日曜日)に復活したので、クリスチャンたちが日曜日に集会を行うようになっただけです。

安息日の変更ではありません。

どの使徒も、どの聖書執筆者も、日曜日が安息日になったと書いていません。

日曜日には何もせず、ただ神を礼拝せよと、聖書のどこにも書かれていません。

この理由は、安息日を守るという戒めそのものが無効になったからです。

コロサイ2:16~17に、次のようにあるとおりです。

「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。

これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」

キリストが現れたので、「影」であった安息日に関する戒めは無効になりました。

では第4戒が無効になったのなら、残りの9つの戒めはどうなのでしょうか。
 
●「むさぼってはならない」
ローマ7:1~7でパウロは、クリスチャンは律法に対して死んだので、律法から「解放」されていると教えています(特に6節)。

「文字」によってではなく、「御霊によって」神に仕えていると。

ではこの「律法」という言葉で、パウロは何を意味しているのでしょうか。

パウロは、「むさぼってはならない」と言っているのは「律法」だと述べています(7節)。

この「むさぼってはならない」という文言は、十戒の第十戒のことです(出エジプト20:17、申命記5:21)。

ということは、「律法」という言葉には十戒も含まれているということです。

つまりクリスチャンは、十戒からも「解放」されているとパウロは教えているのです。

●その他の戒め
ローマ13:8~10でパウロは、愛が律法をまっとうすると述べています。

特に9節では、こう述べています。

「姦淫するな、殺すな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。

私たちクリスチャンは、肉によって十戒を守るように召されているのではなく、御霊によって隣人を愛するように召されているのです。

そして隣人を愛するとき、十戒のその他の戒めもまっとうされるのです。

律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」(ガラテヤ5:14)とあるとおりです。

●まとめ

「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求がまっとうされるためです。」ローマ8:3~4

上記の御言葉によれば、キリストの十字架は、私たちを罪からだけはなく、律法からも解放しました。

キリストが死なれたのは、私たちが御霊に従って歩むことにより、律法の要求がまっとうされるためです

私たちは十戒や律法に従うのではなく、御霊に従いましょう。
 
「文字は殺し、御霊は生かすからです。」(Ⅱコリント3:6)
 
私たちが肉によって文字に従うなら、キリストの死を無にすることになるのです(ガラテヤ3:1~4)。
 
御霊に従うことにより、逆に律法の要求をまっとうできるのです!

ある方から、クリスチャンでも十戒は守るべきではないのかとの質問(意見)をいただきました。

以前にも、クリスチャンは律法(十戒を含む)を守る必要はないという記事を書きましたが、今回は特に十戒に焦点を当て、それを守る必要があるかどうかについて述べようと思います。

前置きしますが、この記事で律法や十戒を「守る必要がない」というとき、それは罪を犯そうが何をしようが構わないという意味ではありません。

クリスチャンの生活が、無法状態でも良いと言っているのではありません。

クリスチャンに対して、聖書また神はそれを守るように語っていないという意味です。

神は、それほどの自由をクリスチャンにお与えになったということです。

この点は、お間違えありませんように。

●エレミヤの預言

「見よ。その日が来る。-主の御告げ-その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に彼らと結んだ契約のようではない。」エレミヤ31:31~32

上記の箇所の、「エジプトの国から連れ出した日に彼らと結んだ契約」とは何でしょうか。

それは、出エジプト記34:27~28にはっきり書かれています。

「主はモーセに仰せられた。『これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、
 
あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。』
 
モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。
 
そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。」

このように、「エジプトの国から連れ出した日に彼らと結んだ契約」とは、十戒のことです。

注目すべきことは、神が「新しい契約」は十戒の「ようではない」と言っていることです(32節)。

私たちがイエスを通して受け取った新しい契約は、十戒とは異なっているのです。

●Ⅱコリント3章
では新しい契約と十戒は、どのように異なっているのでしょうか。

それについては、Ⅱコリント3章でパウロが説明しています。

まず新しい契約は、十戒のように「石の板にではなく、人の心の板に書かれたものである」と述べています(3:3)。

またクリスチャンは、「文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者」だと述べています(3:6)。

「文字」は十戒を示していますから、クリスチャンは十戒に従う者ではなく、御霊に従う者だとパウロは述べているのです。

更に注目すべきことは、十戒は「消え去るべきもの」と呼ばれていることです(3:11)。

このように十戒は、永続しない一時的なものなのです。

有効期間があるのです。

その有効期間とは、新しい契約が結ばれるまでです。

つまり、イエスの十字架と復活までです。

●ガラテヤ書
十戒の有効期限については、ガラテヤ3章にも次のように書かれています。

「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係になりました。・・・しかし私たちはもはや養育係の下にはいません。」(24~25節)

さて、ガラテヤ4:24でパウロは、「この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており奴隷となる子を産みます」と述べているとおり、パウロが「律法」というとき、十戒も含まれています。

ですから私たちクリスチャンは、もはや十戒の下にいないのです。

十戒と律法には、一時的な役割が与えれていました。

それは神の民をキリストに導くことです。

キリストが現れた今、養育係の役割は終わりました。

クリスチャンが十戒や律法に逆戻りするなら、それは「その奴隷になろうとする」ことになります(4:9)。

古いものの奴隷になってはいけません。

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。・・・またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」(5:1)。
 
このように聖書は、クリスチャンは十戒も守る必要がないことを明確に教えています。

つづく
 

「ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」ローマ5:19

前回の記事で、すべての人間はアダムによって代表されるため罪人なのだという説明をしました。

ローマ5:14の後半に「アダムはきたるべき方のひな形です」とありますが、これはどういう意味でしょうか。

パウロは12節の後半から17節の終わりまで、代表制という枠組みにおける罪と恵みの関係について説明文を挿入しています。

14節後半の意味は、アダムが罪人の代表であるように、イエスも別のグループの代表をする。
 
その意味でアダムはイエスのひな型だと言っているのです。

しかしイエスの場合は、違反者の代表ではなく、恵みを受ける者たちの代表をします。

●ローマ5:19の意味
日本語の訳では「多くの人が罪人とされた」となっていますが、原典では「罪人に構成された」(アオリスト過去形)と表現されています。

同様に後半の「多くの人が義人とされる」という部分も、「多くの人が義人に構成される」(未来形)と書かれています。
 
「構成する」という言葉は、グループを形成する要素について使う言葉です。
 
ですからパウロは「ひとりの人」(アダム)に起因して多くの人がその人のグループの構成員とされ、
 
別の「ひとり」(キリスト)に起因して多くの人がその人のグループの構成員とされるということを意味しているわけです。
 
このように神は、人類を2つのグループとして見ています。

一つは、アダムによって代表される罪人のグループです。

生まれたままの人間はみな、アダムをかしらとして、この罪人グループの構成員となっています。

もう一方はイエス・キリストに代表される義人グループです。

イエスを信じた者はこの義人グループの一員とされ、神はその人を義人として取り扱います。

●後戻りはない
「罪人とされた」という部分はアオリスト過去形です。

前回の日記で学んだように、このアオリスト過去形は二度起こることには使いません。

過去にただ一度だけ起こったことを描写するのがアオリスト過去形です。
 
つまり「罪人にされた」という歴史的な事実は、すべての人にたった一度しか起こらないことなのです。
 
これをクリスチャンに適用すると何がわかるでしょうか。
 
ひとたび義人グループに移されたら、二度と罪人グループに戻ることはないということです!

これは日本語の聖書では理解できない、極めて重要なポイントです。

●ローマ5:18の意味
順序が逆になりますが、この代表制を理解した上で、それを念頭に置きながら18節を読むと理解しやすくなります。

18節には「すべての人」というフレーズが2回出てきます。

最初の「すべての人」はアダムが代表しているので、全人類ということになります。

しかし二番目の「すべての人」は、キリストが代表する「すべての人」です。

同じ「すべての人」というフレーズでも、指している対象が違うわけです。

キリストが代表しているのは、将来救われて義と認められる人々です。

端的にいえば、救いに選ばれた人々です(エペソ1:4~5)。

代表制を理解しないでこの18節を解釈すると、あたかも全人類が義と認められるかのように誤解してしまいます。

このように代表制を理解して聖書を読むことは、神の視点で聖書を読むことになるのです。

●救われるとは
代表制という観点で救いを考えると、救われるということは、霊的なポジションが移動するということになります。

アダム組からイエス組に移ることであり、罪人グループから義人グループに移動することです。

この事実を知らないため、多くのクリスチャンは救われた後でもビフォー・アフターの区別が曖昧なままです。

救われたにもかかわらず、自分を罪人の延長線上で見ているクリスチャンがいますが、これは大きな間違いです。

神は、救われた人を義人グループの一員として見ているのです。

ひとたびイエス組に入ったなら、イエスの義が私たちに付与され、私たちはイエスの義を帯ます。

私たちが努力するから義と認められるのではありません。

神によって、罪人グループから義人グループに移されたから義と認められるのです。

洗礼を受けたから恵みを受けるのではありません。

イエス組に移されたから恵みを受けるのです。

ですから、自分は駄目なクリスチャンだと思ったり、自分は神から嫌われていると思ったり、自分は救われているかどうかわからないと考えたりすることは、サタンの大嘘に騙されることです。

もしあなたがクリスチャンであるなら、あなたは、あるグループから別のグループに移ったのです。

あなたに対する神の見方は、完全に変わりました。

そしてひとたび神が私たちを義人ループ、あるいはイエス組の一員として見るようになったなら、二度とその見方は変わらないのです。

神は私たちを、二度と罪人として見ることはありません。

私たちは、この神の視点で自分を見る必要があります。

そのとき、神が自分にどんなに大きなことをしてくださったが、自分の中でより明確になるのです!
 

「ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、-それというのも全人類が罪を犯したからです。」」ローマ5:12

聖書は、神が人間を取り扱う方法を教えています。
 
神は、人間を個人単位で取り扱いますが、同時にグループ単位でも取り扱います。
 
上記のローマ5:12は、神が人間をグループ単位で取り扱うことを示す、最も顕著な事例です。

●文法的解説
「ひとりの人によって罪が世界に入り」とは、アダムの罪のことを指しています。
 
たった一人の人の、たった一度の不従順により、「全人類が罪を犯した」とパウロ(聖書)は見なしています。

「全人類が罪を犯した」というフレーズの「罪を犯した」の部分は、原典ではハマルタノー(罪を犯す)のアオリスト過去形が使われています。

アオリスト過去形とは、過去にただ一度だけ行われた歴史的な行為を表現する過去形です。

何度も繰り返した行為ではなく、現在も続けて行われている行為でもなく、過去の特定の時点で一度だけ行われた行為を表します。

このことからわかることは、アダムが違反したとき、全人類もアダムの中に存在していてアダムとともに善悪知識の木の実を食べたと、聖書が見なしていることです。

●代表制
「というのは、メルキゼデクがアブラハムのを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。」ヘブル7:10

上記の聖句も代表制の事例です。

レビはまだ生まれていませんでしたが、神はレビが「アブラハムの腰の中」にいて、アブラハムとともに十分の一をメルキゼデクに納めたと述べています(ヘブル7:9)。

神は、罪と死に関してもこの原則を適用しています。

アダムは直接神から禁止命令を受け、直接それに違反しました。

私たちアダムの子孫は、直接にはその命令に違反したことはありません。

私たちはアダムが罪を犯した時点ではまだ生まれておらず、この世に存在していないからです。

しかし神は、私たちもアダムと同じ罪を犯したと見なしているのです。

これは神がアダムを全人類のかしら(代表)として扱い、その代表の行為を私たちの行為として扱っていることの証です。

この世には存在していませんでしたが、アダムの腰の中にいて私たちもまたアダムとともに神に逆らったのです。

ヒューマニズムに従って考えると、このような扱い方は神の横暴としか言いようがありません。

しかし神に対する違反、およびその代価としての死に関しては、アダムが全人類を代表しているのです。

それゆえにアダムによって代表される人々もみな、同じ違反を犯したと見なされ、同じ罰を適用されるのです。
 
●生まれながらの罪人
聖書は、生まれる前の胎児でも罪人であると教えています。

「ああ、私は罪ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」詩篇51:5

このようにダビデは、聖霊によって、人が罪人として生まれてくることを悟りました。

多くのクリスチャンさえ誤解していますが、私たちは、様々な個々の罪を犯したから罪人になるのではありません。

アダムの子孫だから罪人なのです

全人類が罪人なのは、アダムの子孫だからであって、彼らが何かの罪を犯したからではありません。

個々の罪を犯すのは、あくまでアダムの子孫だということの表れであり、結果なのです。
 
すべての人間が死ぬのも彼らがアダムの子孫だからであり、
 
それゆえ違反の代価である死という罰を受け継いでいることの証です。

肉体が老朽化するから死ぬのではありません。

私たちが罪人だから肉体が老朽化し、アダムとともに神の命令に逆らったから死ぬのです。
 

「今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊よって仕えているのです。」ローマ7:6

「神は私たちに、新しい契約仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」Ⅱコリント3:6

●表面的な矛盾
6月3日の日記で、クリスチャンは律法を守る必要はないという趣旨の記事を書きました。

墓穴を掘るわけではありませんが、その内容は表面的には次のイエスの言葉と真っ向からぶつかります。

「戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」マタイ5:19

実際パウロも、律法からの解放を説いたために、ユダヤ人たちから「律法に逆らうことを至る所ですべての人に教えている」と言われ、迫害されました(使徒21:28)。

当然のことですが、私は、十戒や律法を積極的な意味で破るように教えているわけではありません。

しかし例えば、クリスチャンは十分の一を捧げる必要があるかと聞かれたら、答えは「ノー」です。

捧げてはいけないとは言いませんが、捧げる必要は明らかにありません。

十分の一を捧げることは、613ある律法の規定の中の1つであり、旧約時代のユダヤ人に課されていたものだからです。

異邦人には関係ありませんし、クリスチャンにも関係ありません。

だから新約聖書は、十分の一を捧げるように教えていません。

冒頭の聖句で、パウロが「文字は殺す」と述べています。この「文字」とは何を指しているかと言えば、モーセの律法です。

ですから表面的な解釈をするなら、イエスは、律法、すなわち人を霊的に殺すもの、を守る者、また守るように教える者は、天国で偉大な者と呼ばれると言っていることになります。

●マタイ5:19の意味
ではイエスは間違っているのでしょうか。マタイ5:19は、何を言わんとしているのでしょうか。

それは、そのあとの文脈を見ればわかりますが、義を行う者になれと教えているのです(マタイ6:33)。

それこそが、罪から解放された目的です(ローマ6:18)。

律法には義(神の国の倫理基準)が示されているので、律法を守ることは義を行うことになります。

そこでイエスは、律法を守る者と、守るように教える者は神の国で偉大な者と呼ばれると言っているのです。

●新約聖書の教え
神を愛し、隣人を自分と同じように愛するなら、それは義を行うことになります。同時に律法の全体をまっとうすることになります(マタイ22:37~40、ヤコブ2:8、12)。

クリスチャンは文字(律法)に縛られる必要はありません。イエスは私たちを自由にするために召してくださったのです(ガラテヤ5:1、13)。

かえって私たちは、御霊に従う必要があります。

御霊は主ご自身ですから、神の国の倫理基準を破るようには導かないのです。

御霊に正しく従うなら、結果的に義を行うことになります(ヨハネ16:8)。

●自由たれ
私は、多くのクリスチャンが霊的に縛られているのを見て残念に思います。

ある人はクリスチャン特有の思い込み(霊的完ぺき主義)に縛られ、
 
ある人は間違った教えに縛られ、ある人は律法主義に縛られています。

ある人は教会の権威に縛られ、ある人は人間が作った規則に縛られ、ある人は奉仕に縛られています。
 
ある人は霊的エリート主義に縛られ、ある人は過去の失敗に縛られています。

キリストも、兄弟姉妹たちが自分の意図(霊的自由、解放)と裏腹な状態にあるのを見て、悲しんでいるのではないでしょうか。
 
兄弟姉妹。私たちは奴隷の女(=モーセの律法)の子どもではなく、自由の女の子どもです(ガラテヤ4:31)。
 
 
 

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