ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

カテゴリ: N.T.ライト/NPP

 この記事は、新約聖書学者のシガールド・グリンドハイム博士の論文を記事にしたジャクソン・ウー氏のブログを参考にしたものです。
 
                 ***
 
ローマ3:23・新共同訳
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが
 
 
 皆さんは、この箇所の「栄光」という言葉を、どのような意味で理解しておられるでしょうか?
 
 新改訳では「栄誉」と訳されていますが、原文には「栄光」を意味するドクサという言葉が使われています。
 
 ある論考には、ローマ323の「栄光」についてこう書かれています。
 
アダムとエバが罪を犯して、本来 持っていた「神のかたち」を手放して以来、だれもその「神のかたち」に自分の力では届いていないということ です。
  
 また、別のブログには、こうあります。
 
アダムは、堕落する前は、神の臨在の中で生きていました。神の臨在はアダムの光で、彼は、神の臨在の中を歩んでいました。アダムは神の栄光そのものでした。
 
 
栄光=神の有形の臨在
 
 グリンドハイム博士は、パウロが頻繁に引用していた七十人訳の中で、「栄光」という言葉がどのように使われているかを調べました。
 
 それによってわかったことは、「ドクサが神の有形の臨在を指している」ということでした。
 
 このドクサの定義に基づくと、パウロによる「栄光」という言葉の使い方が上手く説明できるそうです。
 
 イスラエルが失ってしまった神の臨在が、イエス・キリストの中で刷新されたことをパウロは表現しているのだ、と博士は言います。
 
 終末においてクリスチャンに与えられる栄光は、人類が失ってしまった栄光であり、刷新された神の栄光の現れなのだと。
 
 
神の栄光であって、アダムの栄光ではない 
 
「アダムの栄光は、おもに永遠のいのちと関連している。しかし、この終末論的栄光を神の栄光と同一視することはできない。
 
 アダムの栄光という概念は、アダムが神のかたちに創造されたという概念とは、かなり異なっている」と、博士は言います。
 
 アダムの栄光は神の臨在に依存してはいるが、両者を融合することはできないと博士は言います。
 
 
神の臨在
 
 神の栄光は、神の臨在を象徴するものです。
 
 特に、天幕や神殿においてはそうでした(出エジプト2943、同403435、レビ記923、民数記1410、第二歴代誌514、エゼキエル84)。
 
 ローマ94を見ると、イスラエルの民が栄光を所有していることがわかります。
  
ローマ9:4
彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
 
 
 しかし、多くの聖書注解者が同意しているとおり、ローマ1章は、ホレブにおけるイスラエルの民の堕落を暗示しています(ローマ123、詩篇1061920、エレミヤ211)。
  
ローマ1:23
滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた取り替えたのです。
 
詩篇106:1920
彼らはホレブで子牛を造り、鋳物のを拝んだ。こうして彼らは彼らの栄光を、草を食らう雄牛の取り替えた
 
エレミヤ2:11
かつて、神々を神々でないものに、取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は、その栄光を無益なものに取り替えた
 

*ローマ123の「像」と訳されているホモイオマは、七十人訳の詩篇1062の「像」と同じギリシャ語です。 
*また、3箇所に共通する「取り替えた」という言葉は、どれもアラソーという同じギリシャ語です。
 

 また、グリンドハイム博士は、ローマ1章のパウロの表現は、申命記41518にも由来していると述べています。
  
申命記4:1518
あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何のも見なかった。16 堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。男や女の形も、17 地上のいかなる獣のも、空を飛ぶ翼のあるいかなる鳥のも、18 地上を這ういかなる動物のも、地下の海に住むいかなる魚のも。
 
*「形」と訳されているホモイオマは、ローマ123の「像」にも使われています。 
  
 このことから博士は、「神の栄光は、ホレブにおける神の顕現(臨在の現れ)との関連で理解してよい」と結論づけます。
 
 また、ローマ123とローマ323の間に、強い関連性があることは明らかです。
 
 それゆえ博士は、ローマ323はホレブとの関連の中で理解すべきだと言います。
 
 つまり、イスラエルの民は、全人類の縮小版の役割を果たしているのです。
 
 イスラエルの民と同じ様に、全人類も罪を犯して神の臨在を失ったのです。
 
 ただし、博士は、神の栄光と神の臨在を同一視しているわけではありません。
 
 神の栄光は、「神の臨在の象徴的な現れ」だと考えているのです。
 
 それゆえ、終末においてクリスチャンに与えられる栄光は、アダムに与えられていた栄光の回復だと考えるべきではなく、
 
 神との関係が回復したことによって新たにされた神の臨在なのだと博士は言います。

 
クリスチャンが追い求めるべきもの
 
ローマ2:710
すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。 
 
 グリンドハイム博士は、クリスチャンの人生の意義は「栄光と誉れ」を追求することにあると言います。
 
「栄光と誉れ」というペアの表現を七十人訳の中で探した結果、グリンドハイム博士は13の事例を発見しました。
 
「この表現が神学的な意味で使われている箇所では、『栄光と誉れ』は常に神にのみ属している」と博士は言います。
 
 ではクリスチャンは、どのように「栄光と誉れ」を求めればよいのでしょうか?
 
「栄光と誉れ」が神ご自身の特徴であるのなら…「栄光と誉れ」を求めることは神ご自身と神の臨在を求めることに他ならない、とグリンドハイム博士は言います。

「栄光と誉れ」はもともと人間のものではなく、憐みと恵みによって神が与えてくださるもの。
 
「栄光と誉れ」がクリスチャンのものになるのは、神との関係の回復によるのだと博士は結論づけます。
 
 
●あとがき
 
黙示録212326
都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。…こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。 
 
 私はこの論考を読んで、上記の箇所を思い出しました。 

 この箇所は、ローマ2710とも整合します。

 クリスチャンは、栄光と誉れと不滅ものを求めるよう召されているのだと思います。
 
 終わり


 プレストン・スプリンクル著「パウロとユダヤ教への再訪問」(kindle版)を読んでみました。

 そこで見つけたダマスカス文書に基づいて、NPPの矛盾点を指摘しようと思います。

 日本福音主義神学会西部部会2012年度終期研究会議のレジュメである

現代のパウロ解釈を考える~新しい視点(New Perspective)をめぐって~」から、P27の「まとめ」のセクションを以下に抜粋します。
 
 
サンダース、ダン、ライトと三人の提案を見てきたが、いわゆる「パウロ研究の新しい視点」という立場に立つ学者がみながすべての点において同意しているわけではない。しかし、彼らの共通理解をYingerは以下の四つの点まとめている。
 
一世紀のユダヤ教は律法主義ではない。むしろ、「神の恵みによって神の民となるのであって、律法の遵守とは神の民であることのしるしである」という契約遵法主義という特徴を持つ。

当時のユダヤ人たちは、業によって神の民となる考えを支持していない。つまり、パウロがその手紙において反論を繰り返しているのは、いわゆる律法主義ではない。

③パウロが問題にしていたのは「誰が神の民に属しているのか、そして人々はどのようにしてある人が神の民に属しているかを知ることできるのか」という点である。割礼を受け、食物の律法を守り、安息日を祝うユダヤ人となって初めて、異邦人はアブラハムの約束を受けつぐ者になるのか、それともこれらの民族のしるしは必要ではないのか。

救いにおいて恵み、信仰、わざが占める位置と働きについて、パウロが当時の多くのユダヤ人たちとは異なっていなかった。しかし、彼は、イエスこそがイスラエルのメシアであり、すべての被造物の主であると考えた点で、当時のユダヤ人と大きくことなっていた。神が神の民を取り扱うとき律法はもはや神の民の取り扱いの中心ではない。キリストに属しているかが大切である。  
                             (強調はブログ主) 
Yinger:ケント・インガー
 
                 *** 

 当ブログの過去記事でも述べてきたとおり、EPサンダース、ジェームズ・ダン、NTライトらの共通点は、

 第二神殿期ユダヤ教の律法理解である「契約に基づく律法遵守主義」に基づいて、パウロ神学を見直すというものです。
 
 彼らが採用する当時の資料に基づくと、当時のユダヤ人の律法遵守の目的は、

(永遠の)命を得るためではなく、「神の民であることのしるし」を維持するために過ぎなかったことになります。
 
 NTライトの言葉を借りれば、律法遵守の目的は「契約加入権」を維持することです。
 
 しかし、上記の4つの共通点は、あくまでNPP学者が採用したユダヤ教資料に基づく見解にすぎません。
 
 当時のユダヤ人の中に、NPPが提唱するものと異なる律法遵守の理解があるなら、NPP学者によるパウロ神学の見解は間違っていることになります。

 それを証明する資料の一つが、ダマスカス文書です。
 
 
●ダマスカス文書

 クムラン遺跡から発見された死海文書の中に、エッセネ派が記したダマスカス文書があります。
 
 ダマスカス文書(略称:CDが記録された正確な年代は不明ですが、エッセネ派は紀元66年に勃発したユダヤ戦争によって解散に追い込まれたため、
 
 それ以前に編纂されたと考えられています。

 要するにダマスカス文書は、第二神殿期のユダヤ教文書の一部だということです。


イメージ 1
 

 そのダマスカス文書の3章には、次のように書かれています。
 
 
But with those who remained steadfast in Gods precepts, with those who were left from among them, God established his covenant with Israel forever, to reveal to them hidden things in which all Israel had gone astray: his holy Sabbaths and his glorious feasts, his just stipulations and his truthful paths, and the wishes of his will which if a man does he will live by themCD312a16b)
 
日本語訳
しかし、神の戒めに忠実であり続けた者たちと、すなわち、その者たちの中から残された者たちと、神はイスラエルとの永遠の契約を結ばれた。そして、秘められた事柄を彼らに啓示された。その秘められた事柄とは、すべてのイスラエルが迷い出てしまったものである。すなわち、聖なる安息日と栄光あふれる祭り、正義の規定と真実な道、そして神の御心の願いである。人はそれらを行うなら、それらによって生きる(強調はブログ主)

引用元:Sprinkle, Preston M.. Paul and Judaism Revisited: A Study of Divine and Human Agency in Salvation (p.134). Inter Varsity Press. Kindle .
 
 
●NPPの矛盾
 
 上記で強調したCDの最後の部分は、レビ記185と同じです。
 
 
レビ記18:5
あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。
 
 
 この結果は、先述した共通点の①や②の内容と食い違っており、
 
 NPP学者が理論構築の土台としているユダヤ教資料に不備があることを証明しています。
 
 言うまでもなく、共通点の③や④も成り立たなくなり、
 
 かえって、パウロの論敵は律法主義のユダヤ人だった、という従来の見解が支持されることになります。
 
 
●まとめ
 
 ダマスカス文書の内容から、次のことが言えます。
 
 NPP学者が採用した第二神殿期のユダヤ教資料は、あくまでも部分的なものであり、
 
 サンダースが提唱した「契約に基づく律法遵守主義」は、当時のユダヤ教を特徴づける概念の一部に過ぎないことがわかります。
 
 ゆえに、パウロの論敵は律法主義のユダヤ人であったという従来の見解を、修正する必要はありません。

 パウロは、律法の行いによって命を得ようとするユダヤ教の一派を論敵にしていたのです。

 NPPは、この見解を修正しなければならない十分な根拠を提示していないのです。
 
 終わり 

 
 かの有名な、THE NEW PERSPECTIVE ON PAULという論文を読んでみました。
 
 著者はジェイムズ・ダンといい、EPサンダースやNTライトと並ぶ、NPP御三家の一人です。
 
 今や有名になった「パウロに関する新しい見方」(NPP)というフレーズは、この論文に端を発しています。
 
 ダンは論文の中で、従来の信仰義認に疑問を投げ掛けた上で、次のように論じます(p3)。

 
 しかし、サンダースは、パウロ時代のパレスチナ・ユダヤ教に関して、(従来と)異なる見解を構築した。
 
 当時のユダヤ教関連文献のほとんどを、大量に取り扱った結果、(従来と)異なる構図が現れてきた。
 
 特にサンダースは、十分な根拠を挙げて、次のことを主張した。
 
 1世紀のユダヤ人にとって、神との関係は契約を土台として既に確立しており、
 
 その確立した関係が、ユダヤ人という民族的アイデンティティーやユダヤ教理解の基盤となっていた。
 
 律法はその契約の表明として与えられたもので、契約によって確立した関係を維持するための規定であった。
 
 それゆえ義という概念も、この関係に基づいて理解されなければならない。
 
 すなわち、ユダヤ教における律法遵守は、契約に入るための手段でもなければ、神との特別な関係を獲得する手段でもなかったということである。
 
 律法の遵守は、あくまで神のとの契約関係を維持するためのものだったのだ。
 
 この結論からサンダースは、「契約に基づく律法遵守主義」と呼ばれる、1世紀のパレスチナ・ユダヤ人を特徴づけるキーフレーズを導き出す。
 
 サンダースはこのキーフレーズを、次のように定義づける。
 
 契約基づく律法遵守主義とは、神と人の関係は契約に基づいて確立されており、その契約は、戒めに従うという人間の応答を要求している。
 
 一方で契約は、戒めの違反に対する贖いの手段を提供している。
 
 律法の遵守は、契約における人間の立場を維持するものであって、神の民としての立場を獲得するためのものではない。
 
 ユダヤ教における義という言葉は、選びの民として地位を維持することを意味する。

                                (強調はダン)
 
*過去記事においては「契約に基づく律法遵守」と訳しましたが、「律法主義」との対比のために「契約に基づく律法遵守主義」と改めました。なお、神学会における訳語は「契約的法規範主義」です。ブログ主としては、自分の訳語のほうがわかりやすい上に的も得ていると思うので、神学会の訳語は敢えて選択しません。
 
 
●疑問点
 
 サンダースによるこの見解は、ダンだけではなくNTライトも、理論構築の土台にしています。
 
 私が問題視するのは、サンダースが「ユダヤ教関連文献のほとんど」を取り扱っているとしても、
 
 それはあくまで、こんにち入手可能な文献のほとんどであって、当時は他の文献も存在していたかもしれないということです。
 
 そして、サンダースが入手できなかった文献の中には、「契約に基づく律法遵守主義」と異なるユダヤ人たちの律法理解が書かれていた可能性がある、ということです。
 
 実際、マタイの福音書には、「契約に基づく律法遵守主義」と明らかに対立する律法理解が記録されています。
 
 
マタイ19:1620
すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
 
 
 マタイによれば、金持ちの若者による律法遵守の目的は、「永遠のいのちを得るため」でした(16節)。
 
 主イエスも若者の願いに理解を示して、「いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい」と言っておられます(17節)。
 
 言うまでもなく、この会話のテーマは「律法遵守による救い」です。
 
 それゆえ、このやり取りから、1世紀のユダヤ人にとって、「律法遵守による救い」という概念は、特別なものではなかったことがわかります。

 これは、とりもなおさず、サンダースの「契約に基づく律法遵守主義」とぶつかります。

 つまり、1世紀のユダヤ人の中には、少なくともこれら2種類の救済観が存在していたということです。
 
 南東部バプテスト神学校などで新約聖書学と聖書神学を指導してきたチャールズ・クォールズ博士は、

ニュー・パースペクティブと第二神殿期のユダヤ教における贖いの手段」という論文の中で次のように述べています。
 
 
 新約聖書学者たちは、第二神殿期ユダヤ教が神学的に一様ではなかったことを、ますます認識しつつある。
 
 正確さを期するなら、第二神殿期ユダヤ教諸説(複数形)と言うべきであって、当時のすべてのユダヤ人が、単一の救済観を共有していたと決めてかかるべきではない。(p40)
 
 そして、クォールズ博士は、「恐らくミシュナーにおける最も体系的な救済論の言及」として、次のようなラビの教えを引用しています。
 
 
 ラビ・アキバはミシュナー・アボス3:16で、「世界は義によって裁かれるが、すべての者は、善と悪の行いのどちらが多いかによって裁かれる」と教えている。…
 
 このようにラビ・アキバは、個人の永遠の運命が、個人の行いにおける善悪の優位によって決定されると教えていた。(p41)

 つまり、現存する資料によっても、1世紀のユダヤ人の律法理解には多様性があったことが、判明しているということです。

 言うまでもなく、NPP学者らの主張の根拠には欠陥がある、ということになります。
 
 
●あとがき
 
 福音主義神学会でNPPを学ばれた金井望先生は、「現代のパウロ解釈を考える」(福音主義神学会 西部部会 秋季研究会議 の感想)の中で、次のように述べておられます。
 
 
ルターは「罪の赦し=神の怒りから逃れる方法」に関心があって、「信仰による義」「虚構的な転嫁された義」の発見によって、解決を得た。しかし、それはパウロの関心事では無かった、というのがサンダースの主張です。
 
しかし、それは正しくない。この点に関して、サンダースはパウロやルターを全く誤解している、と私は思います。
 
ルターが個人的に「信仰義認」の経験をしたのは事実です。けれども、彼が「信仰義認」を掲げて闘ったのは、ローマ教会のシステムでは人々が救われないからです。ルターの関心・目的意識は、人々の実質的な救済にあったのです。
                             (強調はブログ主)

金井望:日本イエス・キリスト教団神戸大石教会牧師、日本福音主義神学会会員、カナイノゾム研究室を運営、NTライトFB読書会に参加
 
                  ***
 
 EPサンダース、NTライト、ジェームズ・ダンなど、NPP学者らが根拠とする文献を書いたユダヤ人と、
 
 主イエスやパウロが相手にしていたユダヤ人は、別々の救済観・律法理解を持っていたと考えるべきです。
 
 その場合、「契約に基づく律法遵守主義」に基づいて従来の信仰義認を再解釈するNPPの主張は、的を外しているのです。
 
 終わり

 
 この記事は、NTライトの主張に対する粗探しのようなものかもしれません。
 
 しかし、彼の言うことを盲目的に信じるよりは、ここに書かれたことを思いに留めておくほうが良いと思います。
 
 
●ピスティス・イエソウ・クリストウに関する理解
 
 私の手元にライトが書いたJustificationGods Plan and Pauls Vision(義認:神の計画とパウロのビジョン)という本があります。
 
 本書のP96~P97で、ライトは次のように述べています。
 
 
 パウロの答えは、今では有名になったピスティス・イエソウ・クリストウ/pistis Iesou Christouの問題を提起することになる。
 
 このフレーズは、「イエス・キリストの忠実さ/the faithfulness of Jesus Christ」と「イエス・キリストにある信仰/faith in Jesus Christ」のどちらにでも訳すことができる。
 
 私は複数の理由から、この箇所(ガラテヤ216)を次のように読むようになった。
 
「私たちは、人が義と認められるのは律法の行いによってではなく、メシアなるイエスの忠実さthe faithfulness of Jesus the Messiahを通してであることを知っています。
 
 それゆえ私たちは、メシアなるイエスを信じるようになったのです。
 
 それは、私たちがメシアの忠実さ(the faithfulness of the Messiah)によって義と認められるためであって、律法の行いによってではありません。
 
 なぜなら、律法の行いによっては、誰も義と認められないからです。」
 
              ***
 
 つまりライトは、ピスティス・イエソウ・クリストウというフレーズを、「イエス・キリストの忠実さ」と解釈しているわけです。
 
 一方、従来の解釈は「イエス・キリストにある信仰」あるいは「イエス・キリストを信じる信仰」です。
 
 どちらが正しいのでしょうか?
 
 単純な説明で正誤が判別できるので、過去記事で書いたものを転用します。
 
 どちらが正しいかを簡単に判別する方法として、私は現代ギリシャ語の新約聖書にどう書かれているかを調べました。
 
 つまり、聖書ギリシャ語と現代ギリシャ語の違いはあるにせよ、共通部分も多々ある言語を使うギリシャの人たちが、
 
 ピスティス・イエソウ・クリストウという表現をどのように理解しているかを調べたわけです。
 
 ギリシャ在住の友人にお願いしたところ、ギリシャで主に使用されている4種類のギリシャ語新約聖書から、問題となるフレーズの部分を書き出してくれました。
 
(以下はローマ322のピスティス・イエソウ・クリストウの箇所です) 
 
 
δικαιοσύνη δε του θεοδιά πίστεως Ιησού Χριστού....(ヴァンヴァス逐語訳;カサレヴサ擬古文体)
 
 ①は、聖書ギリシャ語とほとんど同じであるため比較にならない。
 
 
διά τς πίστεως ες τόν ησον Χριστόν (ギリシャ語聖書協会, 1967逐語訳、やや擬古文体)
 
特徴:コイネー新約原典+現代語(やや擬古文調)逐語訳のインターリニア聖書からの抜粋。おそらくこのインターリニアの現代訳は、最も字義的で正確な翻訳。
 
文法:イエス・キリストの手前にエイスという前置詞を使った訳になっている。
 
訳語:イエス・キリストに対する信仰を通して  
 
 
διαμέσου τής πστης στον Ιησού Χριστό. (スピロス・フィロス逐語訳)
 
特徴:ギリシャ福音自由教会の主任牧師であるスピロス・フィロス師が①のヴァンヴァス逐語訳を現代ギリシャ語に訳した翻訳聖書で、現在、ほとんどの福音派・聖霊派教会が、この現代語聖書を使用している。
 
文法:イエス・キリストの手前にストン(定冠詞+toという表現が使われている
 
訳語:イエス・キリストへの信仰を通して
 
 
δια μέσου της πίστεως στον Ιησού Χριστό. (ギリシャ語聖書協会, 2003, in Today's Greek Version)
 
特徴:NIV訳に近い感じの訳で、あまり字義的ではないが参考までに。
 
文法:イエス・キリストの手前にストン(定冠詞+to)という表現が使われている
 
訳語:イエス・キリストへの信仰を通して
 
                  ***
 
 以上のように、現代ギリシャ語の新約聖書は、「イエス・キリストにある信仰」あるいは「イエス・キリストへの信仰」と訳していることがわかります。
 
 これらの表現は、文法的構造から言うと、「イエス・キリストを信じる信仰」とまったく同じ目的格属格/objective genitiveという形式の表現です。
 
 このことからわかるのは、次のことです。
 
 ギリシャ人の聖書学者たちも、ピスティス・イエソウ・クリストウの意味を「イエス・キリストを信じる信仰」だと考えている
 
 つまり、現代ギリシャ語の新約聖書に基づいて判断すると、NTライトの解釈が間違っていることが一目瞭然だということです。
 
 この結論に疑問がおありの方は、以下のサイトにおいて、③のスピロス・フィロス逐語訳聖書を訳されたスピロス氏に英語で質問することができます。
 
KEEEE
 
 
●おわりに
 
 NTライトのように理解した場合に何が問題かというと、個人的なキリスト信仰の意味が損なわれることです。
 
 実際ライトは、上記の引用の直後で次のように書いています。
 
個人の信仰とは、彼、つまりメシアに属する者、すなわち再定義された家族を特徴づけるものである。(P97
 
 わかりやすく言うと、イエス・キリストを信じることによってもたらされるのは、単にその人が神の家族になるだけだというのです。
 
 もちろん、神の家族になることは素晴らしいことですし、それ自体を問題にしているのではありません。
 
 私が問題にしているのは、ライトが個人的救いの話をしないことです。
 
 実際、この本に「救い/salvation」という言葉が出てくるのは、244ページ中たった5ページだけです。
 
 義認をテーマにしている本なのにです。
 
 なんと非聖書的な本なのでしょうか!
 
 聖書というのは、初めから終わりまで人類の救いをテーマにした本です。
 
 そして義認というのは、救いの引き金になる霊的出来事です(ローマ10910)。
 
 それをテーマにした本の中で、救いという言葉が出てくるのが5ページだけというのは、おかしくありませんか?

 しかも、その5ページにおいて、必ずしも救いそのものを説いているわけではありません。

「義という言葉は、往々にして救いと結びつけられやすい」(P52)などと、救いの周辺の事柄を言っているページが大半です。

 P207では、自身が考える救いの概念を説いているのですが、その内容はこうです。

われわれは被造物の世界から救われるのではなく、被造物の世界のために救われるのである(ローマ8:18~26)。(強調はライト)

 聖書は、そのようなことを教えているでしょうか?

 私の聖書には、被造物が人間のために造られたと書いてあります。

 NTライトの聖書には、逆のことが書かれているのでしょうか???

 少し過激で無礼に響くかもしれませんが、ライトが説いているのはキリスト教というより、カルトだと言っても差し支えないのではないでしょうか。
 
 NTライトに傾倒されている方は、ぜひこういった点をご確認いただけたらと思います。
 
 終わり

 
 その2では、複数の根拠を更に挙げて、「キリストを信じる信仰」という解釈が正しいことを述べました。
 
 この記事でも、さらに根拠を挙げて「キリストを信じる信仰」という解釈が妥当であることを説明します。
 
 その前に、前回、最後に説明したピリピの箇所はとても重要ですので、少し説明を加筆します。
 
 
ピリピ3:9
キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰(ピステオス+クリストウ)による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
 
 
 この箇所の「キリストを信じる信仰」の部分がピステオス+クリストウであることは前回も述べました。
 
 それゆえここは文法上、「キリストの忠実さ」と訳すことも可能です。
 
 しかし、その後につづく「信仰(ピステイ)に基づいて、神から与えられる義」という部分のピステイは、「忠実さ」と訳すことは不可能です。
 
 なぜならこの箇所のピステイは、文脈上、信者が表明するものだからです。
 
 もしここを「忠実さ」と訳した場合、それは信者の忠実さということになり、それに基づいて神の義が与えられるという意味になってしまいます。
 
 これはこの聖句で、まさにパウロが否定していることですから、「信仰」と訳す以外に道はありません。
 
 それゆえNTライトでさえ、次のように訳しています(KNT,p405)。
 
 
 the covenant status from God which is given to faith.(強調はブログ主)
   信仰に対して与えられる神からの契約の身分 
 
 
 そういうわけで、繰り返しになりますが、パウロ自身がこの箇所でピステオス+クリストウを言い換えています。
 
 そして、その言い換えは、「信仰に基づいて」です。
 
 ですから、ピステオス+クリストウは「キリストを信じる信仰」と訳すべきであり、それがパウロ自身の意図であると考えなければなりません。
 
 
5)アブラハムの信仰(ローマ4章) 
 
 キリストの忠実さによる義認ではなく、信者の信仰による義認という理解が正しいことを示す箇所は、何と言ってもローマ4章です。
 
 その理由の一つは、パウロ自身が創世記15:6のアブラハムの信仰義認の箇所を引用して論じているからです。
 
 引用元の創世記15:6には、「信じる」を意味するヘブル語の動詞アマーンが使われていますから、信じることに基づく神からの義認という理解を否定しようがありません。
 
 それゆえ、ローマ4章にはピスティスが10回使われていますが、NTライトはその中の一つも「忠実さ/faithfulness」と訳していません(KNT,P316~P318)。
 
 すべて「信仰/faith」と訳しています。 
 
 
6)ピステオス+クリストウを使わすに信仰義認を示している聖書箇所
 
 以下に、ピステオス+クリストウという名詞句を使わずに信仰義認を示している箇所を列挙します。
 
 これらはどれも、「キリストの忠実さ」による義認ではなく、信者の信仰に対する義認を意味しています。
 
ローマ4:3
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
 
ローマ4:5
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
 
ローマ4:11
彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、
 
ローマ5:1
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
 
ローマ9:30
では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。
 
ローマ10:4
キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
 
ローマ10:10
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
 
ガラテヤ3:6
アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。
 
ガラテヤ3:8
聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。
 
ガラテヤ3:24
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
 
ガラテヤ3:26
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
 

7)教父たちはみな信仰義認を語っている
 
 時が経過する中で神学が発展し、信仰義認の再解釈が必要になったという趣旨の見解を目にすることがありますが、
 
 かえって時が経過することで、神学的理解が劣化しているケースが多々見られます(このブログでは後者のケースを主に扱ってきました)。
 
 それゆえ、初期の教父たちの言説を確認するという作業がますます重要になってきています。
 
 初期の教父たちはみな、ギリシャ語が堪能でした。そのような教父たちが口を揃えて、信仰義認を語っています。
 
 
私たちの主イエス・キリストも、肉においては彼(アブラハム)の子孫の中から生まれました。王や祭司、ユダ族の指導者たちも、彼(アブラハム)の子孫から起こされました。
 
神が「あなたの子孫は天の星のようになる」と約束したからには、イスラエルの他の部族も、小さな栄光すら受けることはできません。
 
それゆえ、これらの者たちが高い誉れを受け、偉大な者とされたのは、自分たちのためではなく、自分たちの行いによるのでもなく、自分たちの功績による義のゆえでもなく、主の御心のわざによるのです。
 
そして、キリスト・イエスにある御心により召された私たちも、自分の知恵や悟り、敬虔によって義と認められるのではなく、心の聖さによって成した行いによるのでもなく、信仰によるのである。
 
その信仰により、全能なる神は、初めからすべての人を、義と認めてこられた。その神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。

 ANF: Vol. I, The Apostolic Fathers, First Epistle of Clement to the Corinthians, Chapter 32.

 
クリソストム349年~407年)
父祖アブラハム自身、割礼を受ける前に、ただ信仰のお陰によってのみ、義と認められていた。割礼を受ける前にである。その聖書箇所にはこうある。「アブラハムは神を信じ、それが彼の義と認められた。」

Fathers of the Church, Vol. 82, Homilies on Genesis 18-45, 27.7 (Washington, D.C.: The Catholic University of America Press, 1990), p. 167.

 
ヒエロニムス354年~430年)
ローマ10:3の注釈:「神は信仰によってのみ、義とお認めになる。」 

In Epistolam Ad Romanos, Caput X, v. 3, PL 30:692D.
 

アウグスティヌス354年~430年)
では、働きのない人はどうなるのか(ローマ4:5)。…人が、不敬虔な者を義と認める方を信じるとき、その信仰が信者の義と見なされる。
 
ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを告げているとおりである(ローマ4:5~6)。これは如何なる義であろうか。信仰の義である。善行が(義認に)先行するのではなく、善行は義認の結果なのだ。

John E. Rotelle, O.S.A., ed., WSA, Part 1, Vol. 11, trans. Maria Boulding, O.S.B., Expositions of the Psalms 1-32, Exposition 2 of Psalm 31, (Hyde Park: New City Press, 2000), p. 370.
 
*引用元の論考には、上記以外にも多数の事例が挙げられています(英語)。
 
 
●まとめ
 
 これまで7つの理由や根拠を挙げて、「キリストを信じる信仰」による義認という理解が正しいことを述べてきました。
 
 元をただせば、この問題はギリシャ語表現の翻訳の問題です。
 
 ギリシャ語学者でESV聖書の翻訳委員でもあるビル・マウンス(William Mounce)氏は、ブログ記事の中で次のように述べています。
 
 
This verse is a good example of how subtle language is, how words must be understood in context, not just the context of a sentence or a paragraph but of what we know from the Bible as a whole.  
この聖句は、言語の微妙さを示す良い実例である。文言は、文脈の中で理解しなければならない。一つのセンテンスや一つの段落の文脈だけでなく、聖書全体からわかっている脈絡の中で理解しなければならない。
 
*ガラテヤ2:10のこと
 
 
 つまり、単に文法的に「キリストの忠実さ」と訳せるから、それが正しいということにはならないということです。
 
 終わり



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