ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

カテゴリ: 体験主義

 
 近年、しるしと不思議を求めたり、もてはやす風潮がクリスチャンの間で広がっています。
 
 また幻を見たとか、イエスに会った、天国や地獄へ行ったなど、霊的体験をすることが流行り、体験をすることがキリスト信仰の醍醐味であるかのような誤解がされています。
 
 この記事では、聖書がそのような姿勢についてどう語っているかを考えます。
 
 
●過ぎ越しの祭りでの奇蹟
 
参考文献:The Gospel According To John by D.A. Carson
 
ヨハネ22325
イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御を信じた。
しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。
 
 
 ある過ぎ越しの祭りの最中、イエスは水をぶどう酒に変える奇蹟を行ないました。これはイエスがメシアであることを示すしるしでした。
 
 23節には、そのしるしを見て、「多くの人が・・・御名を信じた」とあります。
 
 しかし24節には、「イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった」とあります。
 
 イエスは、しるしを見て信じた人たちを信頼しませんでした。
 
 なぜでしょうか?
 
 「なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたから」だと使徒ヨハネは説明しています。
 
 「すべての人を知っておられた」とは、具体的にはどう意味でしょうか?
 
 カーソン(参考文献の著者)は、「奇蹟的なしるしを見て信じた人の信仰は不安定」であり、「彼らの信仰は不純」。「イエスはご機嫌取りにかつがれることはない」と述べています。
 
 「ご自身を彼らにお任せにならなかった」というヨハネの言葉からも、イエスがしるしを見て信じた人たちを信用しなかったことがわかります。
 
 
●出エジプトの奇蹟
 
申命記2924
モーセは、イスラエルのすべてを呼び寄せて言った。あなたがたは、エジプトの地で、パロと、そのすべての家臣たちと、その全土とに対して、主があなたがたの目の前でなさった事を、ことごとく見た。
あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、それは大きなしるしと思議であった。
しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった
 
 
 この箇所では、モーセが出エジプトの際に十の奇蹟と紅海が分かれる奇蹟を体験したイスラエルの民に向かって語り掛けています。
 
 聴衆は「自分の目で」「大きなしるしと不思議」を見た人々です。
 
 しかし4節を見てください。
 
主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった
 
 とあります。
 
 民はしるしと不思議をじかに見ましたが、彼らには悟る心がありませんでした。
 
 「悟る」と訳されているヘブル語は「ヤダー」という言葉で、「知る」という意味です。
 
 ですから十の奇蹟と紅海の奇蹟を目の当たりにしたにもかかわらず、人々は「知る心」を持たなかったことがわかります。
 
 神や神の真理を、彼らは知ることができませんでした。
 
 マッキントッシュという聖書注解者は、4節について次のようにコメントしています。 
 
 

これは異様なほど厳粛です。最も驚嘆すべき奇蹟としるしが、心に触れることなく、目の前を通り過ぎてゆきことがあるかもしれないのです。これらの奇蹟やしるしは、思いや感情に一時的な影響をもたらすかもしれません。しかし良心というものは、神の臨在の光の中に入れられない限り、そして心が御霊の力により直接、真理のもとに連れて来られない限り、恒久的な実を結ぶに至らないのです。
                                                           (引用終わり)
 
 このように、しるしと不思議を体験しても、それだけでは霊的成長は起こりません。
 
 主との親密さを深めることもありません。
 
 では、何が霊的成長をもたらすのでしょうか。
 
 
●霊的成長の要因

エペソ41315(新共同訳)
ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 
むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 
 
 
 この箇所にあるとおり、霊的成熟は聖書の真理にふれることによって起こります。
 
 パウロは、一人ひとりのクリスチャンが「奉仕の働き」をする必要があると言っています(12節)。
 
 その奉仕の働きの中で「真理」を語ることにより、霊的に成長すると教えているのです(15節)。
 
 
 パウロ書簡では、しばしば「(教会の)建て上げ」という表現が使われているのを目にします。
 
 「建て上げ」は「オイコドメー」というギリシャ語で、意味は「啓発すること」です。
 
 つまりクリスチャンは、聖書の真理を語り、啓発し合うことにって成長するのです。
 
 
 
●まとめ
 
 エペソ414を見ると、
 
誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教え」とあります。
 
 これはエペソ教会が影響を受けていたにせ教師の働きのことです。
 
 にせ教師はクリスチャンを「誤り」に導こうとします。
 
 彼らの教えは、「風のように変わりやすい教え」です。
 
 そのような教えに「もてあそばれたり、引き回され」てはならないとパウロは教えています。
 
 しるしと不思議を体験しても、キリストに向かって成長することはできません。
 
 聖書の中にある真理に目を向けましょう。

 
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 キリスト教界ではしるしと不思議を追い求めたり、霊的な現象を体験することがブームになっていますが、聖書は逆に、しるし求めることは悪であると教えています。

 現代のクリスチャンは、どちらを選ぶか試されているのではないでしょうか?
 
 
ヨハネ2069
シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
 
 
聖書理解の欠如
 
 ヨハネからの引用箇所に、イエスの墓を覗き込んだ弟子たちが「見て、信じた」という光景が描写されています。
 
 9節には説明があり、弟子たちはイエスの復活に関して「聖書を、まだ理解していなかった」ことがわかります。 

 見なければ神の現実を信じることができない、

 というのは理想的な姿ではなく、
 
 神の事柄は聖書にすでに書かれているので、
 
 聖書を調べればわかるはずだというのがこの箇所のメッセージです
 
 
 体験しなければ神がわからないというのは、
 
 聖書理解が足らないことの表れだということです。
 
 
信じるのが遅い
 
ルカ242425
それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。 
するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち
 
 
 上記の並行記事であるであるルカ24章を見ると、ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」とイエスから叱責されています。
 
 「鈍い」と訳されているブラドゥースというギリシャ語は、「遅い」という意味のことばです。
 
 ですからイエスは、起きた現象を見てから信じるでのは、信じるのが「遅い」と叱責しているのです。
 
 27節ではイエスが二人の弟子に聖書からご自分のことを説明しており、

 やはり聖書を調べれば神の現実が書かれているので、

 聖書に尋ねたほうが早くわかるというメッセージが

 こちらの箇所でも語られています。
 

 実際、英語の聖書では「遅い」という言葉を使って訳しています。
 
NIV
"How foolish you are, and how slow of heart to believe all that the prophets have spoken!
 
「あなたがたは何と愚かなことか、何と心が遅いことか。預言者たちが語ったすべてを信じないとは!」
 
 
幸いな信仰とは?
 
ヨハネ2025
しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
 
 トマスは上記のように言い、「しるし」を求めました。
 
 しかしトマスに対するイエスの答えはこうです。
 
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(同29節)
 
  
 これらの箇所からわかるとおり、見なければ満足できない、信じられないという信仰は、聖書理解に欠けていて、遅くて鈍い信仰です。
 
 一方、見ずに信じる姿勢は、神から称賛される幸いな信仰です。
 
 
しるしの追及は霊的姦淫
 
マタイ123839
そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。 しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています
 
 
 この箇所からわかるのは、

 神にしるしを求めることは霊的姦淫であり偶像崇拝だということです。
 
 しかしこんにち、どれほど多くのクリスチャンがイエスにしるしを求めているでしょう。

 キリスト教史上、現代ほど多くのクリスチャンがしるしを求めている時代はありません。明らかにおかしな状況、「悪い、姦淫の時代」です。
 
 
成熟した信頼
 
 ジョニー・エレクソン・タダは、次のように述べています。
 
「私は車椅子に縛られて生きています。でも、私には体のいやしよりも、主イエスご自身が必要なのです。癒されなければならないのは体だけではなくて、私の心、私の魂だからです。私は何よりも主イエスを必要としています。」 
 
「自分の病を、神に会う準備として見るなら、二度とそれを苦しみと呼ぶようなことはしないでしょう。(中略)自分の体の麻痺は賜物だと考えています。イエスが、十字架の意味を、拷問のシンボルから、希望と救いのシンボルにと変えたように、イエスは私に、車椅子について同じことをする恵みを与えて下さいます。十字架が祝福となりうるなら、車椅子だってそうです。

 
 
 
●まとめ
 
 ジョニーの信仰と、しるしや不思議を求める信仰、
 
 どちらがイエスの心を表しているでしょうか?
 
 
 しるしを求めるなら「悪い」と叱責されます。

 見ずに信じるなら称賛されます。
 
 しるしや不思議を求めている方々は、イエスからほめられることを選ぶか、叱責されることを選ぶか、ぜひ考えてほしいものです。
 
 
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