ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

カテゴリ: ピーター・ワグナー/NAR

 その1のつづきです。


モルモン教の啓示論=NARの啓示論
 
 以下に引用するのはモルモン教の大会の報告記事で、「神は預言者を現在も召される」というタイトルです。
 
「神は預言者を現在も召される」

 
私たちは、大管長会と十二使徒の会員は預言者、聖見者、啓示者であると信じています。では、預言者の役割は何でしょうか?『預言者は地上にいる神の家族を見守る管理者の務めを果たします。』(『わたしの福音を宣べ伝えなさい』33ページ参照)預言者はキリストが救い主であることを証します。(使徒行伝10章43節)又、神から戒めや啓示を受け、わたしたちに教えを授けます。私たちの将来について予告されることもあります。エペソ人への手紙2章1920節には、『教会は使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられる』とあります。この聖句から教会には預言者が必要であることがわかると思います。

                                              (強調はダビデ)
 
 文中には、預言者は・・・わたしたちに教えを授けます」とあり
 
 モルモン教も預言者を通して、現代新しい真理(教義)啓示されることを信じていることがわかります。
 
 つまりワグナーらNARの啓示論、モルモン教の啓示論は同じだということです
 
 
●聖書解釈の構造的問題
 
 カトリックは、聖書の他に「聖伝」も聖典として信じています。聖伝とは外典や偽典などのことで、プロテスンタントが聖典の条件を満たさないと判断して切り離した書物です。
 
 カトリックの教義は、聖書+聖伝に一致していることが前提となるため、教えの内容が非聖書的になるとしても聖伝の範囲にとどまることになります。
 
 しかしNARの場合、「その啓示がすでに聖書に書かれていることと矛盾しない」としつつも、聖書外啓示(新しい真理の啓示)を信じているので、聖書の解釈を捻じ曲げればいくらでも非聖書的な教えを考案できる構造になっており、そこから次々に偽りが生み出されています。
 
 
●結論
 
 ピーター・ワグナーやNARの聖書観や啓示論は間違っています。
 
 NARの啓示論がモルモン教と同じである点や、

 これまでの説明から、NARがカルト的であることは明白です
 
 ピーター・ワグナー、ビル・ジョンソン、クリス・ヴァロトン、マイク・ビックル、トッド・ベントリー、その他、NARの働き人の教えを信奉している方々は、聖書そのものに立ち返ることをお勧めします。
 

第二テモテ31617
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
 

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*追記
「天使の羽について」の掲載に混乱が生じたようです。以下が正しいアドレスです

 
  前記事で紹介したとおり、ワグナーは「新使徒的改革はカルトではない」と主張していますが、その主張の中には大きな問題があります。この記事ではその点を述べたいと思います。
 
 
●NARの聖書観
 
聖書外啓示神は私たちと直接的な意思疎通をするという考えに、反対する人たちがいます。神が啓示したいと願ったことは、すべて聖書の中に啓示されていると考えているのです。しかしそれは、真実ではありません。なぜなら、聖書は66巻であると聖書の中に書いてないからです。実際、神は200年かけて、どの書を聖書に含め、どの書を除外すべきかを教会に決定させました。除外されたのが聖書外啓示です。しかしカトリックとプロテスタントは、依然として聖書の巻数について合意していません。それに加え、私は祈りが双方向のものだと信じています。私たちは神に語り、神は私たちに語ってくださると期待する、ということです。私たちは神の声を聞くことができます。神はまた、新しい事柄を預言者に啓示するのを私たちは見てきました。神からの新しい啓示を判別する主要な規則は、その啓示がすでに聖書に書かれていることと矛盾しないということです。しかし新しい啓示が、聖書を補足することはあるかもしれません。
                                               (引用終わり)
「新使徒的改革はカルトではない」
 

●聖書による指摘
 
{聖書外啓示」「聖書は66巻であると聖書の中に書いてない」
「カトリックとプロテスタントは、依然として聖書の巻数について合意していません。」
 
 これらの言葉によってワグナーは、神の啓示の範囲を広げようとしています
 

 私たちプロテスタントは、
 
 第二テモテ31617や黙示録221819に基づき聖書の十全性を信じています。
 
 聖書の啓示/真理が増減することはなく、現状で十分にして完全であるという信条です。
 
 ですからワグナーらNARは、聖書観や啓示論の点でプロテスタントではないことを、はっきりと宣言してるこちになります。
 
 
黙示録2218
もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる
 
 特に上記の箇所は、聖書に新しい真理や聖典が付け加えられることはないと言っており、
 
 聖書「完結した啓示」あることを教えてます。
 
    
 しかしワグナーは
 
 「神はまた、新しい事柄を預言者に啓示するのを私たちは見てきました」
 
 と言っています。
 

 英文は He also reveals new things to prophets as we have seen.”で
 
 「真理」という言葉の代わりに「新しい事柄」と表現していますが、
 
 ①「聖書外啓示」を信じると主張している点や
 
 ②前後の脈絡から、

 NARがこんにちでも預言者を通して新しい真理が啓示される
 
 信じていることは明らかです。 

 
 NARのメンバーを通して、聖書と矛盾する教えが次々に生まれているのはこのためで、NARの聖書観や啓示論が、カルト的であることを示しています。
 
 
●カトリックも認める
 
 聖典がこれ以上付け加えられないことは、ローマ・カトリックも認めています。
 
引用サイト:カトリック・アンサーズ
 

聖書全体の聖典は、4世紀が明ける頃には実質的に決定されていました。それ以前は、聖典に関する意見の不一致があり、十数種類の異なる聖典のリストがありましたが、それらのリストのどれひとつとして、こんにちの聖書と合致するものはありませんでした。しかし4世紀が明ける頃には、聖典が正式に確認された(会議の)事例が少なくとも5回ありました。次の通りです。ローマ会議(382年)、ヒッポ会議(393年)、カルタゴ会議(397年)、法王イノケンティウス1世よる書簡(405年)、第二カルタゴ会議(419年)。それぞれの事例において、こんにちのカトリック聖書と同じ内容の聖典として確認されました。
                                                (引用終わり)
 
 このようにローマ・カトリックも聖書すでに確立しており、聖典や啓示がこれ以上増えることがないことを認めています
 
 つづく 

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 このブログで取り上げてきた、ビル・ジョンソン、クリス・ヴァロトン、マイク・ビックル、トッド・ベントリーなどの説教者は、新使徒的改革(NAR)というグループに所属する人たちです。
 
 NARを統括するリーダーは存在しないとのことですが、NARの名付け親であるピーター・ワグナーが理論面でのスポークスマンになっていることは確かです。
 
 NARにはいくつかの特徴がありますが、その中でも、私が諸悪の根源と見なしている彼らの聖書観について考えたいと思います。
 
 
聖書外啓示
 
 以下のサイトは「カリスマ」という雑誌のウエブページです。ピーター・ワグナーによる「新使徒的改革はカルトではない」という記事を掲載しており、ここから「聖書外啓示」の箇所を抜粋します。
 
「新使徒的改革はカルトではない」
 
聖書外啓示神は私たちと直接的な意思疎通をするという考えに、反対する人たちがいます。神が啓示したいと願ったことは、すべて聖書の中に啓示されていると考えているのです。しかしそれは、真実ではありません。なぜなら、聖書は66巻であると聖書の中に書いてないからです。実際、神は200年かけて、どの書を聖書に含め、どの書を除外すべきかを教会に決定させました。除外されたのが聖書外啓示です。しかしカトリックとプロテスタントは、依然として聖書の巻数について合意していません。それに加え、私は祈りが双方向のものだと信じています。私たちは神に語り、神は私たちに語ってくださると期待する、ということです。私たちは神の声を聞くことができます。神はまた、新しい事柄を預言者に啓示するのを私たちは見てきました。神からの新しい啓示を判別する主要な規則は、その啓示がすでに聖書に書かれていることと矛盾しないということです。しかし新しい啓示が、聖書を補足することはあるかもしれません。
                               (引用終わり)
 
●問題点

 上記の説明で問題となるのは、「新しい事柄を預言者に啓示する」と「新しい啓示が、聖書を補足することはある」という部分です。
 
 これは、聖書を神の唯一の啓示と見なしてはおらず、こんにちでも新しい真理が追加されうることを意味しています。これは実質的にカルトの条件の一つです。
 
 NARの聖書観は、体験と真理を結びつける点で、以下の「新正統主義」や「神秘主義的聖書観」と似ています。
 

新正統主義
 新正統主義の聖書観。この聖書観は、実存主義哲学の影響を受けています。彼らは、聖書は神のことば(メシア)を証しするものであるが、過ちも含んでいると主張します。また、聖書の中から「神のことば」を見つけ出すことが人間の役割であり、そのためには、「神との出会い」が必要であるとも言います。聖書よりも、「神との出会い」体験を上に置くのが彼らの立場です。ただし、どれが「神のことば」であるかについて意見の一致がないのが問題です。
 
 
神秘主義的聖書観
 神秘主義的聖書観。神秘主義の特徴は、聖書よりも経験を上に置くことです。彼らは、経験に合致するものは真理であり、そうでないないものは真理ではない、と主張します。また、聖書は神のことばではあるが、それ以外にも霊的真理はあると考えますそのような霊的真理は、神秘的体験によって与えられるというのが彼らの主張です。(強調はダビデ)
 
 
 
●正しい聖書観
 
 プロテスタントのクリスチャンが立つべき聖書観は、以下の正統主義です。
 
正統主義的聖書観 
 正統主義は、聖書以上に権威あるものが別にあるという考え方を否定し、聖書に最高の権威を認めます。これこそが聖書的立場です。以下の3点が正統主義の非常に重要な告白内容です。聖書は、誤りなき神のことばである。聖書の原典は、霊感を受けて書かれており、なんの誤りも含まない。聖書は、信仰と生活に関する唯一で最終的な権威である。
                                 (一部編集)
 
 
●まとめ
 
第二テモテ11315
あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。あなたの知っているとおり、アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました。その中には、フゲロとヘルモゲネがいます。
 
 
 ピーター・ワグナーは、元フラー神学校の宣教学の教授です。フラー神学校の「信仰告白」には、聖書観について以下のように書かれています。
 
III. Scripture is an essential part and trustworthy record of this divine self-disclosure. All the books of the Old and New Testaments, given by divine inspiration, are the written word of God, the only infallible rule of faith and practice. They are to be interpreted according to their context and purpose and in reverent obedience to the Lord who speaks through them in living power. 
 
 
3.聖書は、神による自己啓示の本質的な分部であり、信頼に足る記録である。旧新約聖書のすべての書は神の霊感によってもたらされ、文字として書かれた神の言葉であり、唯一の誤りなき信仰と生活の規範である。聖書は生ける力によってこれをお語りになった主に対する畏敬の念と従順の中で、文脈と目的に応じて解釈されるべきである。
 
 
 上記には「旧新約聖書のすべての書は・・・唯一の誤りなき信仰と生活の規範」とあり、教授であったワグナーも当然これを信じ、同意していたはずです。
 
 ワグナーは先述のNARの聖書観の中で、部分的に正しいことを含めつつ、もっともらしいことを説明をしていますが、聖書以外の情報に信頼するという点で、彼の聖書観は新正統主義や神秘主義的聖書観と同類です。
 
 どうやらワグナーは、キリスト教界の現象を調べていく中で、聖書よりも現象のほうを重視し始め、聖書観がズレてしまったようです。
 
 今のワグナーは、第二テモテの「フゲロとヘルモゲネ」のように「健全なことば」から外れてしまっています。
 
 
 昨今、カリスマ・ペンテコステ界で問題になっている様々な偽の教えの根源は、間違った聖書観に基づいています。
 
 NARが目指すのは、ローマ・カトリック、正教会、プロテスタントに次ぐ、第四の宗派です。
 
 彼らの教えを信奉している日本のクリスチャンの多くは、行き着く先を知らずに信じ込んでいるのかもしれません。
 
 気づいてみたらプロテスタントではなくカルト信者になっていた、ということにならないよう、間違った聖書観にたった教えを警戒し、見分けていきましょう。
 
 
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*「天使の羽について」の掲載で混乱があるようです。以下が正しいアドレスです。

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