ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

カテゴリ: 政府/政治

 
人を赦せとありますが、赦すべきなのは同じクリスチャンであり、相手が本当に悔い改めている場合ですか?
 
 この疑問に対する答えは、すでに前回の記事に取り上げたイエスさまとステパノの手本に見られると思います。
 
 二人の祈りにある「彼ら」の中には、悔い改めない不信者も含まれているからです。

 それでは、次の質問に進みましょう。
 
 
赦しの内容は個人的な怒りや憎しみ、復讐心を取り除くことですか?
 
 必ずしも、そういった感情が消えてなくなることだとは思いません。
 
 仮に感情が伴わなくとも、相手を赦すという意志による決心(信仰)とそれに基づく告白や宣言をするなら意味があると思います。
 
 
へブル11:1
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
 
 
 上記にあるとおり、信仰とは目に見えないものを信じることです。
 
 自分の中に、目に見えるほど明確な赦しの気持ちがなくても、信仰によって赦すと決めるなら、それが実現するはずです。
 
 ただし、自分自身の心も傷ついているはずなので、主の慰めと癒しを求めるべきだと思います。
 
 
相手を訴えるのもやめなければならないのですか?
 
 これは、法的な訴訟を意味するという前提でお答えします。
 
 もし相手の行為によって経済的損失を被ったり、怪我や精神疾患を負わされた場合、
 
 つまり、相手が法的に責任を取り、社会的に償う必要がある場合、法に訴えても良いと思います。
 
 そういう場合は、もはや宗教的な領域を超えているからです。
 
 イエスさまは、以下の箇所で政教分離の原則を示されました。
 
 政教分離の原則に関する詳細は、次の過去記事をご覧ください。
 
 

 使徒パウロも、ローマ人への手紙の中で政府の役割を教えています。
 
 
ローマ13:4
それは、彼支配者=政府)あなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。
 
 
 このように、政府は国民の益のために、神が立てたしもべなのです。

 このしもべは、悪を行う者を罰する責務を帯びているのです。
 
 また、この世の制度や法律は、政府という神のしもべによって作られました。
 
 ですからペテロは、次のように教えています。
 
 
1ペテロ2:1315 
人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。
 
 
 つまり、法律は国民に益を与え、悪を行なう者を罰するために存在しているのです。
 
 ですから、クリスチャンも必要であれば法に訴えることができるのです。
 
 この結論は、残りの質問にも答えると思います。
 
また、クリスチャンの敵への愛や赦しの教義を悪用され、つけこまれるのはどのようにして防げますか?それともつけこまれるままでいなければならないのでしょうか?
 
 様々な法や制度を運用すれば良い、というのが答えになると思います。
 
 ただし、何でもかんでも法に訴えるのではなく、相手の行為の悪さや、受けた被害の程度にもよると思います。
 
 おわり

 
 クリスチャンは、旧約聖書の律法を守るべきでしょうか?十戒も律法の一部ですが、これについてはどうなのでしょうか?

 この記事では、時事問題をたたき台にして考えてみたいと思います。

☆ ☆
 
 先ごろトランプ大統領は、難民一時受け入れ停止の大統領令を出しました。その際、クリスチャンの難民を優先的に米国に受け入れることにしたとのことです。
 
 しかしクリスチャン・トゥデイによると、この大統領令に対してキリスト教団体の間で意見が分かれており、ある団体は評価し、別の団体は批判しています。
 
 批判の一例を抜粋します。
 
一方、福音派の世界組織である世界福音同盟(WEA)は、聖書は「在留異邦人」を「愛し」「虐げてはならない」と教えていると述べ(レビ記19:33~34、マタイ25:34~36)、難民を歓迎するよう呼び掛けた。
 
 
 言うまでもなく、レビ記は旧約(古い契約)です。WEAは、現代のクリスチャンも古い契約を守るべきだと言っているのでしょうか?
 
 
律法は今も有効かつ有益
 
マタイ5:17~19 
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
 
 イエスさまは18節で、「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません」と言っています。
 
「すたれる」と訳されているのはパレルホマイという言葉で、「過ぎ去る、消滅する」という意味です。
 
 こんにち、天地はまだ滅び失せていませんから、律法はまだ存続しており、有効だということです。
 
 
ローマ3:31 
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。
 
 上記のパウロの言葉はとても明確です。「律法を無効にするのでしょうか」という設問に対して、「絶対にそんなことはありません」と自答しています。
 
 
2テモテ3:16 
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
 
 この箇所の「聖書」というのは、第一義的には旧約聖書のことです。パウロがこの手紙を書いたとき、新約聖書はまだ成立していません。
 
 ですからパウロは、旧約聖書はクリスチャンの「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」だと言っているのです。
 
 
律法は古びた
 
へブル8:8、13
主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。
 
ローマ6:14 
なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。 
 
 一方、へブル書の著者は、旧約(律法)は「古びた」と言っています。またパウロは、クリスチャンは「律法の下にはない」と言っています。
 
 
使徒15:10~11、19~20 
それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。
そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけませんただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。
 
 使徒たちは、クリスチャンが律法を守るべきかについて会議を開きました。ペテロは律法に関して、「先祖も私たちも負いきれなかったくびき」だと言っています。
 
 ヤコブが最後に意見をまとめていますが、それによるとクリスチャンは律法を守る必要がありません。
 
 一見、矛盾するようなことが言われていますが、これをどう理解すればよいのでしょうか?
 
 
まとめ
 
 参考サイトの一つは、次のようにまとめています。
 
律法の戒めは、ためになるもの(instructive)ではあるが、クリスチャンにとって強制的なもの(imperative)ではない。律法は知識を提供するもの(informative)ではあるが、守らなければならない基準(normative)ではない。

律法は古代のイスラエル人に書かれたものであって、クリスチャンのための規範ではない。律法の中のどの戒めがこんにちのクリスチャンに適用されるかを知るには、新約聖書に尋ねなければならない。
 
 

 律法や旧約聖書のその他の書物は、神の御心や神の性質を教えてくれます。しかしクリスチャンは、必ずしもそこに書かれている通りにしなければならないというわけではありません。
 
 十戒には神の御心の基本的なことが表されていますが、第四戒の安息日の規定は、明らかに古代のユダヤ人のためのもので、新約の民は守る必要がありません。

 十戒も私たちにとっては直接の命令ではなく、そこに示されている神の御心を、新約聖書に照らして守ればよいのです。
 
 トランプ大統領の難民政策の話に戻るなら、レビ記の御言葉は、米国民が絶対に守らなければならないというのものではありません。神の御心が表されている箇所として、参考にするというのが正しい姿勢です。
 
 一方、ローマ1317は現代社会における政府の役割と、それに対するクリスチャンの義務を教えています。
 
 特に4節には、「彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います」とあり、政府の役割の一つは、国民を「悪を行なう人」から守ることだと教えています。
 
 ですから、大統領令がその役割を果たすものであるなら執行すべきですし、逆にテロからの防備効果が期待できず、難民に与える損害のほうが大きいのであれば修正すべきだということです。

 律法はこんにちも有効であり、すたれていません。パウロは、「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」だと言っています。しかし新約の民にとって、絶対に守らればならない規範というわけではないのです。


 
 読者の皆様へ

 いつもお読みくださりありがとうございます。
 
 以下のブログ記事は転載記事の転載ですが、
 
 日本人クリスチャンにとって、とても重要なことが書かれています。
 
 長文ですが、途中まででも結構ですので、
 
 ぜひ目を通していただきたいと思い、投稿することにしました。

 
 
*「巡礼者の小道」ブログのブログ主様の了承を得て転載しています。

イメージ 1
 インタビューに答えるクレインズ夫妻 


ゴスペル・ヘラルド229日号より
 
 
 話は2013年に遡る。ローレル・ボーマン・クライアーとレイチェル夫人は、クレインズ夫妻と二人が経営するケーキ店を訴えた。クリスチャンであるクレインズ夫妻が、同性婚であるボーマン夫妻のケーキ注文を拒否したためだ。
 
 オレゴン州の労働組合と産業局は、ケーキ店が差別禁止法に違反するとして、クレインズ夫妻に135,000ドルの賠償命令を課した。
 
 しかしアーロン・クレインズ氏は、ゴスペル・ヘラルドのインタビューにこう答えた。
 
「私たちの願いは、仕事をとおして神に栄光を帰すことです。それで私たちは、すべてを神にささげる決心をしました。私たちは聖書的な結婚の意義を信じていますし、信教の自由があることを信じています。」
 
 201512月、クレインズ夫妻は罰金とその利子を含む136,927ドルを強制的に支払わされた。しかしその大半は、サマリタンズ・パースなどを通じて、人々がクレインズ夫妻のために募金したものである。
 
 クレインズ夫妻の弁護士は言う。「オレゴン州政府は、クレインズ夫妻の許可なく夫妻の銀行口座を空にし、罰金を徴収しましたが、話はそれで終わりまんでした。感謝なことに、二人のために立ち上がった人たちから募金が来たのです。それで夫妻は、信仰をアピールするために課された罰金を支払うことができました。」
 
 メリッサ夫人は言う。「この件は本当にショッキングでした。私たち一家にとって本当に困難なことでした。とても簡単だったとは言えません。私たち夫婦は苦労してビジネスを築き上げてきましたが、あのような形でそれを失ってしまったからです。あれから3年になりますが、今でもあのことで苦しんでいます。それほど大変なことでした。」
 
 ある人は、なぜクレインズ夫妻は、痛みを抱えてまで忍耐するのか不思議に思うかもしれません。諦めれば済むことなのにと。しかし夫妻は、この問題は二人だけのことではなく、遥かに大きな意味を持っていたため、選択の余地がなかったと述べています。
 
 弁護人は言う。「この問題は二人だけのことではなく、もっと広い意味を持っています。二人のケーキ店にこういうことが起きたということは、他の業種を営む人たちにも起こるということだからです。政府は、個人の信条と異なることを強要すべきではありません。また個人の信条に対して、罰を課すべきでもありません。信教の自由を失うなら、アメリカ国民全体が苦しむことになるのです。」
 
 このような迫害を体験したにもかかわらず、クレインズ夫妻は自分たちの責任を大切にしつづけている。実際、昨年の8月、夫妻は11の性的マイノリティー団体に特製のケーキを贈呈し、「あなたがたを愛しています」というメッセージを送った。
 
 メリッサ夫人は言う。「私たちは彼らに愛を示したかったのです。ケーキを贈ることが、私たちにできる最良の方法でした。私たちはすべての人に仕えているのです。私たちは、私たちを訴えたご夫婦に仕えましたが、もしまた訴えられたとしても、また仕えるつもりです。」
 

あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい
                              マタイ54041
 
 
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 ウエイン・グルーデム著「聖書に基づいた政治」から、政教分離の原則について抜粋します(P24P25P99P100
 
 
それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」  
                               マタイ22:21
 
 マタイ22章でユダヤ人たちは、イエスを罠にかけようとして尋ねた。「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか」(マタイ22:17)。
 
 ここでローマ政府への納税を肯定すれば、ローマ帝国を憎んでいたユダヤ人たちの反感を買うことになる。納税を否定すれば、ローマの権力に逆らう危険な革命家ということになる。この状況でイエスは、驚きの回答を提示する。
 

「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」

彼らは、「カイザルのです。」と言った。そこで、イエスは言われた。

それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」  
                               マタイ22:20~21
 

 この見事な答えの中でイエスは、社会には異なる二つの領域があることを教えている。ひとつは政府であり、もうひとつは宗教である。
 
 たとえば納税(カイザルのものはカイザルに返しなさい)は、政府の領域に属する行為である。教会はこの領域に関する事柄を統治すべきではない。一方、宗教に関すること(神のもの)について、政府は統治すべきではない。
 
 
 イエスは、ルカの福音書の中でも政教分離に触れている。
 
群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」(ルカ12:13~14)
 
 このやり取りの中でイエスは、「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか」と言って、政府の事柄に参与することを拒否している。
 

 教会が国家の統治に参与べきでないのであれば、中世において多くの教皇が、王や皇帝に対して権威をふるったことは間違いだったと言える。
                             (引用終わり)
 
 
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