「人を赦せとありますが、赦すべきなのは同じクリスチャンであり、相手が本当に悔い改めている場合ですか?」
二人の祈りにある「彼ら」の中には、悔い改めない不信者も含まれているからです。
それでは、次の質問に進みましょう。
「赦しの内容は個人的な怒りや憎しみ、復讐心を取り除くことですか? 」
必ずしも、そういった感情が消えてなくなることだとは思いません。
仮に感情が伴わなくとも、相手を赦すという意志による決心(信仰)とそれに基づく告白や宣言をするなら意味があると思います。
へブル11:1
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
上記にあるとおり、信仰とは目に見えないものを信じることです。
自分の中に、目に見えるほど明確な赦しの気持ちがなくても、信仰によって赦すと決めるなら、それが実現するはずです。
ただし、自分自身の心も傷ついているはずなので、主の慰めと癒しを求めるべきだと思います。
「相手を訴えるのもやめなければならないのですか?」
これは、法的な訴訟を意味するという前提でお答えします。
もし相手の行為によって経済的損失を被ったり、怪我や精神疾患を負わされた場合、
つまり、相手が法的に責任を取り、社会的に償う必要がある場合、法に訴えても良いと思います。
そういう場合は、もはや宗教的な領域を超えているからです。
イエスさまは、以下の箇所で政教分離の原則を示されました。
政教分離の原則に関する詳細は、次の過去記事をご覧ください。
使徒パウロも、ローマ人への手紙の中で政府の役割を教えています。
ローマ13:4
それは、彼(支配者=政府)があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。
このように、政府は国民の益のために、神が立てたしもべなのです。
このしもべは、悪を行う者を罰する責務を帯びているのです。
また、この世の制度や法律は、政府という神のしもべによって作られました。
ですからペテロは、次のように教えています。
1ペテロ2:13~15
人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。
つまり、法律は国民に益を与え、悪を行なう者を罰するために存在しているのです。
ですから、クリスチャンも必要であれば法に訴えることができるのです。
この結論は、残りの質問にも答えると思います。
「また、クリスチャンの敵への愛や赦しの教義を悪用され、つけこまれるのはどのようにして防げますか?それともつけこまれるままでいなければならないのでしょうか?」
様々な法や制度を運用すれば良い、というのが答えになると思います。
ただし、何でもかんでも法に訴えるのではなく、相手の行為の悪さや、受けた被害の程度にもよると思います。
おわり