ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

カテゴリ: 繁栄の福音


 最終回です
 
引用元:ゴスペル・コーアリション
 
 
誤り5:祈りは、神に繁栄をもたらさせる道具である
 
 繁栄の福音の説教者は、「得られないのは、願い求めないからです」(ヤコブ42)を頻繁に引用します。そして、人生のあらゆる領域で成功できるよう祈りさないと勧めます。
 
 クレフロー・ダラーは次のように述べています。
 
「求めているものをすでに受けたと信じて祈るなら、神はいやおうなしに、その祈りに答えざるを得なくなる。・・・これこそ祈りの答えを得る秘訣なのだ。」
 
 個人的な祝福を求めること自体は、間違いではありません。しかし繁栄の福音のように、祈りは、信者の願望を神に叶えさせる道具だと教えるのは行き過ぎです。
 
 繁栄の神学では、祈りの焦点が、神ではなく人間にすり替えられています。興味深いのは、繁栄の福音の教師たちが、ヤコブの言葉の後半部分を教えないことです。
 
願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。(ヤコブ43
 
 神は、御名が崇められることのない利己的な祈りには答えないのです。 

 確かに私たちの願いを、すべて神に知っていただくべきです(ピリピ46)。しかし繁栄の福音は人間の願望にあまりにも焦点を当てすぎていて、信者に利己的で表面的な祈りをさせてしまう恐れがあります。そのような祈りは神に栄光を帰しません。
 
 また(誤り4で述べた)信仰に関する教えと組み合わさった場合、クリスチャンたちは、神を操り、欲しいものを手に入れようとするかもしれません。それは徒労ですし、「御心がなりますように」という主の祈りからもほど遠いものです。
 

偽の福音
 
 聖書に一貫している教えと比較すると、繁栄の福音には根本的な間違いがあります。突き詰めて考えると、繁栄の福音は偽の福音です。神と人の関係に根本的な間違いがあるからです。
 
 もし繁栄の福音が正しいとすると、すべての点で人間が主体になってしまい、神はそっちのけで恵みが無意味になってしまいます。
 
 たとえアブラハム契約や贖い、献金、信仰、祈りについて述べてはいても、繁栄の福音は、神と人間の関係をギブ・アンド・テイクの取引に引き下げています。
 
 クリスチャニティー・トゥデイで1990年にジャームズ・ゴフが述べたとおり、繁栄の福音は、神を人間の必要や願望のために奉仕する「霊的ベルボーイ」に貶めてしまうのです。
 
 そのような概念は、神と人の関係を適切に表現しておらず非聖書的です。
 

おわり
 
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 「繁栄の福音」の誤りの4番目です
 
引用元:ゴスペル・コーアリション
 
 
誤り4:信仰とは繁栄をもたらすために自分で作り出す力である
 

 正統なキリスト教では、信仰とはイエス・キリストという人格に信頼することであると理解されてますが、繁栄を教える教師たちは随分と違う説明をしています。
 
 コープランドは著書「繁栄の法則」の中で、次のように書いています。
 
「信仰とは霊的力であり、霊的エネルギーであり、霊的原動力である。信仰とは、霊的領域の法則を機能させる力だ。神の言葉の中には、繁栄を司る法則が啓示されている。その法則を機能させるのが信仰なのである。」
 
 これが間違っていることは明らかで、信仰の概念としては異端的と言えるほどです。
 
 繁栄の神学によると、信仰は神から与えられるものでもなければ、神に焦点を当てる意志の営みでもありません。むしろ人間によって作り出され、神に向けて方向づけされた霊的力にすぎないのです。
 
 神から義と認められる手段ではなく、物質的利益の獲得手段として信仰を理解する神学は、よく言ったとしても不適切、と判断しなければなりません。
 
 
つづく
 
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 「繁栄の福音」の誤りの3番目です
 
引用元:ゴスペル・コーアリション
 
 
誤り3:クリスチャンは物質的な見返りを得るために献金するのだ
 
 繁栄の神学で一番目立つ特徴といえば、献金への執着です。私たちは、気前よく献金するよう勧められます。それには、敬虔さを刺激する次のような言葉が伴います。


「真の繁栄とは、神の力を用いて生活のあらゆる領域で人々の必要を満たすことです」

「私たちは福音を世界に届けるために、資金提供するよう召されているのです」

 
 こういった掛け声は称賛に値するもののように思えるかもしれませんが、献金を強調する動機となっているのは博愛主義にすぎません。繁栄の福音の原動力となっているのは、ロバート・ティルトンが言うところの「補完の原則」です。
 
 補完の原則はマルコ1030に基づいていると言われています。この原則によると、クリスチャンが気前よく捧げるなら、神は幾倍にも増やして返してくださるというのです。その原則に従うことにより、繁栄の循環がもたらされると。
 
マルコ102930
まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません

 
 グロリア・コープランドは、2012年発行の著書「繁栄は神の御心」の中で次のように言っています。「10ドル献金すれば、1000ドル与えられます。1000ドル献金すれば、10000ドル与えられます。・・・つまりマルコ1030は、実にうまい話を提供してくれているのです。」
 
 このように繁栄の福音の教えが、偽りの動機に立脚していることは明らかです。繁栄の福音の教師たちは、もっと大きな見返りが得られるのだから捧げなさいと教えますが、イエスは逆に、見返りを期待せずに捧げるよう教えています。
 
彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」(ルカ1035


追記:マルコ1030の意味
 
The Expositors Bible Commentary 

30節の「その100倍を受ける」は、この文脈の中では、信者がイエスにあって参入することになる新しいコミュニティー(教会での人間関係)と理解すべきである。
 
The New Living Translation Study Bible

イエスは弟子たちに、キリストにある新しい家族(兄弟、姉妹、母、子供たち)とキリスト者らしいもてなし(家)を幾倍にも受けることを保証した。
 
 
つづく
 
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 「繁栄の福音」の誤りの2番目です
 
引用元:ゴスペル・コーアリション


誤り2:イエスの贖いは物質的貧しさの罪の赦しも含む
 
 神学者のケン・サールズは「繁栄の福音の神学的評価」という記事の中で、「肉体の癒やしと経済的繁栄は贖いの中に含まれている」と主張しています。
 
 コープランドの次の言葉に照らすなら、サールズの主張は正しく思えます。「クリスチャン生活の基本原則とは、神が罪や体調不良、疾病、悲しみ、嘆き、貧困をイエスの十字架につけたとを知ることである。」
 
 この誤解は、繁栄の福音を提唱する人たちが犯している二つの誤りに起因するもので、贖いの範囲の理解が間違っています。
 
 まずはじめに、繁栄の神学の信奉者の多くは、イエスの公生涯について基本的な誤解をしています。
 
 たとえばジョン・アヴァンツィーニという教師はTBNという番組で、イエスは「大きくて素敵な家」に住んでいた、「イエスは大金を扱っていた」、イエスは「デザイナーズ・ブランドを着ていた」などと教えています。
 
 キリストの公生涯についてこのような曲解をする人なら、キリストの死について曲解しても無理はありません。
 

 贖いに関する二番目の誤りは、第二コリント89の解釈の間違いです。
 
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。
 
 浅い読み方をすると、まるでパウロが経済的な豊かさについて教えているかのように思えます。しかし文脈に従って読むなら、まったく逆の原則を教えていたことがわかります。
 
 パウロがコリント教会に教えていたのは、キリストは贖いにおいて多いなることをしてくださったのだから、クリスチャンは自分を空しくして、自分の経済をもって主に仕えるべきだということです。
 
 ほんの5節あとの14節で、パウロが「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補う」と述べて、貧しい兄弟のために捧げ物をするよう勧めているのはそのためです。
 
 
訳注
主は富んでおられた」=受肉前のキリストが、神として万物を所有している様。
貧しくなられました」=受肉して人間としての制約を受けたこと。疲れ、空腹など。「あなたがたが富む者となる」=キリストの犠牲により信者が霊的に豊かな恵みを受けること。救い、罪の赦し、喜び、平安など。
 
 
つづく
 
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 「繁栄の福音」が誤りであることは広く知られていますが、何がどう間違っているのでしょうか?聖書から具体的に指摘しているサイトがあるので掲載します。
 
引用元:ゴスペル・コーアリション
 
 
誤り1アブラハム契約は物質的な特典である
 
 繁栄の福音の神学的根拠の一つになっているのは、創世記12章、15章、17章、22章に書かれているアブラハム契約です。聖書の大部分はアブラハム契約の成就であることを認めるのはよいとしても、契約に関する正統な見解から逸れるのはよくありません。繁栄の福音を提唱する神学者たちの重大な誤りは、契約の適用の仕方が間違っていることです。
 
 エドワード・ポーソンは著書「炎を広げよ」の中で、「クリスチャンはアブラハムの霊的子孫であり、祝福の相続者である。アブラハムから受け継いだものの中心的な内容は、物質的な特典である」と述べています。
 
 言い換えると、アブラハム契約の中心的な目的は、アブラハムを物質的に祝福することだった、というのです。そしてクリスチャンはアブラハムの霊的子孫なので、経済的な祝福を受け継いでいると。
 
 ケネス・コープランドは著書「繁栄の法則」の中で、「神の契約が交わされたが、その契約の内容は繁栄なのだから、読者はその繁栄が自分のものであることに気づく必要があるのだ!」と書いています。
 
 この概念を裏打ちするために、彼らはガラテヤ314を強調します。その箇所には「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためである」とあります。
 
 しかし彼らは、この聖句の後半を無視しています。そこには「私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」と書かれています。パウロがガラテヤ人に明示したのは救いという霊的祝福であって、物質的な豊かさではないのです。
 
つづく
 
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