最終回です。
引用元:ゴスペル・コーアリション
誤り5:祈りは、神に繁栄をもたらさせる道具である
繁栄の福音の説教者は、「得られないのは、願い求めないからです」(ヤコブ4:2)を頻繁に引用します。そして、人生のあらゆる領域で成功できるよう祈りさないと勧めます。
クレフロー・ダラーは次のように述べています。
「求めているものをすでに受けたと信じて祈るなら、神はいやおうなしに、その祈りに答えざるを得なくなる。・・・これこそ祈りの答えを得る秘訣なのだ。」
個人的な祝福を求めること自体は、間違いではありません。しかし繁栄の福音のように、祈りは、信者の願望を神に叶えさせる道具だと教えるのは行き過ぎです。
繁栄の神学では、祈りの焦点が、神ではなく人間にすり替えられています。興味深いのは、繁栄の福音の教師たちが、ヤコブの言葉の後半部分を教えないことです。
願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。(ヤコブ4:3)
神は、御名が崇められることのない利己的な祈りには答えないのです。
確かに私たちの願いを、すべて神に知っていただくべきです(ピリピ4:6)。しかし繁栄の福音は人間の願望にあまりにも焦点を当てすぎていて、信者に利己的で表面的な祈りをさせてしまう恐れがあります。そのような祈りは神に栄光を帰しません。
また(誤り4で述べた)信仰に関する教えと組み合わさった場合、クリスチャンたちは、神を操り、欲しいものを手に入れようとするかもしれません。それは徒労ですし、「御心がなりますように」という主の祈りからもほど遠いものです。
偽の福音
聖書に一貫している教えと比較すると、繁栄の福音には根本的な間違いがあります。突き詰めて考えると、繁栄の福音は偽の福音です。神と人の関係に根本的な間違いがあるからです。
もし繁栄の福音が正しいとすると、すべての点で人間が主体になってしまい、神はそっちのけで恵みが無意味になってしまいます。
たとえアブラハム契約や贖い、献金、信仰、祈りについて述べてはいても、繁栄の福音は、神と人間の関係をギブ・アンド・テイクの取引に引き下げています。
クリスチャニティー・トゥデイで1990年にジャームズ・ゴフが述べたとおり、繁栄の福音は、神を人間の必要や願望のために奉仕する「霊的ベルボーイ」に貶めてしまうのです。
そのような概念は、神と人の関係を適切に表現しておらず非聖書的です。
おわり
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