ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

カテゴリ: 「被り物」/女性牧師


 R.C.スプロールによる説教です。

 字幕つきで短いのでぜひご覧ください。 




1コリント11:2~16
11:2 さて、あなたがたは、何かにつけて私を覚え、また、私があなたがたに伝えたものを、伝えられたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います。
11:3 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。
11:4 男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。
11:5 しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。
11:6 女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。
11:7 男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。
11:8 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、
11:9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
11:10 ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。
11:11 とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。
11:12 女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。
11:13 あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。
11:14 自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、
11:15 女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。
11:16 たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。


 
 昔のユダヤ教社会では、女性は律法の教育を受けられませんでしたあるクリスチャンサイトに、それを示すラビの言葉が掲載されていました。
 

 "It is better that the words of the Law should be burned than that they should be given to a woman" (jSot. 3.4; 19a).

「女たちに律法の言葉を教えるくらいなら、焼いてしまったほうがましだ。」
 
"If a man gives his daughter a knowledge of the Law, it is as though he taught her lechery" (bSot. 4.3).

「男が自分の娘に律法の知識を与えることは、娘に淫行を教えるようなものだ。」
 
 

イエスは女性の解放者
 
 上記のことを念頭において次の箇所を見るなら、イエスが極めてラディカルに女性を尊重していたことがわかります。

 
ルカ104142
「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
 
 
 ここでイエスは、昔のラビたちと正反対のことを語っています。
 
彼女からそれを取り上げてはいけません。」
 
 
 ところが、話はこれで終わりません。
 
 39を見ると驚くべき事実がわかります。
 
「彼女にマリヤという妹がいたが主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」

 
 ラビが教えを説いているときに「足もとにすわって聞く」というのは、弟子としてまなぶことを意味していました
 
 イエスは、そのようなマリヤの姿勢を歓迎したのです!
 
 
 バイブル・バックグラウンド・コメンタリーには、次のように書かれています。
 
食事をする際、人々は通常、椅子に座るか、カウチに寄りかかって寝そべっていた。しかし弟子たちは教師の足もとに座っていた
 
熱心な弟子たちは教師になる準備をしていたが、その役割は女性には許可されていなかった。

注目に値する例外として、2世紀のラビの娘の実例がある。彼女の父親は学びを積んだラビで、彼女は別の学びを積んだラビと結婚していたが、ほとんどのラビたちは彼女の意見を聞こうとしなかった。
 
イエスの教えを学び取ろうとするマリヤの熱心な姿勢は、伝統的な女性の役割(ルカ10:40)を犠牲にするもので、大半のユダヤ人男性にとっては衝撃的であった。(P218)
 
 
●まとめ

 イエスさまはいろいろな領域でラディカルな姿勢をとっていましたが、女性の自由に関しても極めてラディカルであることがわかります。

 特にイエスさまは、女性が御言葉を学ぶことを驚きのレベルで歓迎されました。

 教会や家庭において、女性が御言葉を学べる機会が増えるといいですね。
 
 
 ↓応援ありがとうございます↓       ↓ご支援を感謝します

 
 ローマ167は、アメリカのカリスマ・ペンテコステ派において、女性の使徒を肯定するためにしばしば引用される箇所です。
 
 「ユニアス」は多くの聖書において男性の名前として訳されていますが、学者たちは女性の名前である可能性が高いと言っています。
 
 また新改訳聖書は「使徒たちの間によく知られている人々」という訳し方をしていますが、
 
 岩波文庫翻訳委員会訳は使徒たちのなかで秀でており」という訳し方をしており、ユニアスが使徒の一員であった可能性を示唆しています。
 

新改訳聖書
 
私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。
 
 
岩波翻訳委員会訳
 
私の〔ユダヤ人の〕同胞であり囚人仲間であるアンドロニコスとユニアとに〔よろしく、と〕挨拶するように。彼らは使徒たちのなかで秀でており私よりも先にキリストにある〔者〕となった人たちでもある
 
 
 前者の場合、アンドロニコスとユニア(ス)は使徒ではないが、使徒の間で有名だったということになります。
 
 後者の場合、ユニア(ス)は使徒の一員であったか、アンドロニコスという使徒の妻であったことになります。
 
 
ユニア=女性=妻
 
 新約聖書学者のダニエル・ウォーレス博士は、以下のリンクにある使徒たちの中のユニアというサイトでこのような結論を出しています。
 
イオニアスが女性名詞か男性名詞かに関するデータの量が不十分であるため、決定的な判断をくだすことはできないが、現存する最小限のデータが示しているのは、女性名詞だということである。
                                (引用終わり)
 
 トーマス・シュライナーはローマ書の注解書の中で、ユニアはアンドロニコスの妻だと述べています。
 
最新の注解書は、ユニアという女性として解釈することに好意的である。これはユニアナス(ユニアス)というギリシャ名が、ギリシャ語の文献のどこにも見当たらないためだ。それゆえ初期の伝統ではユニアを女性と見なしており、ユニアが女性だとするのが適切な結論である。多くの学者はアンドロニコスとユニアは夫婦だと判断しており、その可能性が高い。(P796)
 
 
ユニアは宣教師だった
 
 さらにシュライナーは、二人の働きについて次のように述べています。
 
1コリント15:5、7で、パウロは十二使徒と他の使徒たちを区別しており、両者を同じ存在として考えるのは誤りである。・・・アンドロニコスとユニアが、パウロやバルナバ、またヤコブ(イエスの異父兄弟、ヤコブ書の著者)と同レベルの権威を持っていたということはあり得ない。・・・アンドロニコスとユニアの場合、巡回伝道者が宣教師だったと考えるのが妥当である。(P796)

ユニアやローマ16章で述べられている女性たちが、1テモテ2:11~15にあるパウロの戒めに反して権威を行使していたと結論づけるべきではない。女性たちが初期のキリスト教宣教師として活動していた証拠があり、ギリシャ・ローマ社会の家父長中心社会の中で、女性たちは他の女性に焦点を当てて(奉仕して)いたのかもしれない。(P797)
 
 
 ダグラス・ムーはローマ書の注解の中で、ペテロとその妻が巡回奉仕していたことを例に出して次のように述べています。 
 
アンドロニコスとユニアは、エルサレムにいたギリシャ語を話すユダヤ人の一員だった。ペテロとその妻(1コリント9:5参照)のように、二人は地中海の東側で宣教活動をしていたと推察できる。恐らくそこでパウロと出会い、ともに投獄されたのであろう。(P924)
 
 
●まとめ
 
 ユニアは十二使徒やパウロのような使徒ではありませんでしたが、宣教師あるいは巡回伝道者として、夫ともに奉仕していた可能性が高いと学者たちは結論づけています。
 
 「地の果てまで福音を」ブログのキヌコ姉は、まさに現代のユニアと言えるのではないでしょうか。
 
 日本のクリスチャン女性のみなさんも、時代と場所は違っても、ユニアのような活動をしておられると思います。
 
 みなさんが、今後も主に用いられることをお祈りいたします。
 
 
 ↓応援ありがとうございます↓       ↓ご支援を感謝します



 
 前回は、男尊女卑の社会のただ中で、パウロが、女性も教えを受けるべきだと勧めていることを述べました。この記事では、それ以降の難しい部分を取り扱います。
 
 
第一テモテ21115
11 女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。
12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。
13 アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。
14 また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。
 
 
●創造の秩序(夫と妻)の問題
 
 上記の箇所で「女」と訳されているギリシャ語はグネイという名詞で、「女」「妻」などを意味します。
 
 「男」と訳されているアネヤルは「大人の男性」を意味し、「夫」という意味も含まれます。
 
 それゆえ以下の箇所では、グネイとアネヤルが「妻」と「夫」と訳されています。
 
第一コリント14:33b~35
聖徒たちのすべての教会で行なわれているように、教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。
もし何かを学びたければ、家で自分のに尋ねなさい。教会で語ることは、にとってはふさわしくないことです。
 
 
 1テモテの箇所も、上の1コリ14章や1コリ11章のベール(被り物)の箇所と同じように、創造の秩序に則って語られています。
 
 男尊女卑ではなく、創世記2:18でアダムの「助け手」として創造された役割の違いです。
 
 聖書に一貫して流れている創造の秩序は、現代でも変わっていません。創造の秩序を否定するなら、イエスによる結婚の教えも否定することになります。


 
「教える」=女性教師になる 
 
 12節で「教える」と訳されているギリシャ語ディダスコーには、「教師になる」「教師の職務を果たす」「教師として行動する」という意味があります。
 
 ゆえにマッカーサー・バイブル・コメンタリーは、「この動詞は、『教師になる』と訳したほうが良い」と述べています。
 
 また同コメンタリーは、使徒1826のプリスキラとアクラやテトス234を根拠に挙げ、聖書は女性が教えることを完全に禁止しているのではなく、牧師や教師の職に就くことを禁じているのだとコメントしています。
 
 それゆえ「静かにしていなさい」というのも、教師として教会内で教えないことを意味しているのであり、黙って口を開かないことではないと述べています。
 
 
 エクスポジターズ・バイブル・コメンタリーはこうコメントしています。
 
女性たちは従来、家庭においても教会学校においても、子供たちを教育するという大きな役割を果たしてきた。女性がいなかったなら、教会は何もなし得なかったであろう!
 
  
●まとめ

 聖書が述べているのは、教会内においては女性クリスチャンは何も語れない、ということではありません。

 あくまで大人の男性信者に対して教義を教える、という行為をしないよう教えているのです。

 その他の奉仕をすることは、むしろ多くの箇所で勧められています。女性の方々には、ますます活躍していただきたいですね。

 
 ↓応援ありがとうございます↓       ↓ご支援を感謝します


「地の果てまで福音を」ブログが扱っているテーマに便乗した記事です。
 
 
第一テモテ21115
女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。
私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。
アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。
また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。
しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。
 
 
11節は男尊女卑の逆
 
 まずはじめに、11節について確認します。
 
 バイブル・バックグラウンド・コメンタリーから、2世紀における社会的背景の説明を抜粋します。
 
2世紀に、ラビ・メイアー(Meir)の妻でベルリア(Beruria)という女性がいた。彼女は律法の教育を受けていたが、めったにない例外であった。
 
女性たちは、シナゴーグで律法の釈義を聞くことはできた。また時には、ラビの講義に出席することができた。

しかし大多数のラビは、女性たちを弟子として受け入れることは決してなく、ギリシャ語を話すユダヤ人たちは、ラビたちに比べて、さらにひどい偏見を女性に対して持っていた。
 
離散したユダヤ人のシナゴーグで一部の女性が重要な役割を担っていたり、世俗の社会で高い地位についていた証拠はある。

しかし女性がシナゴーグで傑出していたのは規定によったのではなく、めったにない例外であったことが、同じ証拠によって示されている。
                                 (P611より)
 

 このような社会的背景の中で、聖書はクリスチャンの女性に教えを受けなさいと指示しています。

 これは当時の風潮を翻すような、実に画期的な教えです。聖書の神は、女性の自由を推進しているのです。
 
 
応援ありがとうございます↓       ↓ご支援を感謝します
 

↑このページのトップヘ