この記事では、「救いには行いが必要だ」という概念を100%否定する聖書箇所について述べたいと思います。
ルカ18:15~17・新共同訳
15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
①乳児に「行い」はできない
新改訳の15節では、「幼子たち」を連れてきたと訳されています。
この訳語は間違いではありませんが、「幼子たち」を原文で見るとブレフォスという言葉の複数形が使われています。
織田昭著「新約聖書ギリシア語小辞典」によると、ブレフォスの意味は次とおりです。
胎児(まだ生まれていない子);生まれたばかりの乳児、幼児(P106)
言うまでもありませんが、「胎児」を連れて来ることはできません。
しかし、「乳飲み子」(生まれたばかりの乳児)を連れて来ることは可能です。
ですからこの箇所は、新共同訳のほうが正確な翻訳をしていると言えます。
ここで注目すべきことは、乳児には如何なる行いもできないということです。
また、乳児には他者にひたすら依存することしかできません。
主はそんな「乳飲み子たちを呼び寄せて」、こう言われました。
「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と。
「新約聖書ギリシア語小辞典」では、パイディオンの意味が次のように説明されています。
小さい少年、幼い子供(男女とも)、子供(生まれたての幼児も)(P431)
言うまでもなく、「生まれたての幼児」には「行い」はできません。
つまり、神の国に入るために、行いは一切不要なのです。
神の国に入るポイントは、幼子のように神に依存すること。
主が教えているのは、そういうことです。
②「受け入れる」という姿勢
2番目に注目すべきことは、「受け入れる」という心の姿勢です。
行いをすることで救われようとする場合、それは他者から何かを受け入れるのではなく、自分の力で獲得することです。
ですから行いによる救いという概念は、主が語っておられることとは真逆のスタンスなのです。
これだでけも、行いによる救いという概念が主の教えに反していることが十分にわかります。
③強い否定表現
3番目に注目すべきことは、「決して」入れないと言われていることです。
「決して」という訳語がある理由は、この箇所に「オウ+メー+動詞のアオリスト形」という強い否定を表す表現が使われているからです。
17節の最後のフレーズをギリシャ語で見ると、次のように書かれています。
οὐ μὴ εἰσέλθῃ εἰς αὐτήν.
オウ メー 「入る」のアオリスト ~の中に それ
この表現について、「新約聖書ギリシア語小辞典」には次のように書かれています。
③οὐ μὴ.アオリスト接続法と強い否定または禁止に用いる。
決して(絶対に)ない、あってはならない。 (P422)
この強い否定表現は、マルコの福音書10章13~16節の並行記事でも使われています。
分かりやすく言うなら、行いによって神の国に入ろうとしても絶対に入れないということです。
④アメーン
この箇所のように「アメーン」が文頭に来る場合、その意味は「たしかに、まことに、ほんとうに」となります。
つまり主イエスは、17節の内容は確かだ、ほんとうだと言っておられるのです。
その確かな内容とは、神に寄り頼む心で神の国を素直に受け入れない限り、決して神の国には入れないというものです。
●まとめ
以上、述べてきたとおり、行いによって神の国に入れる可能性はゼロです。
そして、「乳児」には「行い」ができないことでわかるとおり、救われるために「行い」は一切不要です。
神が差し出す救いを「受け入れる」人が、神の国に入るのです。
パウロはこのことを重々承知していたので、次のように書いたのでしょう。
エペソ2:8
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
おわり