ダビデの日記

自分が学んだ聖書の教えに関するブログ

カテゴリ: 聖書協会共同訳

 
 聖書協会共同訳のエフェソ1:11は、次のように訳されています。
 
聖書協会共同訳・エフェソ1:11
キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました
 
 
 従来の邦語訳と異なっているのは、「選び出されました」という部分です。
 
 このように訳された邦語訳は、これまでに一つもありません。
 
 
新共同訳・エフェソ1:11
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました
 
新改訳2017・エペソ1:11
またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。
 
新改訳
私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。
 
口語訳
然り、彼において、凡てを御意の欲いのままに為し得給う御方の考えによって予め定められ、(神の王国の)相続人となったのである
 
 
 聖書協会共同訳の「選び出されました」に相当する部分は、他の邦語訳では「受け継ぐ者となりました/相続者とされました」などと訳されています。
 
 聖書協会共同訳は、どうして「選び出されました」と訳したのでしょうか?
 
 
原語の訳し方による
 
 はじめ私は底本の違いではないかと思い、聖書協会共同訳の底本であるUBS5版を調べてみました。
 
UBS5版・エペソ1:11
ν κα κληρθημεν προορισθντες κατπρθεσιν τοτπντα νεργοντος καττν βουλν τοθελματος ατο
                                 出典:UBS5
 
 しかし、底本の原文に違いはありませんでした。
 
 さらに調べてわかったのですが、この訳文の違いはギリシャ語クレロオー(強調した部分)の訳し方によるものでした。
 
 クレロオーの意味は次のとおりです。
 
①くじで選ぶ、くじで割り当てる、②割り当てる;〔受〕くじで定められる、定められる;〔エイス トー+不定詞〕~となるように、エフェ1:11 
 
               出典:織田昭著「新約聖書ギリシア語小辞典」、P318
 
 辞典によれば、クレロオーの受身形は「くじで定められる」となりますが、聖書協会共同訳はそれを「選び出されました」と訳したようです。
 
 ①に「くじで選ぶ」とありますので、それを若干意訳して「選び出されました」としたのでしょう。
 
 このような訳し方は英語訳聖書にも見られるもので、NIV(新国際訳)が同じように訳しています。
 
NIV
In him we were also chosen, having been predestined according to the plan of him who works out everything in conformity with the purpose of his will,
 
私たちはまた、彼にあって選ばれました。ご自分が御心とする目的のままにすべてのことを行う方のご計画に従って、(私たちは)予め定められていたのです。
 
 
 聖書協会共同訳と似た訳し方をしている英語聖書として、NETバイブルもあります。
 
 
NET Bible
In Christ we too have been claimed as God's own possession, since we were predestined according to the one purpose of him who accomplishes all things according to the counsel of his will
 
私たちはまた、キリストにあって神のご自身の所有とされました。それは、私たちがすべてのことを御心のままに成し遂げられる方の目的に従って予め定められていたからです。
 
 
 NETバイブルの注釈は、訳語の違いについて次のように説明しています。
 
Grk we were appointed by lot.The notion of the verb κληρόω (klhrow) in the OT was to appoint a portion by lot(the more frequent cognate verb κληρονομέω [klhronomew] meant obtain a portion by lot). In the passive, as here, the idea is that we were appointed [as a portion] by lot(BDAG 548 s.v. κληρόω 1).
ギリシャ語の直訳:「私たちはくじで定められた」。旧約聖書における動詞クレロオーの意味は、「くじで割り当てを定める」というものである。…この箇所ではクレロオーが受身形であるため、「私たちは(割り当てとして)くじで定められた」という意味になる(参照:BDAG548)。
 
The words Gods ownhave been supplied in the translation to clarify this sense of the verb. An alternative interpretation is that believers receive a portion as an inheritance: In Christ we too have been appointed a portion of the inheritance.See H. W. Hoehner, Ephesians, 226-27, for discussion on this interpretive issue.
NETバイブルの「神の所有」という訳語は、動詞の含意を補って意訳したものである。別訳:「キリストにあって、私たちも遺産の取り分として定められました」。
 
                              出典:NETバイブル
 
 これまでのことからわかるのは、クレロオーには「くじで(割り当てや取り分を)定める」といったニュアンスがあるということです。
 
 また、相続や遺産の取り分といったニュアンスもあります。
 
「選び出されました」という訳文は間違いではありませんが、シンプルすぎて原語のニュアンスが完全に抜け落ちていると言えるのではないでしょうか。
 
 選ぶという意味だけであれば、エペソ14などで使われているエクレゴーと何ら違いがないことになってしまいます。
 
 
良い点
 
 しかし、シンプルさには、それがもたらす良い点もあります。
 
聖書協会共同訳・エフェソ1:11
キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました
 
 
 このように訳すことで、この聖句に込められた神学的なメッセージがわかり易くなります。
 
 この聖句が教えていることは何でしょうか?
 
 それは、私たちクリスチャンは神の「ご計画に従って」選び出されるという事実です。
 
 神学的な教えの中には、これと矛盾することを教えるものがあります。
 
 それは「アルミニウス主義」と呼ばれる神学体系です。
 
 アルミニウス主義は、人の救いについて次のように教えています。
 
条件的選
神はあらかじめだれがキリストを信じるか見ており、その予知に基づいて信じる者を天国へ選ぶことを決める。
                   出典:ウィキペディア「アルミニウス主義
 
 つまり、神には予知能力があるので、将来的にキリストを信じるとわかっている人を選んで、救いに導くというのです。
 
 しかし、この御言葉は「条件的選び」が誤りであることを明示しています。
 
 神は、「予知に基づいて信じる者を天国へ選ぶ」のではなく、ご自身の「ご計画に従って」選び出される、
 
 それがパウロの教えです。
 
 
●おわりに
 
 以上、聖書協会共同訳のエフェソ1:11についていろいろ述べてきました。
 
選び出されました」という訳語には良い点もあれば、必ずしも良いとは言えない点もあります。
 
 わかり易さという点では評価されるかもしれませんが、原語のニュアンスが失われているという意味で良訳とは言えないかもしれません。
 
 おわり

 
 この記事は、2つの過去記事のスピンオフのようなものです。
 
 前半はピリピ3:9に関する記事を準備していたときに気づいたことであり、後半はローマ3:2128に関する記事を準備していたときに思わされたことです。
 
 
ピリピ3:8の名詞の属格
 
 まずはピリピ3:8について書きます。
 
聖書協会共同訳フィリピ3:89 
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、9キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。
 
 
 私が気づかされたことの一つは、8節の「キリスト・イエスを知ること」という部分の訳し方と関連しています。
 
 この部分には、テース グノセオス クリストゥ イエスゥと書かれています。
 
 クリストゥ イエスゥが属格ですので、「キリスト・イエスの知識」というのが直訳になります。
 
 文法構造だけの視点で言うなら、「知識」の持ち主はキリストになります。
 
 それゆえ、自然な日本語表現にした場合、「キリスト・イエス知っていること」となります。
 
(もちろん、文脈上は「知識」の持ち主がパウロであることは明白ですから、「(パウロキリスト・イエス知ること」という訳し方は正解です) 
 
 さて、聖書協会共同訳は、次の9節では「名詞+名詞の属格」を直訳する立場を取っています。
 
「キリストの真実」という訳語は、ピスティス・クリストゥの直訳です。
 
 この原則に従うなら、8節のキリスト・イエスを知ること」の部分は、「キリスト・イエスの知識」と直訳するのが筋です。
 
 実際、英語訳聖書には直訳しているものが複数あります。

English Revised Version
Yea verily, and I count all things to be loss for the excellency of the knowledge of Christ Jesus my Lord: for whom I suffered the loss of all things, and do count them but dung, that I may gain Christ,

Young's Literal Translation
yes, indeed, and I count all things to be loss, because of the excellency of the knowledge of Christ Jesus my Lord, because of whom of the all things I suffered loss, and do count them to be refuse, that Christ I may gain, and be found in him,
 
                             (強調はブログ主)
 
 両者とも「the knowledge of Christ Jesus/キリスト・イエスの知識」と直訳しています。
 
 このことは、直訳が可能であることを示しています。
 
 にもかからず、聖書協会共同訳は、別訳すらつけずに沈黙しています。
 
 そして、9節の「ピスティス・クリストゥ」だけを「キリストの真実」と直訳しました。
 
 これは、公平さに欠けているとしか言いようがありません。
 
 やはり、信仰義認に対する攻撃ではないかという疑念が払拭できません。
 
 
ローマ3章の区切り方と見出しの悪用
 
 2つ目は、ローマ3:21~28の区切り方と見出しの悪用です。
 
ローマ3:21~28
21しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。22 神の義は、イエス・キリストの真実を通して、信じる者すべてに現されたのです。そこに差別はありません。23 人は皆、罪を犯したため、 神の栄光を受けられなくなっており、神の恵みによって、24 キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義とされるからです。25 神は、イエスを立てて、その真実によって、その血による贖いの座となさいました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした。26 神が忍耐してこられたのは、今この時にご自身の義を示すため、すなわち、ご自身が義となり、またイエスの真実に基づく者を義とするためでした。27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り去られました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。28 なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
 
 
 上記の部分は、実際には以下のように区切られ、各セクションの前にはボールド体で見出しが付けられています(蛇足ですが、実物は縦書きです)。
 
 
  神の義が現された
 21しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。22 神の義は、イエス・キリストの真実を通して、信じる者すべてに現されたのです。そこに差別はありません。23 人は皆、罪を犯したため、 神の栄光を受けられなくなっており、神の恵みによって、24 キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義とされるからです。25 神は、イエスを立てて、その真実によって、その血による贖いの座となさいました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした。26 神が忍耐してこられたのは、今この時にご自身の義を示すため、すなわち、ご自身が義となり、またイエスの真実に基づく者を義とするためでした。
 
  信仰による義
 27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り去られました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。28 なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。…                                                                             
                                  (P272)
 
 これは憶測の域を出ませんが、このように区切ったことには次のような理由があった可能性が考えられます。
 
 26節まではピスティスを「真実」と訳し、27節からは「信仰」と訳しているため、
 
 連続して表記してしまうと、パウロの論理の流れに露骨な不整合があることを読者に悟られてしまいます。
 
 それを避けるために26節で文章をいったん区切り、27節の前に「信仰による義」と見出しをつければ、不整合をうまくごまかすことができます。
 
 もしもこの憶測どおりなら、これは知的な不正になると思います。
 
 このように考えたとき、私は、聖書協会共同訳は信用できない、と思わされました。
 
 おわり

 
 前回の記事を読まれた方から情報提供がありました。
 
 それは聖書協会共同訳の翻訳委員をされた阿部包(あべつつむ)氏といわれるカトリック系聖書学者の講演録でした。
 
 読んでみたところ、聖書協会共同訳・翻訳委員会の内情の一端が垣間見えたような気がしました。
 
 端的に言えば、プロテスタントが掲げる「信仰義認」に対するカトリック側の反発です。
 
 以下に阿部氏の発言の一部を抜粋します。
 
 
 わたしは長年カトリック的な環境の中で生活して参りましたので,次のような素朴な疑問を捨て切れずに来ました。神さまは行為によって義と認めてくださらないとすれば,義と認めてくださる信仰とは一体どのようなものなのだろうか?
 
 行為と無縁な信仰はそもそも存在しうるのだろうか? パウロは本当にそのような奇妙なことを福音の真髄として宣教したのだろうか? わたしが大学院でパウロを読み始めたときも,こうした極めて素朴な疑問は解けていませんでしたし,その後も長い間解けずにきました。
 
 
 
 上記に見られる阿部氏の疑念は、間もなく「信仰義認」に対する強い否定に変貌します。
 
 以下がその部分です。
 
 
21ところが今や,律法とは関係なく,しかも律法と預言者によって立証されて,神の義が示されました。22すなわち,イエス・キリストを信じることにより,信じる者すべてに与えられる神の義です。 新共同訳・ローマ3:21~22 
 
 注目していただきたいのは,22節の「イエス・キリストを信じることにより」と訳されている箇所です。原文ではディア・ピステオース・イエースー・クリストゥーという前置詞句です。
 
(中略)
 
 この前置詞句は,20節後半の「律法をとおして」ディア・ノムーを意識した構造になっています。律法とイエス・キリストのピスティスが対置されているという点が重要です。
 
 つまり,パウロは,律法によっては罪の自覚しか生じない状況のただ中に,その律法とは関係なく,神の義が現されたのだと告げ,この神の義はイエス・キリストのピスティスをとおしてもたらされ,信じる者すべてに及ぶと説明しているわけです。
 
 この文脈にわれわれの信仰が入り込む余地はありません。この点は非常に重要なので,思い切って言いましょう。わたしはわたし自身の信仰によって義とされることは決してありません。(強調は阿部氏本人)
 
出典:同(P5
 
 
 続いて阿部氏は、信仰義認を否定する訳語の講釈をはじめます。
 
 イエス・キリストのピスティスをどう訳すかはともかく,「イエス・キリストを信じること」と訳す可能性は限りなくゼロに近いと思います。この点は,20世紀後半から21世紀初めにかけての新約学の到達点の一つと評価してよいと思います。 
 
出典:同(P5
 
 
検証
 
 上記は博学と思われる聖書学者の言葉ですが、検証すべきであることに何ら変わりはありません(使徒17:11Ⅰテサロニケ5:21)。
 
 阿部氏はまず、「この文脈にわれわれの信仰が入り込む余地はありません」と断言しておられます。
 
 しかし、テクストであるローマ3章の箇所をご覧ください。
 
 阿部氏の言葉とは裏腹に、パウロは「信じる者すべてに…」と記しています(22節)
 
 パウロによれば、神の義を受けるには「われわれの信仰」が不可欠です。
 
 つまり、阿部氏は、パウロの意図を完全に誤解しているのです。
 
 
 次に、阿部氏が強調する言葉にご注目ください。
 
わたしはわたし自身の信仰によって義とされることは決してありません。
 
 阿部氏はこのように力説されますが、これは以下に挙げるパウロの言葉と100%矛盾します。
 
 
新改訳2017・ローマ3:28
人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。
 
新改訳2017・ローマ5:1
こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
 
新改訳2017・ローマ10:10
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
 
 
 蛇足ではありますが、パウロは間違いなく「信仰義認」を教えています。
 
 それにもかかわらず、阿部氏はそれを真っ向から否定するのです。
 
 
 最後に、「イエス・キリストを信じること」と訳す可能性は限りなくゼロに近いとの阿部氏の言葉を検証します。
 
 こうした荒唐無稽な断定表現に騙されてはなりません。
 
 クリスチャン・トゥデイのコラムニストを務める関智征(せき・ともゆき)牧師は、ピスティス・イエスー・クリストゥの訳し方について次のように述べています。
 
 パウロの「ピスティス・イエスー・クリストゥ」における「イエスー・クリストゥ」は、属格形で表現されている。文法的には、名詞クリストスの属格クリストゥをピスティスの目的語と解すれば、ピスティスの意味上の主語はキリスト者であり「キリストを信じる信仰」と訳出できる。(ギリシャ語のカタカナ読みはブログ主ダビデ)
 
出典:新約聖書ガラテヤ書 2:16およびローマ書 3:22における"πστις ησοΧριστοῦ"の日本語翻訳検証、P54
 
 
 上記のとおり、「キリストを信じる信仰」と解せるからこそ、従来の邦語訳はそのように訳してきたのです。
 
 以上はごく手短な検証ですが、阿部氏の発言が信頼に値しないものであることがおわかりいただけると思います。
 
 このような人物が、聖書協会共同訳の翻訳委員を務めていたわけです。

 聖書協会共同訳に見られる信仰義認を否定する訳語(「イエス・キリストの真実による義」など)は、

 カトリックサイドからの反発、あるいは攻撃と言っても過言ではありません。
 
 幸か不幸か、私は聖書協会共同訳を購入してしまいましたが、検証を通じて聖書の学びになればと思います。
 
 おわり

 
 聖書協会共同訳のピリピ書を読んだところ、おかしな訳文に出くわしました。
 
 それはフィリピ3:9(ピリピ3:9)です。
 
 
聖書協会共同訳フィリピ3:9
キリストの内にいる者と認められるためです。には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。
 
                            (強調はブログ主)
 
 他の聖書では、こう訳されています。
 

新共同訳
キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義信仰に基づいて神から与えられる義があります。
 
新改訳2017
キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。
 
 
パウロの義認論
 
「キリストの真実による義」という訳し方の是非を問うために、義認に関するパウロの考え方を理解しておきましょう。
 
 そうすることで、「キリストの真実による義」という概念がパウロの意図したものであったか否かが判別できるからです。
 
 そのために、少し長いのですがガラテヤ3章を参考にします。


 
聖書協会共同訳・ガラテヤ3:1~5
1 ああ、愚かなガラテヤの人たち、十字架につけられたイエス・キリストがあなたがたの目の前にはっきりと示されたのに、誰があなたがたを惑わしたのか。2 あなたがたにこだけは聞いておきたい。あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、信仰に聞き従ったからですか。3 あなたがたは、どこまで愚かなのですか。始めたのに、今、仕上げようとするのですか。4 あれほどのことを体験したのは、無駄だったのでしょうか。そうしようとしているなら、本当に無駄になってしまいます。5 神があなたがたに霊を授けあなたがたの間で奇跡を行われたのは、あなたがたが律法を行ったからですか。それとも、信仰に聞き従ったからですか。
 
 
 パウロは2節で、ガラテヤの信者が御霊を受けた理由(=救われた理由)を問うています。
 
 そこで対比されているのは、「律法」の行いと「信仰」に聞くことです。
 
 パウロは5節で再び、ガラテヤの信者が御霊を受けた理由を問うています。
 
 そこで対比されているのも、「律法」の行いと「信仰」に聞くことです。
 
 この「律法の行い」と「信仰に聞くこと」の対比を覚えていてください。

 ピリピ3:9とも関連するからです。
 

義認のポイントは「信仰」

聖書協会共同訳・ガラテヤ3:6~8
6 それは、「アブラハムは神を信じた。それ彼の義と認められた」と言われているとおりです。7 ですから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「すべての異邦人があなたによって祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。
 
 
 6節でパウロは、アブラハムが義と認められたポイントは、信じることであったと教えています。
 
 続く7節では、「信仰によって生きる人々」(直訳:ピスティスの者たち)こそ、アブラハムの子孫であると説明しています。
 
 つまり、アブラハムと同じ祝福を受けるには「信仰」が不可欠だということです。
 
 8節のポイントも同じです。
 
 神が人を義となさる手段は、「信仰による」と念を押しています。
 
 このように、義認のポイントは「信仰」です。

 これが、パウロの義認に関する考え方です。
 
 
ピリピ教会の問題点
 
 さて、それではピリピ教会の問題に戻りましょう。
 
 この教会の問題も、やはり律法の行いにありました。

 それについて説明します。
 
 ピリピ3章でパウロは、ある人たちのことを「犬ども」「悪い働き手たち」と呼んで問題視しています。


聖書協会共同訳・フィリピ3:2
あの犬どもに気をつけなさい悪い働き手たちに気をつけなさい。形だけ割礼を受けた者たち気をつけなさい。


 2節の後半を見ると、「悪い働き手たち」が割礼を受けたユダヤ人であったことがわかります。
 

聖書協会共同訳・フィリピ3:3~4
神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉を頼みとしない私たちこそ真の割礼を受けた者です。4とはいえ、肉を頼みなら、私にもあります。肉を頼みとしようと思う人がいるなら、私はなおさらのことです。


 続く3節には「肉を頼みとしない私たち」という表現があり、4節にも「肉を頼みとしようと思う人がいるなら」と言われていることから、
 
 ユダヤ人の偽教師たちの教えは、肉を頼みとさせる内容であったことが伺えます。
 
 また、5節には、パウロが八日目に割礼を受けたこと、「律法に関してはファリサイ派」であったことなど、律法を守る者としての誇りが感じられる表現が見られます。
 
 6節には、「熱心さの点では」教会を迫害するほどであったこと、「律法の義に関しては非の打ちどころのない者」であったことなどが挙げられています。
 
 これらのことから。パウロがピリピ教会で取り扱っていたのは律法主義の問題であったと考えらえます。
 
 この文脈の中で語れているのが、ピリピ3:9です。
 
 ですから、律法の行いを取り扱ったガラテヤ人への手紙を参考にすることは理に適っています。
 
 従って、パウロはピリピの教会に対しても、義と認められるためのポイントは「信仰」であると語たったはずです。
 
 このことを支持する表現として、ピリピ3:9の冒頭の「キリストの内にいる者」という表現があります。
 

聖書協会共同訳フィリピ3:8後半~9
それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。
 

「キリストの内にいる」(直訳:彼の内にいる)という表現は、パウロが「キリストとの一体化」を言い表すために使う表現です。

 このことから、9節においてパウロは、キリストとの一体化と義認を関連づけていることがわかります。
 
 この関連性が、「信仰」の重要性につながります。
 
 そのことを示す箇所として、1コリント15:22を挙げます。
 
 
1コリント15:22・口語訳 
アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。
 
 
アダムにあって」の直訳は、「アダムの内において」です。
 
 これはアダムと一体化していることを示す表現です。

 アダムが神に逆らって霊的に死んだように、アダムの内いる人は皆、霊的に死んでいます。
 
 同様に、キリストの内いる人、すなわち、キリストと一体化している人は皆、霊的に生かされています。
 
 つまり、私たちがアダムからキリストに移行される手段が、信仰であるということです。
 
 このことから、次の結論が導き出されます。
 
 キリストとの一体化は「信仰」によって生じるものであって、「キリストの真実」によって直接生じるものではないということです。
 
 たとい「キリストの真実」が目の前に存在するとしても、「信仰」によってそれを信じない限り、その人はキリストと一体化しないからです。

 従って、ピリピ3:9は、信仰が重点になる形で訳されるべきです。


新共同訳・フィリピ3:9
キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義信仰に基づいて神から与えられる義があります。


 この結論を支持する箇所として2コリント5:21を挙げます。

 パウロはこの箇所で、人はキリストと一体化することによって「神の義」になると教えています。
 
 
2コリント5:21・口語訳
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
 
 
 この箇所における「彼にあって」というフレーズは重要です。
 
「彼にあって」とは「キリストとの一体化」を表しているからです。
 
 つまり、人が神の義となる鍵は、神と人をつなぐ「信仰」にあるのです。
 
 そういうわけで、ピスティスを「信仰」と訳す従来の訳し方がパウロの義認論を的確に表していると思います。 
 
 おわり

 


 聖書協会共同訳のローマ1:17は、次のように訳されています。
 
 
聖書協会共同訳
神の義が福音の真実により信仰へと啓示されてるからです。正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。           
                           (強調はブログ主) 
 
 通常、この箇所は次のように訳されます。
 
 
新改訳
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
 
新改訳2017
福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
 
 
 さて、前者と後者の違いは明白です。
 
 前者は「真実」と「信仰」という別々の訳語が使われており、後者は「信仰」という同じ訳語が繰り返されているということです。
 
 それでは、どちらの訳し方が正しいのでしょうか?
 
 
ギリシャ語のイディオム 
 
 実はこの箇所には、ギリシャ語のイディオム「エク~エイス~」が使われています。
 
 以下は、ローマ1:17の原文です。
 
 
δικαιοσύνη γὰρ θεοῦ ἐν αὐτῷ ἀποκαλύπτεται ἐκ πίστεως εἰς πίστιν, καθὼς γέγραπται, Ὁ δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται.
 
 
ἐκ~εἰς~」のエクとエイスの後ろには、それぞれピティス(信仰)が来ています。 
 
 この「エク~エイス~」というイディオムは、他の箇所でも使われています。
 
 
2コリント2:16
滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。
 
ἐκ θανάτου εἰς  θάνατον, οἷς δὲ  ὀσμὴ  ἐκ  ζωῆς   εἰς  ζωήν.
エク サナトウ エイス サナトン  オイス デ オスメー エク ゾーエース エイス ゾーエーン
 
 
詩篇84:7(七十人訳では詩篇83:8)
彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。
 
七十人訳・詩篇83:8前半
πορεύσονται   ἐκ  δυνάμεως   εἰς   δύναμιν
ポレウソンタイ エク デュナメオス エイス デュナミン
 
                       出典:アカデミック・バイブル・ドットコム  
 
エレミヤ9:2
彼らは舌を弓のように引き絞り/真実ではなく偽りをもってこの地にはびこる。彼らは悪から悪へと進み/わたしを知ろうとしない、と主は言われる。
 
 
 七十人訳の「悪から悪へと」の部分には、やはりエク~エイスが使われています。
 
 ἐκ   κακῶν   εἰς  κακὰ     出典:アカデミック・バイブル・ドットコム
 エク カコーン エイス カカ
 
 
 このように「エク~エイス~」はイディオムであり、エクとエイスの後ろにはそれぞれ同じ言葉が繰り返されます。
 
 当然のことながら、訳文にも同じ訳語を繰り返さなければなりません
 
 それを知ってか知らずか、聖書協会共同訳は「真実」と「信仰」という別々の訳語を入れいているのです。
 
 このような恥ずかしい誤訳をしたのは、ピスティスを「真実」と訳したがる肉的なこだわりが原因ではないでしょうか。
 
 賢明なる聖書学徒の皆さんは、二の舞を演じることのないようご注意ください。
 
 ピスティスは、素直に「信仰」と訳しましょう。
 
 おわり

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